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江戸時代は武士の給料は「10石扶持」とかお米で支払われていたそうですが、具体的にどうやって支払われていたんでしょうか?

1:誰がどこから米を持ってくるのか?・・・藩御用達の米商人が大八車に俵を乗せて武家を1軒1軒回って配るのか?武家側が藩指定の米屋まで取りに行くのか?
2:いつ支払われるのか?・・・毎月決められた日に12等分のされた米が支払われるのか?年に1度だけか?正月?秋の収穫期?
3:お米はどういう状態なのか?・・・白米のままでは長期保存できないですし、俵に入った玄米や殻付きの米を持ってきて、その後武家側が精米してたのでしょうか?

以上3点の疑問について、分かる人がいましたら教えてください。

質問者からの補足コメント

  • もう1点追加質問です。
    4:受け取ったお米をどうやって他のものに替えていたのか?・・・例えば武家が魚が欲しい場合、魚屋さんに米の入った袋を持って行って交換するのでしょうか?それとも米を買い取る商人を屋敷に呼んで、一度現金と交換してから魚を買いに行くんでしょうか?それなら米を配給される米屋ですぐ現金化してもらうのが手っ取り早いですがそういうサービスは無いんでしょうか?

      補足日時:2019/04/21 21:36

A 回答 (5件)

>年3回支給だとそれぞれいつ頃になるか分かりますか?


普通は春,夏に各1/4、冬に1/2だったそうです
>武家が魚が欲しい場合、魚屋さんに米の入った袋を持って行って交換するのでしょうか?それとも米を買い取る商人を屋敷に呼んで、一度現金と交換してから魚を買いに行くんでしょうか?
買い物は現金でないと出来ませんので、自分たちで食べる分だけ残して他は米問屋で換金していたそうです
ただし、武士への俸禄は米だけではなく、味噌、醤油、調理用の薪なども支給されていたので、そういう物は買う必要が無かったそうです

ちなみに凶作の年など、例年の数分の一しか米が取れなかった時は物理的に支給できませんので
そういう年は、支給できなかった分は来年以降支給するという手形が渡されたそうです
ただし凶作が何年も続いて手形が溜まる一方というような場合は、古い方から順番に無効、つまり反故にされることもあったそうです
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> 1:誰がどこから米を持ってくるのか?


原則として支給される側の武士が荷車を引いて米蔵まで受け取りに行きました。食用の分だけを持ち帰り残りは米屋に売却しました。後にはこのような業務を米屋に任せてしまうようになり、さらに米屋は貸金もするようになります。これが札差です。

> 2:いつ支払われるのか?
一般に年に3回程度に分けて支払われたようです。藩によって一定しません。
幕府の武士には2月と5月に1/4ずつ、10月に1/2が渡されました。

> 3:お米はどういう状態なのか?
一般に玄米で輸送・保存します。白米にすると長期保存ができません。薩摩藩では籾の状態で輸送・保存したと聞いたことがあります。籾の方がより傷み難くかったのでしょう。
そして食べる際に精米しました。そのため江戸や大坂には搗米屋(精米業者)が数多くありました。やや大きな武家(たとえば藩の江戸屋敷など)では屋敷内に精米所を持っていました。
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年一回って言ってる人もいますが、支給される米は「御切米(おきりまい)」と呼ばれてて


その名の通り年数回に分けて支給されてたそうです
大抵3回
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この回答へのお礼

ありがとうございます。年3回支給だとそれぞれいつ頃になるか分かりますか?

お礼日時:2019/04/21 21:40

1)役所からの証明書のようなモノを蔵米商へ持ち込むと、米として受け取る分と現金化する分を確認して決済



2)年に2度もしくは3度に分割して給付

3)余程の上級職でも無ければ皆玄米食なので、白米にする必要がない
   1で玄米で受け取る分を決めているので、その中から適宜運んで貰う
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この回答へのお礼

ありがとうございます。追加質問4の答えをもう書いて下さってますね・・・武家が米屋に券を持って行って、米俵と現金をもらって帰ってくるのが年に2~3回あるって感じですね。

お礼日時:2019/04/21 21:39

引換券のようなものを御用商人に処に持っていき、お米、またはお金と交換。


実際は、そこに借金してるから、その借金の返済というかたちで。
米が秋に収穫だから、その時期、年1回、
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
武家側が米屋に券を持っていくんですね。戦時中の配給制度と同じなんですね。

お礼日時:2019/04/21 21:37

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以下陸軍制度で。

兵隊とは「二等兵」「一等兵」「上等兵」「伍長勤務上等兵(のちの兵長)」の4つの階級を言います。
しかし実際は「星の数よりメシの数」で、何年兵隊を務めたかの方が優先されました。
上から見れば二等兵だろうと上等兵だろうと「号令を受けるだけの立場」つまり駒でしかなかったからです。

下士官は、その兵隊を束ねるために存在します。
具体的には内務班のリーダーとなって一緒に寝起きしながら兵隊を訓導し、
また豊富な軍隊経験を生かして隊内の事務にもあたりました。
兵隊を束ねるためだけなら伍長と軍曹だけで十分なのにさらに曹長がいるのは、曹長は隊内の事務の総元締めという役割を負ったからです。
さらに上の特務曹長(のちの准尉)となるともはや準士官、士官の仲間入りです。
長年隊に貢献したご褒美的意味合いもありますし、準士官という立場でないとできない、たとえば隊員の人事評定という職務も担っていたからです。

そういうことは将校の役目では?と思われるかもしれません。
しかし2つの理由でそれはできませんでした。

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 将校は将校の威厳を保たなければいけませんでした。
 そのために、内務班で兵隊同様の生活をし同様の食事をし同様のベッドで寝、・・・ということは許されませんでした。
 替って地べたでそういう任務に当たってくれるもの、それが兵隊上がりの下士官です。

②将校には将校の任務がありました。
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 兵隊とのべつ幕なしにべったりではそれらの任務は果たせません。
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当時の兵隊は「義務」であり、それを果たしたところで特別なことはありませんでした。(上等兵まで上がれば箔は付くが)
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なお、将校はその上の「奏任官」であり、高等官の仲間です。(その上は少将・中将の「勅任官」、大将の「親任官」)

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> こんな資金はどこから来たのでしょうか?

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まず、普通の税収ではばく大な軍事支出をまかなえなかったので、国債発行でもお金を得て、軍需企業に支払います。すなわち、軍需企業に対しては後払いではありませんが、国債は後で償還(返済)しなければならないので、結局は後払い約束によって資金を得ていたことになります。しかも、償還期限が来ても借換債を発行すれば、実質返済せずに借り続けられるのです。
さらに、それでも足りずに、メフォ手形というのを発行しました。手形とは、まさに後払い約束(の証文)ですが、メフォ手形は異常なものでした。軍需企業としては損害がない(ライヒスバンクが割り引いて買い取ってくれた)のですが、その買い取った手形については、支払期日が来るたびに延長手形が振り出されました。前述の借換債と同様、結局は償還せずに借り続ける状態ということです。しかもライヒスバンクはドイツの中央銀行(日本で言えば日銀)ですから、国家ぐるみの手形詐欺のようなものでした。

以上から、ネトウヨ歴史学の不備も分かってきます。
まず、「国債ではなく手形を使った」というのは変で、実際は軍事費をまかなうのに国債も手形も使われました。いわば、ナチスはドイツを二重抵当に入れて二通りの借金をしたわけです。
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Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

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そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
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最近お城巡りをしていて備中松山城の城下町(?)にある武家屋敷跡に行きました。
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城主・国主は本丸や彼用の居館に住んでいました。

もちろんそれらさまざまな身分の者が混然と住んでいるということではなく、
身分によって住むところが分けられていました。

身分を意識させることにより家臣団の秩序を保つということもあったでしょうし、
いざというときに迅速に有機的に軍事行動を起こすためという目的もあったでしょう。


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