フランスのフランス革命から第二次世界大戦までのフランスの国内情勢、
国内がどんな世の中だったのか、どんな風潮だったのか、どんな流れなのか、
(フランス革命とか、ブルジョワジーの戦争とか、レジスタンスとか、
また、それによってどんな風な流れになっていったのかなど・・・。)
詳しい人、教えてください。自分だけではどうにも理解できないので、
細かく、解かりやすく教えてください。

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A 回答 (1件)

役に立ちそうな参考書籍を紹介しておきましょう。


特に一番最初の中公新書版は入手しやすいので持っておいて損はないです。
また、デュプーの社会史も貴方の知りたい時代範囲にぴったり合致しているので一読おすすめします。

渡邊啓貴著『フランス現代史』(中公新書)
デュプー著、井上幸治監訳『フランス社会史(1789~1960)』(1968・東洋経済新報社)
河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社)
海原峻著『フランス現代史』(1974・平凡社)
西海太郎著『現代フランス政治史』(1960・学芸書房)
服部春彦・谷川稔編『フランス近代史』(1993・ミネルヴァ書房)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2001/07/29 23:31

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Q第二次世界大戦の原因

第二次世界大戦の原因

第一次世界大戦でこりたにもかかわらず、どうして短期間のうちに第二次世界大戦が起こったのでしょうか。

第二次世界大戦の根本原因を教えてください。

また、どのような原因と結果の積み重ねで第二次大戦が起こったのか、その「原因と結果の流れ」を教えてください。

Aベストアンサー

第二次大戦は規模が大きかったから目立つだけで、歴史的にはむしろよくあるパターンが再度繰り返されたように見えます。

つまり経済的に貧しい国が、富国強兵・富国強兵で軍備を増強して富裕国へ攻め込むというパターン。第二次大戦ではこのパターンの国がドイツと日本の2国あったので規模が大きくなりましたが、世界史的にはゲルマン人のローマ帝国侵略とか、突厥の中国蚕食とか、中世の十字軍も広い意味でいえばそうであるし、日本史でも武田軍の信濃侵攻とか、島津軍の九州北上みたいなもの。これらの場合、侵略には略奪がセットになっているので、貧しい国にとっては戦争は半分経済活動でもあった訳です。

そう考えると、第二次大戦の根本要因は貧富の差だといえます。
で、貧富の差は現在むしろ大きくなっているので、第二次対戦で懲りたどころか、同じようなものは再度おこってもおかしくないと考えるべきです。一例を挙げればイラクとリビアと北朝鮮みたいな国、これが同時に暴発して、中国あたりが援助すれば用意に第三次大戦にはなり得るでしょう。
その抑止力があるとすれば核でしょうか。つまり、今度大戦をやったら勝者はいないという意識が辛うじてそのような事態を食い止めているのかもしれません。

第二次大戦は規模が大きかったから目立つだけで、歴史的にはむしろよくあるパターンが再度繰り返されたように見えます。

つまり経済的に貧しい国が、富国強兵・富国強兵で軍備を増強して富裕国へ攻め込むというパターン。第二次大戦ではこのパターンの国がドイツと日本の2国あったので規模が大きくなりましたが、世界史的にはゲルマン人のローマ帝国侵略とか、突厥の中国蚕食とか、中世の十字軍も広い意味でいえばそうであるし、日本史でも武田軍の信濃侵攻とか、島津軍の九州北上みたいなもの。これらの場合...続きを読む

Qフランス革命の時、ナポレオンが総裁政府を打倒したことによってフランスが平和になったため、フランス革命

フランス革命の時、ナポレオンが総裁政府を打倒したことによってフランスが平和になったため、フランス革命の終結となっていますが、なぜ、総裁政府を倒すと平和になるのですか?

Aベストアンサー

他国とに戦争状態であるにもかかわらず、過激な政策や権力争いで内政は混乱、
ナポレオンとシエイエスはクーデターでそれにとどめを刺して、以後、統領政府を経て第一帝政になりました(内政は安定しました)という意味です。

Q今卒業論文を書いていますが、第二次世界大戦中の日本が行なったファシズムについて書こうと思っています。

今卒業論文を書いていますが、第二次世界大戦中の日本が行なったファシズムについて書こうと思っています。
参考になれる本や資料について教えてください。

また、そもそも日本は第二次世界大戦中にファシズム政治を行っているいるのか教えてください。

Aベストアンサー

俗説を盲信しているようですが、日本にはヒトラーのドイツや、ムッソリーニのイタリアのようなファシズムはありませんでした。 日本にファシズムが存在したと言う話をでっち上げたのは、アメリカ、イギリス、ソ連を始めとする当時の連合国側であり、第二次世界大戦は彼らによって「ファシズムと民主主義の戦争」だと規定され、後者の当然な勝利によって終結したと説明され、理論づけられたものです。 日本にファシズムがなかったことは、林房雄氏の著書『大東亜戦争肯定論』(夏目書房)を読めば良く解ります。

Qフランス革命以前のフランスの国旗はどんなデザイン?

先日、テレビでアニメの「ベルサイユのばら」を観ていました。

フランス革命の頃のパリが舞台のお話で、ちょうどロペスピエールだか誰だかが
「自由・平等・博愛」でおなじみの青白赤の三色旗を背に演説しているシーンです。
なにやら、ルイ16世の批判をしているようでした。

さて、フランス革命で件のトリコロールが制定されたのは判りました。
じゃあ、その前..フランス革命以前のフランスの国旗ってどんなだったのでしょう?

いくら王国だったとはいえ、近所のイングランドやロシア、スウェーデンの国旗は有名だし
きっと、ナニガシカの旗があったと思うのですが?どうでしょう?

Aベストアンサー

下記のURLはどうでしょうか?

参考URL:http://www.j-flags-java.org/merumagafrance.htm

Q第二次世界大戦時の日本の軍事力は現在の北朝鮮と比べてどうですか?

第二次世界大戦では歴史に名を残すような戦闘機や戦艦がありましたよね?
今の北朝鮮と当時(昭和前半)の日本が戦争してたら
どっちが勝つでしょうか?(核兵器なし)

また、何故第二次世界大戦では民間人を多く殺したのですか?
最近の戦争(イラク攻撃)など見ていると、民間人を避けて軍事施設などを中心に攻撃してますよね。
しかし第二次世界大戦では、連合軍は日本の軍事施設だけでは無く、都会を中心に無差別爆撃してますよね?原爆なんか特に軍事施設を狙った訳でもなく、明らかに民間人を狙ってますよね。

日本もそうですが、何故あの時代の戦争は民間人をも大量虐殺したのですか?

Aベストアンサー

非現実的な質問ですが、できるだけ現実的に回答しましょう。

先ず、昔の日本軍と現在の北朝鮮軍との戦いの勝者は、疑いなく北朝鮮軍です。
戦いにおいては、力の強いほうが勝ちます。力とは、第一に火力です。昔の日本軍の火力は貧弱で、当時のソ連軍にも劣り、なすすべもなく撃滅されました(ノモンハン事件)。北朝鮮軍はそのソ連軍の直系の子孫であり、もちろん、その火力は当時のソ連軍の数十倍です。北朝鮮の海軍は小規模ですが、それでもゼロ戦や戦艦大和などのオモチャが通用するほど弱い軍隊ではありません。昔の日本軍が勝利する可能性はゼロです。

次に、攻撃目標についてです。100年前の第一次世界大戦終了後、従来、漠然とした不文律として存在していた戦時における民間人の保護が「陸戦の法規及び慣例に関する条約(別名:ハーグ条約)」により明文化されました。その後、このルールは少しずつ整備され、現在では「軍事目標主義」という戦争における重要なルールとして確立されています。
しかしこのルール、常に違反が絶えないように見えます。これには理由があります。

軍人は、民間人を殺傷してはいけないことは熟知しています。しかし、軍事目標と民間施設が近接している場合、軍事目標を攻撃することによって周辺の民間施設に被害が及ぶことは避けられません。軍事目標は、当然、攻撃を受ける(攻撃してよい)のですから、その近傍の民間人を保護するのは政府の責任です。
また、戦場において軍事目標(敵)と民間人・施設を瞬時に、かつ、確実に区別することは、現在の軍事科学技術を駆使しても不可能であり、両者の間には常にグレーゾーンが存在します。このようなグレーゾーンに対する攻撃は、事前に、戦場において実行可能な偵察・調査を尽くしたうえで攻撃することが認められています。軍事施設の可能性が高い、と判断して攻撃したが、実は民間施設であった場合、民間人の犠牲が発生しますが、上記のような偵察・調査を実施した上でのものであれば、戦争に伴うやむを得ない犠牲ということになります(攻撃は合法)。
第二次大戦中の米軍による本土爆撃は、ハーグ条約の防守都市に対する攻撃として行われており、当時の戦時国際法を前提としても合法・違法の意見が分かれるものです(個人的には違法と考えます。しかし、合法論も根強く、例えば、昭和天皇は合法と考えていました)。ただし、戦時国際法が厳格化した現在、同じことをやれば、確実に違法とされます。

現在の日本人は、戦争についてあまりにも無知です。No.5あたりも、根本的なルールを知らず、そしてそれに対する自己の無知を知らず、枝葉末節の事実に幻惑されています。殺す、殺されるなどということは、誤解を恐れず言えば、戦争においてはどうでもいいことです。なぜなら、戦争のルールを守って殺せばいいのですから。大切なことは、ルールを知り、それを可能な限り遵守することなのです。ルールの枠内で行なわれる殺傷行為は合法・正当、これが国際社会の一般常識なのです。

非現実的な質問ですが、できるだけ現実的に回答しましょう。

先ず、昔の日本軍と現在の北朝鮮軍との戦いの勝者は、疑いなく北朝鮮軍です。
戦いにおいては、力の強いほうが勝ちます。力とは、第一に火力です。昔の日本軍の火力は貧弱で、当時のソ連軍にも劣り、なすすべもなく撃滅されました(ノモンハン事件)。北朝鮮軍はそのソ連軍の直系の子孫であり、もちろん、その火力は当時のソ連軍の数十倍です。北朝鮮の海軍は小規模ですが、それでもゼロ戦や戦艦大和などのオモチャが通用するほど弱い軍隊ではあり...続きを読む

Qフランス革命は共産主義革命?

フランス革命は共産主義革命だったのではないでしょうか?
1793年~94年の恐怖政治はジャコバン派独裁政権で旧ソ連や中国の共産党と被るのですが…。
また、民主党はフランス革命を再現しようとしたんでしょうか?
フランス革命の精神は自由、平等、博愛ですが、博愛を友愛に変えればフランス革命の精神と被りますし…。

Aベストアンサー

そのような分析をする学者もいるようです。

フランス革命で唱えられた自由、平等、友愛の言葉は、近市民社会や民主主義の根本思想になりました。しかし恐怖政治が行った反革命分子の粛清は、日を追うごとに残忍になっていき、遂には正当な裁判をせずに即刻処刑されるようになりました。

共産主義が取り入れたのは「革命」の理念いうより、自分の主張を成し遂げるためには殺戮を厭わない恐怖政治の「手法」だったようです。スターリンや毛沢東が学んだのは「血の粛清」という合法的に同胞を殺戮する方法です。

因みに「恐怖政治 (Reign of Terror)」は「テロリズム」「テロリスト」の語源になっています。

Q太平洋戦争や、第二次世界大戦を起こしたのは、本当に日本なんですか?

太平洋戦争や、第二次世界大戦を起こしたのは、本当に日本なんですか?

Aベストアンサー

第二次大戦のヨーロッパ戦線はすでにドイツにより
開始されているので、おいておくとして、
太平洋戦争(対米英戦争)は、日本が米英に攻撃開始し、宣戦布告しているので、
日本が起こしたのは間違いない。
日本が米英を攻撃し、宣戦布告するように仕向けたのは米国だとの評価がありますが、
そうだとしても、日本が攻撃開始し宣戦布告した事実はなくならないため、日本が起こしたのでよいはず。
英米が起こすよう仕向けたとして、仕向けたことをもって起こしたと表現することがあってもいいかもしれないですが、その場合でも、日本が起こしていないというのは不正確だと思います。

Qフランス革命時のフランス軍の強さについて

 フランス革命後、(1793年に)オーストリア・プロシア連合軍がフランスに宣戦布告してヴァミールの戦いまでフランス軍は連戦連敗だったにもかかわらず、ヴァミールの戦い以降は連戦連勝で1813年にナポレオンがロシアで敗れるまでは負け知らずでした。
 一体、何がフランス軍をかえたのか、おしえてください。

 

Aベストアンサー

まずヴァミールではなくヴァルミー(Valmy)です。
ちなみにこのヴァルミー会戦は砲撃戦と合唱があっただけで
たいした戦闘はなくて、もともと戦争に消極的だったプロシア軍が
一応前進を阻止されたの口実に退却を始めただけです。
それでこの会戦はフランス軍が勝利したとは言い難い戦いでしたが、
最後まで戦場に残ったほうが勝者という慣例に従ったまでです。
ま、たしかに共和国軍最初の勝利ではあるのですが、
両国の政治的背景が影響したものだといえますから
ゲーテはフランス兵の士気の高さに驚いただけで、勘違いだったのです。

さて、ところで連合軍がフランスに宣戦布告したのではなくて、
フランスが各国に宣戦布告したのです。
革命戦争はすべてフランス側から宣戦布告となるというのは
必ずチェックされる要注意ポイント。
そして自ら宣戦布告したにもかかわらず、フランスには戦争の準備が
まったくなく、軍の指導者たちは最初から開戦に反対していたのですが、
さらに彼らはすべて大貴族出身だったので、
ロシャンボーやリュクネル、ディロンら軍司令官は
平民で革命派が多い兵士に信用されておらず、相互不信から軍隊は敵と戦う以前に
味方同士で足の引っ張り合いをしていました。
さらに兵士の大半も連盟兵など興奮して革命に参加しただけのド素人が主で
秩序も訓練もされてない部隊が多かったことから、
兵士は銃の使い方も知らず、そもそも銃も不足してたのですが、
何かあると大混乱し、貴族士官の命令に反抗したり、
勝手に隊を離れたり、家族を連れてきていたり、
気に入らない味方の司令官を銃撃したりしたので、
フランス軍は戦うたびに負けるという状況になったわけです。
これは当然です。戦う状態になかったわけですから。

つまりは何が変えたのかではなく、あなたが知るべきは
まず1792年および各年の状況はどうだったか、どういう展開であったかということです。
それを知らないで、大雑把に考えすぎてますから、
何かでガラッとかわったかのような誤解してますね。
実際には積み重ね、変遷があるわけで、状況にも依存します。

”ヴァルミー以後は連戦連勝”といことはありません。
革命戦争初期だけを見ても、勝ったり負けたりです。
詳しく語るのは面倒なので、非常に大雑把(それでも長いが)にいうと、
革命戦争は1792年の最初の二週間はフランス軍の大混乱で負け続け、
ラファイエットは対外戦争よりも革命鎮圧のために軍を使おうとして失脚します。
ちなみにルイ16世ら王党派と立憲派の一部は戦争にわざと負けて
外国軍を呼び寄せようと画策もしてました。
ブランシュバイク公のプロシア軍を主体とする干渉軍がパリへ進撃を始めて、
ヴェルダン要塞を攻略したのでパリ市民はパニックに陥って
監獄に収監されていた不幸な人々を、王党派だと誤解して大虐殺をするという九月の虐殺事件が起きます。
それから外相のデュムーリエが将軍として戦場の建て直しを始めて
ヴァルミー会戦で一応、プロシア軍の前進を阻止します。
ちなみになんでプロシア軍が干渉軍の主体になったかというと、
オーストリアはトルコとの戦争にも晒されていて、
フランスに介入したくなかったので、少し進んだ後はとまって
プロシア軍と亡命貴族軍だけをすすませたという外交的策略をつかいました。
そしてプロシア王は、何の利益にもならないこの干渉戦争で
自分の武名を高めようと考えていて、老臣たちの反対を押し切って
介入していたわけで、ヴァルミーで前進をやめたのはまさに
国王を説得できるだけの努力はしたので、もう帰ろうということだったのです。
ヴァルミーの後、デュムーリエはプロシア軍と交渉し後に講和します。

デュムーリエ将軍は(帝国領)ラインラントと、オーストリア領ネーデルランドに照準を定めます。
これは自然国境というフランスの古くからの戦略に沿ったもので、
ラインの西側を占領してフランスの安定的国境をライン川に定めるというものです。
そしてこれによって戦争を勝利しようというのが彼の計画でした。
プロシア軍が勝手に帰ったので兵力が少なくなった連合軍に対して、
ジェマップ会戦で勝利しますが、この年の冬から1793年の春にかけて補給物資が欠乏し、
フランス軍では契約を終えた兵士が大量に帰郷したこともあわせて
兵員の数が激減します。またルイ16世の処刑が1月に行われたこともあって、
ヨーロッパの君主国家は危機感を強めます。
フランスが(当初は革命を支持していた)イギリスに宣戦布告したので、
イギリスの資金援助を得たオーストリア・神聖ローマ帝国加盟国が本格的な干渉を始めます。
それでフランス軍は占領した地域を次々に失い、後退を強いられます。
デュムーリエはベルギーから軍を引き返してきますが、ネールウィンデンで敗北します。
この後、デュムーリエは裏切ってしまうので、
この混乱の後でフランス軍は何度も敗北してダンピエール将軍などは戦死してしまうほど。
この危機に国民公会は、カルノーを公安委員に迎えて軍の再建を任せます。
この人物がフランス軍に徴兵制度などをもたらし、軍事戦略を一本化するなど
数々の改革を行ったリフォーマーです。
しかし徴兵制は、各地での反乱を引き起こしたので、
ヴァンデと南フランスで王党派の蜂起があり、内戦となってフランスが最も苦しんだ時期に来ます。
しかし主戦場ではカルノーの主導でオンドショットで勝利して、ワッチニー会戦で辛くも勝利して
オーストリア軍のパリへの進撃の希望を打ち砕き、ヴァンデもナント市を防衛し、
この年の終わりにはツーロンを奪回するなど一定のめどをたてます。
これを期に、戦争は防衛的性格から、侵略的性格に変わっていきます。


さて、ここからさきも一進一退あるのですが、これ以上語ってられないので
ここまでにしますが、もう一点、いっておくと、
もともとフランスという国は、当時の最大最強の陸軍国家であって、
強い軍隊の下地があったということは忘れてはなりません。
特に7年戦争後の軍事理論の革新(ブールセ、ギベール、マーユボワら)が
フランス(ロシアでも同様の進展があった)では広く採用され、理解されていたことで、
オーストリアやプロシアといった旧態依然とした軍隊との差を生みました。
ナポレオンも彼らの学説を学生時代から学んで、それを活かしいったわけで
軍制というのは、一夜にしてかわるものではないのです。
しかも実験と実例が必要とされるというのも、詳しくは説明しませんが、付け加えておきましょう。


だからすでに革命前にフランス軍を強くする理論は確立されていたというのが回答です。
カルノーやナポレオンなど、これらに精通する人々が、実務家になったことで
それが理論が実現段階にいたったというだけの話なんです。

まずヴァミールではなくヴァルミー(Valmy)です。
ちなみにこのヴァルミー会戦は砲撃戦と合唱があっただけで
たいした戦闘はなくて、もともと戦争に消極的だったプロシア軍が
一応前進を阻止されたの口実に退却を始めただけです。
それでこの会戦はフランス軍が勝利したとは言い難い戦いでしたが、
最後まで戦場に残ったほうが勝者という慣例に従ったまでです。
ま、たしかに共和国軍最初の勝利ではあるのですが、
両国の政治的背景が影響したものだといえますから
ゲーテはフランス兵の士気の高さに驚いた...続きを読む

Q【歴史・日本史】日本の休日が日曜日になったのは、アメリカに負けて第二次世界大戦後のアメリカ占領下の時

【歴史・日本史】日本の休日が日曜日になったのは、アメリカに負けて第二次世界大戦後のアメリカ占領下の時にキリスト教の教えである日曜日を祝日にアメリカ指導の元に日本も導入されたのでしょうか。

第二次世界大戦前は日本人は日曜日ぬ休みという感覚はなく1週間ずっと働いていた?

日本はいつから日曜日が休日になったのでしょうか。

室町時代とかでも庶民も日曜日は休んで仕事をしていなかったのか教えてください。

Aベストアンサー

過去何度も同じ質問がされていますが、一番良さそうな回答を以下に貼ります。 江戸時代は、商家には5節句、盆以外に大坂では「もん日」といわれた6斎日、江戸では1日、15日、28日を休みとしている例もありました。また、農村でも農閑期を中心として、大小の休日があり、50日前後の記録があります。



No.2ベストアンサー

回答者: Eivis
回答日時:2002/09/30 12:16
.
1876(明治9年) 一・六の休日を廃し、日曜日を休日とする(1月6日)、

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/somu/zenkokuhy … ・・・全国教育略年表 明治・大正・昭和19年以前 

http://www.sc.itc.keio.ac.jp/anatomy/kokikawa/hi … ・・・日本近代史(年表)


http://nnh.to/03/12.html ・・・3月12日(記念日)

これによると次のように書いてあるので、実施されたのは(1876)、明治9年3月12日ということが分ります。

1)1876(明治9)年、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されました。

2)それまでは、1868(明治元)年9月の太政官布告により、31日を除く1と6のつく日を休日としていました。

3)しかし、欧米との交易等で不便があったため、欧米と同じ仕組みに改めることとしました。

参考URL:http://nnh.to/03/12.html

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過去何度も同じ質問がされていますが、一番良さそうな回答を以下に貼ります。 江戸時代は、商家には5節句、盆以外に大坂では「もん日」といわれた6斎日、江戸では1日、15日、28日を休みとしている例もありました。また、農村でも農閑期を中心として、大小の休日があり、50日前後の記録があります。



No.2ベストアンサー

回答者: Eivis
回答日時:2002/09/30 12:16
.
1876(明治9年) 一・六の休日を廃し、日曜日を休日とする(1月6日)、

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/so...続きを読む

Qフランス革命

フランス革命が起きたことによって得られた成果は初めて民衆の基本的人権が認められたことですか?
もし違ってたら何ですか?
何卒回答よろしくお願いします

Aベストアンサー

もっといろいろあります。一つではありません。

まず第一には国民主権。革命の革命たるゆえんなのでこれは外せない。次には封建的特権の廃止。これは様々な分野に波及する大変革だったわけですが、つまりは身分制度の終焉であり、税の公平負担であり、(女性は除くが)機会均等であり、地方行政・司法分野における中央集権化であり、・・・等々。要は、近代化と基本的人権はセットで、不可分であり、フランス革命では、暦法や度量衡などといったものまで、多方面の改革が同時に行われました。

そして基本的人権のなかのいくつかは一部に対しては革命前から認められており、逆に革命後でも、婦人や子供に一切の権利が認められない、あるいは財産制限の制限選挙など、基本的人権が現代的基準で得られたわけでもないです。簡単にいえば、不完全でした。逆に言えば、人権や民主主義の発展という意味では、フランス革命はそれ一つでおわるわけでもなく、続きがある歴史の一部でしかないです。

フランス革命を単独で見た場合には、重要なのは(部分的制限や欠落のある)人権というよりももっと個別には、資産の移動とそれを保護する私有財産権です。革命によって得られた利益が、法的追認され、奪われないことが確定(ボナパルト体制下に起こった)したことで、革命は終結しました。

だから革命の成果を、どうしても一つに絞るならば、基本的人権のなかの一分野である、私有財産権の保護/保全/保障ということになります。前述のように、革命で基本的人権が確立したわけではないので、それを成果というのはやや怪しいです。

もっといろいろあります。一つではありません。

まず第一には国民主権。革命の革命たるゆえんなのでこれは外せない。次には封建的特権の廃止。これは様々な分野に波及する大変革だったわけですが、つまりは身分制度の終焉であり、税の公平負担であり、(女性は除くが)機会均等であり、地方行政・司法分野における中央集権化であり、・・・等々。要は、近代化と基本的人権はセットで、不可分であり、フランス革命では、暦法や度量衡などといったものまで、多方面の改革が同時に行われました。

そして基本的人権...続きを読む


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