限定しりとり

1. 対象がわれわれの周りを回っていて
われわれの身にそなわった感官を刺激して 
そこに得られた視覚や聴覚などの知覚にもとづき
人たるわれわれは そのイメージを言葉≒概念に変換する。
――これは 認識論における天動説だそうな。

2. では コペルニクス的転回をほどこすならば どうなのか?

3. 地動説では こうだと言う。
われわれが 認識の主体として(意識の統覚主体として)
対象に向かいあたかもその周りを回って
生まれつきそなわった認識の形式――時間や空間あるいは因果関係――をもちいて
この形式のもとにこそ
対象を知覚しそして概念として認識する。

4. 人間の認識能力としての
時間や空間あるいは因果関係といった形式によってこそ
対象について認識するのだから 対象はその認識に従っている。

5. 対象についてそれは 神の被造物であるという問題・言いかえると
神の摂理のもとに合理的に配置されており その中でこそ認識されるという見解
この見解との関係では 
神の代わりに《物自体》を立てた。

6. 対象は 神と直接につながっていると見るのではなく
たとえ間接的に連絡しているとしても それも 人間には知り得ない。
と見た。
だから その代わりに 人間には認識しえない《物自体》を立てておいた。

7. 人間の認識しうるのは 
物自体の仮りのかたち・あるいはつまり現象〔のみ〕である。と。

8. 対象についてこの現象にかんしてなら 
人間は持ち前の認識形式によって 人間の側の能力のおよぶかたちで
認識することができる。
――という認識論ないし世界観を推し出した。

9. ところが 対象である世界は 
《場》としてもともと 時空間として・四次元世界として 成り立っている。
因果関係だって 同じだ。
何も生得の認識形式といったような人間の専売特許ではない。

10. よね? 何がどうなっているのか? 解説をお願いします。

A 回答 (6件)

認識とは主観だから、ではないでしょうか。

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この回答へのお礼

対象となる世界と切り離してしまって 主観つまり自分だけを
見ていては いけません。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/10/19 01:43

〈天動説〉は世界に対しての人間は受け身的である故に、不確かな存在を理的には説明できていない。


これに不満なカントは理的な説明をしようと〈地動説〉を唱えた。そして自らこの考えを「コペルニクス的転回」と称した。
これはこれで、いいのではないでしょうか。

人間は《形式》の中にいるので、受けとめる情報も《形式》の内に現れている情報のみである。
若し、その情報が世界の総てであるならば、人間は満足こそすれこの世界に対する疑問は持たなくてすむはずだ。
にもかかわらず・・・とカントは考えて〈地動説〉を唱えたのだと思います。

認識できないのに意識してしまう事がある。
その、何かあるのではないかという心持から、それをカントは《物自体》と名づけた。

と、云う事ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 〈天動説〉は世界に対しての人間は受け身的である故に、不確かな
存在を理的には説明できていない。
☆ そうですかね。《受け身》の姿勢で あとは思う存分その対象につ
いて研究して来たのではないでしょうか? ギリシャの昔から。

つまり 地動説はけっこう昔から(エジプトなどで)あったようですが
天動説のもとで 人びとはじゅうぶん何とか《理的に説明しよう》とし
て来ていますよね。


★ これに不満なカントは理的な説明をしようと〈地動説〉を唱えた。
☆ いや。天動説のごとくすべての認識を 神とその摂理のもとに捉え
るというのでは おかしい・・・と思ったのでしょうね。そういう意味
で《理的に知ろうとした》のでしょう。


★ そして自らこの考えを「コペルニクス的転回」と称した。
これはこれで、いいのではないでしょうか。
☆ その場合は 動機と言いますか そのときの向きを変えようとする
動きのことを言っていますね。

でも 実際には そう(それだけ)ではなく そのあとに得られた理論
についてもじゅうぶん《言いふらして》いるわけです。

★ 人間は《形式》の中にいるので、受けとめる情報も《形式》の内に
現れている情報のみである。
☆ ということだとしても そのとき この《形式――時空間や因果性
――》は もともと対象となる環境世界のほうにも そのまま織り込ま
れているわけです。

なのに 人間の側だけのハタラキを全面に打ち出していますよね?


★ 若し、その情報が世界の総てであるならば、人間は満足こそすれこ
の世界に対する疑問は持たなくてすむはずだ。
にもかかわらず・・・とカントは考えて〈地動説〉を唱えたのだと思い
ます。
☆ 《にもかかわらず》という逆接が分からないのですが 問題は 人
間の側においてその生得の認識形式によってのみ認識が成る・・・とい
うのであれば それは 言い過ぎだ。という物言いです。環境世界にも
その――時空間などの――要因はあるのだから。

★ 認識できないのに意識してしまう事がある。
その、何かあるのではないかという心持から、それをカントは《物自体》
と名づけた。
と、云う事ではないでしょうか。
☆ 物自体やそれを想定することに いま反対しているわけではないで
すよ。

お礼日時:2018/10/18 23:33

続けます。


5.《物自体》を今回は次の様に捉えてみます。
物理的に現れている“真の姿”の事であると。
カントは神を想定していたかも知れないが、ここでは“神”を省きます。
なぜ、カントは認識外に物自体を想定したかと云えば、人の認識能力は完璧では無いと感じていたはずだから。自身の認識能力に限界を感じるものがあって、認識し切れない“真の姿”を《物自体》と表現したのでしょう。カントには《物自体》に神を見たかったのかも知れないが、私の見解である「認識とは自身の心の想を見留める事」と云う観点に立てば、神は不要なのです。
物理的な真の姿で十分なのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 5.《物自体》を今回は次の様に捉えてみます。
物理的に現れている“真の姿”の事であると。
☆ 現われてはいないでしょう。あるいは 現われていたとしても
人間には見えない。認識することは出来ない。

★ カントは神を想定していたかも知れないが、ここでは“神”を省
きます。
なぜ、カントは認識外に物自体を想定したかと云えば、人の認識能
力は完璧では無いと感じていたはずだから。
☆ そのように《完璧な認識》は 《神》の成し得ることですから
神とはやはり関係はあるはずです。

ですが 省いても構わないと思います。


★ 自身の認識能力に限界を感じるものがあって、認識し切れない
“真の姿”を《物自体》と表現したのでしょう。
☆ それで構わないと思います。


★ カントには《物自体》に神を見たかったのかも知れないが、私
の見解である「認識とは自身の心の想を見留める事」と云う観点に
立てば、神は不要なのです。
物理的な真の姿で十分なのです。
☆ 《真の姿》についての認識は 神でなければ出来ないという捉
え方は 嫌でも みとめているはずですが 別に神を持ち出さなく
ても 認識論にかんしては かまわないと思います。



実践理性(≒意志)にかんしては 物自体が 道徳の言わば源泉に
なるかのように見られます。





要するに この質問は こうです。
〇 時間および空間あるいは因果関係といった・知覚ならびに認識
の形式は――対象たるモノないし世界にも そのままそなわってい
るからには――何も人間の専売特許ではない。
☆ ではないか? です。

お礼日時:2018/10/17 20:21

1.認識論としての天動説は、強ち間違いとは思えません。


対象有ってこそ、ですものね。

3.ここで使われている「認識形式」に付いて、思い切った意見を云ってみます。

人の認識形式は、その人の心の形状の事であると。
故に、認識形式は人それぞれの心の形状に従うので、形式とは云っても同じとは云えない。
あるいは共通のものでは無いと。

4.人間の認識能力としての形式とは、自身の心の形状の事なのだから対象はその認識に“従う”と云えます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 1.認識論としての天動説は、強ち間違いとは思えません。
対象有ってこそ、ですものね。
☆ つまり モノがわれの周りを回っている。と同時に われはモノの
周りを回っている。どちらも ありだ。と。



★ 3.ここで使われている「認識形式」に付いて、思い切った意見を云
ってみます。
☆ はい。

★ 人の認識形式は、その人の心の形状の事であると。
☆ いや。その心の形状の中身は 感性による知覚にあっては 時間お
よび空間として成っており 悟性による認識としては 例の因果関係な
どの形式だと言います。


★ 故に、認識形式は人それぞれの心の形状に従うので、形式とは云っ
ても同じとは云えない。
☆ 上に挙げた・誰にも共通の形式です。

★ あるいは共通のものでは無いと。
☆ 共通であるゆえに 認識がそれなりに確かなこととして成り立つと
いう仮説です。



★ 4.人間の認識能力としての形式とは、自身の心の形状の事なのだか
ら対象はその認識に“従う”と云えます。
☆ それは そうです。われはわれにそなわった時空間という形式によ
って対象たるモノを知覚し認識するというのですから。

し・か・も・同・時・に モノも 世界にあって 同じ時空間を構成し
ている。とすれば 《対象が認識に従う》というひとつの側面だけには
限られない。はずではないですか?

世界が モノとしても人間のわれとしても 時間・空間なる四次元の場
として成り立っている。

モノは認識行為をなさないが 人間がこれをおこなう。という違いだけ
ではないですか?

世界は・モノたる対象は 人間に・その認識に従う――と言い切ってよ
いでしょうか?

四次元の場というのは 人間にもモノにも共通の土壌であり 座標とし
て共通の形式でしょう。

お礼日時:2018/10/17 18:41

物自体とは、真の姿の事だ。



人がなにか物事を認識する、と云う事は心に於いてである。心を通してである。
と云う事は、云い返れば心を見ている、と云う事だ。

例えれば、眼と云うレンズを通して集まった情報を網膜に写し取り、それを脳がキャッチする。
こういう事なのだ。これが認識の正体なのだ。
客観物を捉えた網膜の情報を、見ているのであって、客観物(対象)をそのままダイレクトに見ているのではないと云える。

これが対象は認識に従うと云う事だ。

もし網膜に傷でもあったらどうする!
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 物自体とは、真の姿の事だ。

★ 人がなにか物事を認識する、と云う事は心に於いてである。心を通して
である。
と云う事は、云い返れば心を見ている、と云う事だ。
☆ 認識しているときのその行為 あるいは 認識したその対象のこと(そ
の表象ないし概念)をあらためて心に集中して思うならば それとしての意
識が 現われています。

その意味で:
★ 心を見ている




★ 例えれば、眼と云うレンズを通して集まった情報を網膜に写し取り、そ
れを脳がキャッチする。
こういう事なのだ。これが認識の正体なのだ。
☆ 脳がキャッチして 悟性がその視覚の像を 言葉≒概念に翻訳します。

★ 客観物を捉えた網膜の情報を、見ているのであって、客観物(対象)を
そのままダイレクトに見ているのではないと云える。
☆ 客体たるモノをダイレクトに見た結果 網膜の像を捉え 概念としての
認識へつなぐ。

★ これが対象は認識に従うと云う事だ。
☆ モノを見たとき 視覚の感官が刺激される。そのあと認識がなされるな
ら その認識は 対象にしたがっている。

そして もしその視覚による視像を捉えること自体において 人間の時間お
よび空間という認識形式がはたらいている。よって 対象は認識に従うとい
うのであれば そのときの時間や空間は じつは 人間にもそなわっている
としても 対象たるモノについても 同じように四次元の世界としてそなわ
っている。

認識の形式というのは 人間にもモノにも どちらにも同時にひとしくそな
わっている。はずではないですか? という問いです。



★ もし網膜に傷でもあったらどうする!
☆ どうもしません。認識論にとって。

お礼日時:2018/10/17 18:23

時空間と云うのは物の理・物理と云える。


そこに現れている「物」は時空に束縛される。
主観に対する客観はこの「物」の事である。

カントに依る「認識」は、人間の認識の不確かさを表している。
対象が認識に従うとは、認識したものは対象を正確に表していない事を云っている。

人間の認識能力は過信出来ない。

☆ 時間が無くなったので思考は中断です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 時空間と云うのは物の理・物理と云える。
そこに現れている「物」は時空に束縛される。
☆ 表現を変えますが モノは 時空間という場の中にあると同時に
モノという単体じたいも 時空間として成り立っている。

三次元の座標をそなえていると言え 第四次元の時間軸もあります。

モノは 意識をしませんが その中も外も 空間であり時間が流れて
いる。


★ 主観に対する客観はこの「物」の事である。
☆ 《客体》ですかね。つまり 対象です。



★ カントに依る「認識」は、人間の認識の不確かさを表している。
☆ ただし 時間および空間は 人間に生得のものとして認識にとっ
て普遍的な形式と成っている。この形式にもとづくかぎり 対象の認
識は 確かなものだと言っています。



★ 対象が認識に従うとは、認識したものは対象を正確に表していな
い事を云っている。
☆ それは 違います。対象たるモノの物自体は 認識しえないが
物自体の仮象としての現象については それなりに(認識の能力のゆ
るす範囲で) 確実な認識が得られると言っていると思います。

★ 人間の認識能力は過信出来ない。
☆ 上に述べたかぎりで 限界があると同時に 確からしさを持つと
考えられます。

お礼日時:2018/10/17 18:09

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