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働けるのに働かない未成年中卒ニートは生きる価値ないですか?

A 回答 (16件中1~10件)

先日の調査では、40歳を過ぎてニート的な生活を送っている人が日本全国で61万3千人いることがわかったそうです。


要するに「特殊なケース」ではない、社会の仕組みが何か間違っている、ということです。

別な見方をすれば、ニート的な生活をしていても、堂々としていればいい、とも言えます。
生きる価値はあります。
家でじっとしているよりは、図書館に出かけて本を読んだり、体を動かしたりした方が健康的だと思います。
勉強や仕事以外にやりたいことがあれば、やればいいし、働きたいなら働けばいいし、勉強したければ勉強すればいいと思います。
やりたいことをやればいいと思いますよ。
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働いてるけど平気で他人を傷つけるクソ社畜もゴロゴロいるからどっこいどっこいです。

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大丈夫


結構いると思う。子供部屋で成人式を迎える大人になる子
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マジでがむしゃら働いてたって


ん?自分生きる価値あんのか?って思ってるんだから
ダレだって そう思いながら生きているんじゃないのかい?
今 ニートだって将来覚醒されて
素晴らしい人材になっていることだってあるんだけどね。
なにをかいわんや
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働いている人でも自分に生きる価値があるか悩んでいると思いますよ。



もう少し広く考えて、

「今このときが苦しい」

と素直に考えることです。

それでは、人が生きる価値を失う経緯についてお話します。



人が生きる価値を本当に失うのは、

自分の悩みに耐えられず、他人を攻撃したときでしょう。

それまでは、凡庸であっても成果がゼロであっても、

いつかはプラスにできる可能性があったわけです。


しかし今度は、他人へマイナスを作り出す「可能性」が生まれてしまいました。

被害を受けた人もショックでしょうが、当人もショックを受けるはずです。

「自分には聖人になる可能性はなくなった。」

と諦めてしまうはずです。

聖人と言うのは概念ですが、

自分の中に「もしかしたらあるかも、あって欲しい」と思っていた人物像ですね。

誰であっても、これが生きる支えに成っていたはずです。

「どこかで・・・頑張らなきゃ。」

そういう執行猶予があるとして、自分の悪さ加減を容認してきたはずです。

ところが自分の理由で他人を攻撃してしまうと、

この執行猶予がなくなり、自分を肯定する方法がわからなくなります。

この段階へ進んだ人は、

常識を持ち出したり、自分の事情を話したりして、

自分の正当化で忙しくなるでしょう。

「人としてどうよ?」とか「常識として」とか、「この様な人をどう思いますか?」

と他人に同意を求める人は、この段階にいる人達でしょう。

八つ当たり、もしくは仕返しをしてしまい、自分の罪に驚いてしまっている。

自分を綺麗だと思えなくなっていると言う事です。



本当は、迷惑をかけたり、八つ当たりをしたら謝らないといけないんです。

自分を許してくれた人に礼を述べて、助けてくれた人に恩を返し、

心の負担を減らすべきでしょう。

では、これをしない人は他人からどう見えるか?

「なんか、やっちゃったんだろうな。俺も経験があるし。

 必死に隠して自分を正当化している。

 見苦しいな。いやだ俺を見ているみたいだ。」

罪滅ぼしをせずに、仕方ないと言い続けている人を相手にする人はいません。

「何で直ぐ謝って先に行かないかな?

 いまは何言っても無駄だ、時間取られるだけ。」

そう思われて去っていくでしょう。


こうなると疎外感を(常に)感じる自分に変わります。

段階が進んだわけです。

誰かに八つ当たりをしたり、喧嘩を吹っかけたりしたくなるんです。

例えばこんな風に考えるようになるかもしれません。

「どうせ自分は立派じゃないよ。だから何?

 立派じゃないんだから、もう我慢しないで良いよね?

 立派ってさ、結局は奉仕を求める大衆の偽善だよね?

 なんでお前らに尽くさないといけないの?

 あんたらがいったい何してくれたって言うの?

 もう、踊らされたりしない。

 自分はけっしてお前らの策略に乗らない。

 相手の立派さを宛てにして甘えている奴には制裁を加えてやる。」

この発想は誰でも陥りますし、安易なカタルシスを得られます。

間違った正義感で楽になるでしょう。


しかし、酔いからさめるときも来ます。

自分より年下の人が立派に見えたり、将来の自分を想像して落ち込むときです。


例えば、

自分が好きだったアニメを作った監督が自分より年下だったと知る。

そんな人に好き放題言いたいことを言っていたと驚くときです。

自分には到底同じモノが作れるとは思えないのにです。


例えば、

オンラインゲームで知り合った人が、ちゃんと社会人をやっていると知ったときです。


「ああ、あれくらいは誰でも成れると思いこんで馬鹿にしてた。

 聖人どころか、あれにも成れない。
 
 こんなことに成るなんて、思いもしなかった。

 自分はハズレくじだ。

 どうして、これが自分なんだ。

 ああ、自分は幼い。格好悪い。子供みたいだ。何も良くなっていない。

 いやだ、いやだ、自分が嫌だ。もう辞めたい。許して欲しい。

 もうなにもかもいやだ。」

こうなります。


さて、悩みが深まりました。

そんなとき自分はどうしていたか?

最初に戻ります。

悩みに耐えられず、他人を攻撃してしまったからそうなったんですよね?

その性質は治ったんでしょうか?

いつ治したんでしょうか?

そのまま自分を正当化し続けてきたんじゃないでしょうか?

前より、他人に頭を下げれない自分になっているんじゃないでしょうか?

「全然イイコトがなかった。

 その上どうして、俺が頭を下げるの?

 あいつらは良い思いをしてるのに、更に屈しないといけないの?

 そんなの許せない。自分なんかどうなっても良い。

 アイツラに頭を下げるのだけはいやだ。」

と、また間違った熱い思いをもって、カタルシスに逃げ込んでしまうでしょう。

結局気がつくと、理由をつけて誰かを攻撃している自分に戻ります。


そして人生に悩みが尽きないものだとしたら?

自分が生きている間中、

誰かを攻撃するマシーンみたいになってしまうんではないでしょうか。

この段階に進んだら、自他共に認める「居ないほうが良い人」になってしまいます。


では、殆どの人はこの流れから逃れられるくらい、立派な人間なんでしょうか?

うっかりと八つ当たりをする人が大半でしょう。

「ああ、そうだよ。誰にだってあるはず。

 どうして自分だけこうなるんだ。

 謝るチャンスくらいあってもいいはずだ。

 どうして自分だけ、簡単に見限られるんだ。」

と思いませんか?


実は私にも経験がありますし、誰でもあるはずです。

どうして救われたかを思い出すと、相手が謝罪をするチャンスをくれたからです。

どうしてチャンスを貰えたのか? 最初は良く分かりませんでした。

自分のスキルが高かったから? 魅力に溢れていたから?

そうではありません。

スキルや魅力で誰かが辛抱してくれるなんてありません。

異世界モノのライトノヴェルじゃないんですから。



私の場合はこんな感じでした。

「仕事だし。君も仕事の中で悩んでたんだから仕方ないし。

 ここで俺だけ怒り続けたら、俺が生きて行けない。

 どこかで互いに謝らないと、やり辛くなると思ってただけだよ。

 でも、謝ってくれてよかった。我慢して良かったよ。俺も楽に成った。」

仕事の関係ですと、そうそう好き勝手に振舞えませんから、相手も我慢をします。

この違いにより、やり直すチャンスを互いに与えあえるんです。

学校と全く違いますよね。


「ああ、このくらい相手が我慢してくれるなら・・・

 ダメな自分でも、思いなおしてやり直せる。

 あれ? 仕事のほうが生き易くないか?」


では発想の転換をしましょう。

全ての人間関係を仕事だけに置き換えて、仕事の繋がりを増やしていく。

自分と接する人を構築しなおすわけです。

「全ての人に対して、敬語だけは忘れないようにしよう。

 俺はこれ一本でやってみる。」

逆に親族、家族や友人など、仕事以外の人間関係のときほど用心する。

「どうでも良いことで喧嘩が絶えないはず。恨みも深いしこじれ易い。」

と諦めるわけです。

「タメ口を叩ける関係って恐い。どこかで互いに甘えてしまう。

 人間関係のミスって、タメ口の関係に多いよなあ。」

すると、実に現実とマッチします。


結局のところ、誰もが立派になれるわけではありません。

そうなりたいと生きている間に(暇を見て)自分を直して行くだけです。

それまでの猶予として、

仕事の関係で互いを縛りあって、瑣末時に対しては我慢をして、謝罪しあう。

タメ口で甘えあう関係を作らないため、敬語を使う。

これで凌ぐだけなんです。


ニートの方は、学校でタメ口、家族とタメ口、ネットでタメ口。

そして利害関係が無いため、互いに互いを我慢しない。

そういう場所にずっといるんですよ。

これは条件が悪すぎます。

些細な事で傷つけあって、恨みを深めやすい関係しか在りません。

自分の立つ場所をかえて、有利に物事を運ぶのが大人の知恵だと思います。


さて、

生きる価値がどうして無くなるのかを話しました。

悩みがあるとき他人を攻撃してしまうと、

何時の間にか生きている間中、他人を攻撃するマシーンに成ってしまうんです。

どうでも良いことで足を踏み外さないよう、

どんなに理由があっても誰かを攻撃してはいけません。


生きる価値のない人間とは、

自分の悩みで八つ当たりをする性質を持つ人が、最後に行き着く場です。

転落から救われるには、謝罪するチャンスが必要です。

しかし、自分も他人もそれほど辛抱強くなく、互いを無視して見捨てようとします。

だからこそ、自分が接する人を仕事という縛りがある関係に置き換えて、

自分が成長する時間を稼ぐんです。


敬語を使う人にはチャンスを与えようとする人が沢山います。

タメ口でフレンドリーさを演出しようとするのは、

因果を逆転する発想であり、愚かな試みです。

漫画じゃあるまいし、心象は全く逆になります。

相手が親愛の情を求めているときだけ、少しだけ、そっと使うものであり、

互いの関係のデフォルトにしてはいけませんよ。


ニートの方に仕事を勧めるのは(脅す人もいますけど)、

早く楽になって欲しいからです。

今いる場所が本当に良い場所とは思えませんよ。

以上、ご参考になれば。
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やる気があるのなら!まだ未成年ということは可能性全然ありますよ。

ニトリの社長さんは高校全滅だったけど社長になって1代であれだけ大きな会社作り上げたからすごい…あなたのような人が案外ものすごい力持ってたりします。
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ま〜後ろ指はさされるね。


口では「そんな事はない!」って言う人が多いだろうけど言葉と心は裏腹だから。
あんま価値があるとは言えないよ。
中卒だからじゃなくて、働けるのに働かないってやつは。
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価値が無いかを問うのなら、無いから働け!

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そんな質問するくらいなら働こうね

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中卒後→働けるのに働かない、というのは非現実的で、中卒後→そのまま宙に浮いている、というのが本当のところかと。

そこが必ずしも無駄なくスムーズにいかないこともあっても不思議ないし考える期間も必要なこともある。自分が親だったら子供にそういう流れが生じられたら困るような親にはなりたくない。
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