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平安末期から全国規模で合戦の時期に、例えば源平各軍は日本列島の半分ぐらいの距離を大移動してます。
この間の兵卒は雑兵(兵卒)はそれぞれの武将が現地雇用から継続的に雇用してしていたのでしょうか?
奥州藤原氏との合戦は鎌倉から平泉まで一般兵卒も連れて行ったのでしょうか? 現地徴兵もしたのでしょうか??
また、戦死した時にはこれらの兵卒はある程度の埋葬や供養はされたのでしょうか。

武将によって事情は異なるとは思いますが、武士階級の家臣以外の実話はあまり実例を知らないので、ご存じの方宜しくお願い致します。

A 回答 (7件)

そう言った集団はいたでしょう。


時代は下がりますが蜂須賀小六。
野武士集団の棟梁で、ひと戦いくらで傭兵となりました。
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壇之浦の海戦の時、義経が非戦闘員の船頭を攻撃したことが批判されてます。

船頭はその海をよく知ってる現地の漁師です。
合戦はあくまでも、武士対武士で、その他の人員は非戦闘員扱い。現地調達の一時雇いも多かったでしょう。その中から見どころがあるのを選んで武士へ。いわば採用試験を兼ねて募集。万が一戦死しても、埋葬、供養なしでしょうね。
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命の奪い合いの場所に現地の人が応募に応じる訳がないでしょう。



東映のヤクザ映画の殴り込みは下調べもせず気合で乗り込みますが、
武家の戦いは領地の奪い合いですから、事前に敵情や地形を調べ、
数的に不利の場合は、地元の豪族を味方に付けて、作戦を練り、勝てる
と思ったら戦を仕掛けます、以上の事は、「孫子の兵法」に記載され
てます、この古書は、現在でも、国を会社組織に置き換えると、
生き抜く知恵として役立ちます、一読をお勧めします。
学校の教科で教えるべきと思っています。
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源平合戦は、平清盛が瀬戸内の水軍から、九州までを平家の勢力範囲
にしていたので、平家が負けるはずがないのですが、源義経と言う
軍事の天才が少人数で奇襲をかけ、二度打ち破りましたが、それでも
平家の体制は強固のはずだったのですが、瀬戸内の豪族が次々と
寝返り、大宰府までも寝返り、行く場が無くなり壇ノ浦で滅亡しました。

源義経が孫子の兵法を学んでいたと言う記述はないのですが、行った
戦法は孫子が言う「兵とは詭道成り」なのです。
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日当を出して。


金銭のこともあるし食事のこともあるし両方のこともあるし。
手柄を立てれば褒美が加算された。

秀吉の士農分離政策まで、足軽の帰属は明確でなかった。
百姓が領主の募集に応じて、あるいは徴集されて、戦ごとに集まるのが普通だった。
つまり臨時雇いのアルバイトである。
初めて常備軍つまり下っ端の正社員として足軽を雇ったのが信長である。
戦闘訓練十分な足軽は信長の躍進の土台となった。
そしてこの足軽の常備体制は江戸時代も続いた。
各藩では「足軽」幕臣なら「御家人」のクラスで、奉行所などで働くときは「同心」と言われる。

一般兵卒つまり足軽は、そういうわけで遠方に連れていけない。
現地調達である。
だから「この武将は○○の戦に勝った強い武将である」という履歴が大きな意味を持った。
勝つ武将のもとには多くの兵が集まる。

死体は、日本では基本ほったらかしである。
首さえ狩れば手柄は保証されるから、首から下は放置である。
あとは地元民が掃除した。
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平安時代、反乱を鎮圧で〇〇を討伐するぞーと天皇の命を受けた武将は家人などを引き連れ進軍し、途中有力豪族を取り込み次第に兵(農民)が集まって来ます。

目的地に着くころは大軍勢になります。集合した兵は略奪ができるのが報酬です。特別な勲功があれば家人になったりご褒美に預かったかもしれません。豪族には利権や利権安堵がご褒美です。主従関係ができます。

戦国時代になると戦死者の後始末は戦場付近の百姓の仕事です。タダ働きです。田畑は荒らされ略奪され強姦され家は焼かれ散々な目にあいます。戦場になる前に皆財産持って逃げます。アルバイトもあります。秀吉は水攻めするとき土嚢を農民から買っています。金払いがいいので人気あったのでしょう。農民の支持が無いと勝てません。
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集団戦闘って、槍を持った雑兵が並んで前進し敵と接近すると、一斉にその槍で敵を突いたり、槍を振り下ろして敵を叩いたり……


戦場で一斉に動くために最低限の訓練は必要だったんじゃ無いですか。

ということは、現地徴収した男たちは、
・様々な荷を運ぶのには、便利に使える
・戦場で兵士として使うためには訓練が必要。その期間は多分、最低でも数ヶ月。つまり、目的地まで、どこかで数ヶ月行軍を停止して訓練が必要

つまり、合戦地が遠距離でも、地元から兵士を連れて行った。ただし、敵方の城主などが寝返った場合、その兵士は現地で味方の兵力として組み込まれて居ることもある。

 関ヶ原などを散策すると、首塚が何箇所かありますよ
https://www.sekigahara1600.com/spot/higashikubiz …
 雑兵一人一人が丁寧に埋葬されたわけでは無く、大きな穴を掘って死体をまとめて入れて埋めて供養するという感じじゃ無いですか。
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いわゆる「源平合戦」の頃はまだ騎乗武士による個人戦ですので、雑兵は武士の個人的従者として日ごろから仕えている者で、馬の世話や主人の武具や馬具の手入れ運搬管理などが主な任務です。

身分としては「所従」と呼ばれた隷属民になります。業務に支障が出るほど欠員が出れば臨時で雇用するか人買いから買うか、捕らえた庶民から補充したと思われます。
死んでも、当時の下々の者の死体は、基本的に河原や野山に放置ですから、同じように放置されたでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答を有難う御座います。
万葉集の防人のイメージや応天門などの絵巻の印象で歩兵、雑兵が多数いるものと思い込み、
源平合戦の時期は騎馬武士の個人戦、という事を気が付きませんでした。
源平期~鎌倉末期などは律令制による「官軍」ではなく「私兵」同士の戦いだったという事ですね。

歩兵の「雑兵」が多数徴用されるようになるのは、戦国期からでしょうか??
もしどの武将がいつ頃始めたか、などご存じでしたら、またお願いいたします

お礼日時:2024/05/16 18:19

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