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1.人が死んだ後どうなりますか?
2.お墓参りしても意味なくないですか?
3.なぜお寺には墓があるのでしょうか

まず私は仏教徒ではありませんが、私が知っている仏教の教えをもとに、こうなんじゃないかという考えを書きます。

1.
 生前の宗教は関係なく、死後49日後に輪廻して生まれ変わります。

2.
 お墓や仏壇に故人の霊のような存在はいません。
 (だって故人は生まれ変わってしまったから。そこにいるということは生まれ変われなかったということ。仏教の教えが嘘だということ。)
 お盆になっても帰ってきません。
 (多くの人がお盆に前世の墓に行かないように、来世に行った故人もわざわざ来ないでしょう。また、人間道以外に生まれ変わった場合は物理的に来れません。)

3.
 仏教的には霊?魂?霊魂?のないただの骨かと思います。
 それを土に埋めて保管しておく意味は無いように思います。

以上のように、「仏教って墓いらないんじゃないか」と考えました。
多分仏教的に何かが間違っていると思うのですが。
よろしくお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • ムッ

    「49日で輪廻」についての部分は記載している通り
    【私は仏教徒ではありませんが、私が知っている仏教の教えをもとに、こうなんじゃないかという考えを書きます。】
    です。
    正しくない可能性が高いです。

    「仏教では100年で生まれ変わると教えているんだ! つまり、故人は現世にいるのだから墓参りにも意味があるんだ!」
    というのならそう書いてください。

    【気がします。】という自分でもよくわからないことを解答として書かれても困ります。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/09 11:11
  • へこむわー

    ある宗教家の話は聞いてませんので、仏教の話をお願いします。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/25 13:09

A 回答 (13件中1~10件)

お墓や仏壇は、死んだ人のためではなく、生きている私達のためにあります。



人は「死」を恐れます。

「死」がそこら中に溢れないように、安定して一箇所に収まっていられるように、お墓に死者(の霊)がいて、生者がお参りすることで、現世が安心して暮らせる世の中になる、という仕組みです。

ですからお墓や仏壇は生者のための精神安定剤みたいなものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

生者のためということは、お坊さん自体が死者にとって墓は何の意味もないと考えているんですね。
参考になりました。

お礼日時:2019/05/07 18:35

ある、宗教家の話ですと、、


人間の魂は、1本体5分身で出来ているそうです

この魂が、順番に生まれ変わると言う事です

生まれ変わりとは、あくまで肉体を持った時をさします
この回答への補足あり
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死後は、霊となって天界に帰ります


死後49日で生まれ変わるとは初耳です
通常は、200年に1度くらいだそうです

人は、人にしか生まれ変わる
りません

基本的には、お墓は必要ないと思いますけど、、、
長い間の風習から、そうなってしまった
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この回答へのお礼

死後200年は生まれ変わらないとの記載がありますが、天界は六道のうちの一つなので、死後天界に行くのであればそれ自体が生まれ変わりを指していませんか?

お墓は必要ないとのこと、ありがとうございます。

お礼日時:2019/05/23 13:55

No9です。

お礼を拝見して再度回答します。

>死んだ後は無になるのだから、故人にとって墓参りは意味がない。(意訳)
>死んだ後のことなんか教えてやらない(意訳)
>どっちが正しいのでしょうか?

なかなか鋭いですね。

釈迦の考え方は、きわめて実利的な考え方なんです。
「私が教えないことは知る必要がないことだ」というよりも言いたいことは
「死後のことを考えるより悟りを開くために努力しなさい」ということでしょう。
これは、輪廻とか仏壇とかいう宗教的な考え方とは全く無縁なものです。
まして、邪宗とかいう独善的な発想とは全く異なりますね。

私の考えは、死んだら無になるから死んだ後のことを考えてもしかたがないと思っています。
そういう意味では「来世のために今功徳を積むんだ」などということはナンセンスです。
大事なことは来世ではなく、今、どう生きるかが大事なんですね。

そう言う意味では私と釈迦との考え方は結果的には一致をします。

一部の宗教は「我々が正しい」と言っていますね。
キリスト教も一時期は聖書以外の書物は邪教だと言うことで弾圧しました。
仏教でも日蓮などは「法華経以外はすべて邪宗だ!」といっていました。

「私が教えないことは知る必要がないことだ」というのはむしろこういう人達でしょう。
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この回答へのお礼

私なりにまとめてみました。
全て(意訳)です。


仏教では死んだ後何があるかわからない


故人にとって墓参りは意味がない。墓は生きている人たちためにある
生きてる人は死後のことなど考えずに、生きてる内に悟りを開く努力をしろ


仏壇を拝んだり、輪廻だの来世だの言うような宗派はろくでもない

こんな感じですかね。
大きく違っていたら教えてください。
ありがとうございます。

お礼日時:2019/05/13 15:55

なぜ分からないか理解に苦しみますけど笑



あなたはご先祖様を敬う気がないということですね?
産まれてこなければ良かったということですね?笑

自由意思なんで私は裁判官ではないので好きに解釈し神様をご先祖様を冒涜するがいいさね

私は一切関係ありませんので悪しからず笑い

主なる神様…ご先祖様…どうか無知な方々をお許し下さい…自分が卵から産まれたのか鶏から産まれたのかわからないだけなんです。
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この回答へのお礼

仏教は死後のことはわからないのですよね?
ということは、ご先祖様がどのような状況なのかご存知ないですよね?
ご先祖様は誰かに怒ったり許したりできる状況なのでしょうか?
また、仏教では神は信仰の対象ではなかったかと思います。
神道かキリスト教か、それ以外の宗教の話を書いていますか?

> なぜ分からないか理解に苦しみますけど笑
そうですか。

例えば、あなたは下の2文が「イコール」でつなげられると考えているようです。
> あなたはご先祖様を敬う気がないということですね?
> 産まれてこなければ良かったということですね?笑
しかし、私にとってこの2つは全く別の話です。

このように、自分の考え方は常識であり、書かなくても伝わるのが当然と思っているような書き方をされると、あなたのことを知らない私には何の話をしているのかがわかりません。

今回の場合仏教とひとくくりにして質問してますが、日本の仏教だけでも多くの宗派があり、それぞれ考え方が異なります。
また、私自身それらの仏教の考え方がわからないためこうして質問しています。
そのため、私にはあなたが前提としている条件がわからないため、あなたの記載された内容も理解できません。
これらが理解できないのであれば、こういった話には首を突っ込まないほうが良いのではないでしょうか。

とりあえずお礼を書いておきます。
ありがとうございます。

お礼日時:2019/05/13 15:27

孔子風に…


①死後の事は知りませんよ。
②大自然に育まれ、共にご先祖様を尊び、ご先祖様から愛されるように…宗教の根幹から外れますが良いですか?
③お釈迦様(仏陀)の側がいいんでしょうね。
神社は神様の社だから…一歩退いた感じですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
孔子は中国人なうえ、大昔になくなっている人なので「風」も何もあったもんじゃないと思いますが。

①で死後のことは知らないと言いながら、②ではご先祖様から愛されるために墓参りするんですか?
そして、よくわからない死後のことなのに③では遺体は釈迦のそばにあるのがいいんですか?

よくわかりませんでした。
死後の世界があるかもしれないからとりあえず墓参りしとこうということですか?

ということは、死後の世界があったとしても、仏教ではそちらの作法がわかりません。
もしかしたらお経を読まれるたびに故人が苦しんでるかもしれませんね。
線香に火をつけるたびに故人が身を焼かれる思いをしているかもしれませんね。

仏教というのは恐ろしい宗教だと感じました。

お礼日時:2019/05/11 14:01

はじめまして



>1.人が死んだ後どうなりますか?

単に無になるだけです。
人間の心というのは脳内神経細胞のネットワークがつくるものです。
生まれたの赤ちゃんが成長していく過程は神経細胞ネットワークがつくられていく過程ですし
認知症になって記憶をなくし性格まで変わっていくのはネットワークが壊れていくことにほかなりません。
心というのが神経細胞のネットワークからつくられている以上、そのネットワークが壊れた状態(=死)になれば、全ては無になります。

>2.お墓参りしても意味なくないですか?

お墓なんて故人のためのものではありません。生きている人のためのものです。
いくらりっぱなお墓をつくっても誰も参る人がいなければお墓としての意味はないですよね。
ですから、生きている人が故人を偲んで墓参りをすることは精神の安定につながりますから、それなりに意味はあるでしょうね。
もっとも私は親の墓にまいったことはありませんが、

>お墓や仏壇に故人の霊のような存在はいません。
>仏教的には霊?魂?霊魂?のないただの骨かと思います。

だいたい亡くなれば故人の心も無になるのですから、霊なんてどこにもいません。
No4さんのおっしゃるとおり釈迦はそのようなことについて考える必要はないと説いています。
以下パーリー語聖典で有名な「毒矢のたとえ」を引用します。

毒矢のたとえ
http://www.mahayogi.org/tokyo/yoga/cula-malunkya …

あるとき瞑想中の修行者マールンキヤプッタに次のような考えが起こった。

「いったいこの世界は永遠に続くものだろうか、それとも永遠ではないのか。世界は有限なのか無限なのか。生命と肉体というのは同じものなのだろうか、それとも違うのか。如来は死後も存在するのかしないのか、あるいは存在しながらも存在しないのか、それとも存在するわけでもなく存在しないわけでもないのか。……そういえば我が師ブッダはこれらのことについては何も説いてはくれなかった。どうにもこれには納得がいかない。ブッダにこのことを尋ねてみよう。もし師がそれに答えられるなら、そのまま修行を続けよう。だがもし答えられないとしたら、もう修行はやめて世俗の生活に戻るほかない」

マールンキヤプッタはこのような決意をもって瞑想の座から立ち上がり、ブッダのもとへとやって来た。師にあいさつをし、片隅に座ると彼は例の疑問を師に問うた。

「師よ、世界は永遠ですか、そうではないのですか。有限ですか無限ですか。生命と肉体は同じか別か。如来となれば死後はどうなってしまうのか。もしそれらのことを知っておられるなら、今この場で私の問いに答えてください。もしそれらのことを知らないのであれば、『私は知らない』と言われるのが正しいあり方だと思います。さあ、どうなのですか。それが分からないうちは私は修行を続けようとは思いません」

息巻く弟子にブッダはこう答えられた。
「マールンキヤプッタ、私は君にこんなふうに言っただろうか。『来なさいマールンキヤプッタ、私のもとで修行せよ。そうすれば世界が永遠か否か、有限か無限か、その他さまざまなことを教えてあげよう』と」
「いえ、そんなことはありません」
「では、君は私にこんなことを言っただろうか。『師よ、あなたのもとで修行しましょう。そうすれば世界が永遠か否か、有限か無限か、そういったことを教えてくれるでしょう』と」
「いえ、それもありません」
「それなのに、愚か者よ、君は今それを要求し、それに応じない私を拒もうというのか。世界が永遠であるとかないとか、そういったことが説かれないうちは修行しないというなら、そのことが説かれる前に人は死んでしまうだろう。

例えば、ある人が毒矢に射られたとしよう。その人の友人や家族は医者に見せて早く矢を抜き取ろうとする。しかしその本人が『矢を射た人はどんな身分か、何という名前か、どういう苗字か、背が高いか低いか中くらいか、肌は何色か、どこに住んでいるのか、それが分からないうちは矢を抜くな』と言ったらどうなるか。あるいは、『どんな弓か、弦は何でできているのか、矢はどんなもので付いている羽はどの鳥の羽か、それが分からないうちはこの矢を抜かない』と言ったなら、どうなると思うか。その人はそれを知らないうちに死んでしまうだろう。君が言っているのもそれと同じことだ。その答えを知る前に人は死んでしまう。

世界が永遠だと知ることで、あるいは永遠でないと知ることで、修行が続けられるのではない。世界が永遠であろうとなかろうと、人は生まれては老い、死んでいくのだ。そして悲しみや悩みや苦しみは依然としてなくならない。それらを実際に制圧することを私は教える。世界が有限か無限か、その他の質問に関しても同じことだ。マールンキヤプッタ、私が説かないことは説かれるべきではないのだと了解しなさい。世界が永遠であると私は説かない。永遠でないとも説かない。有限とも説かず、無限とも説かない。生命と肉体は同じだとも違うとも教えない。如来が死後どうなるとも言わない。
なぜなら、そうしたことを説いたとしても修行の役に立たないからだ。世俗的な欲望を離れ、煩悩を消滅させて心に平安をもたらし、智慧によって悟りを得てニルヴァーナに至る、その目的にかなわないから私はそれらのことについては説かないのだ。

では私は何を説くのか。この世の一切は、たとえ快楽であったとしてもいつかは失われる——苦しみである。その苦しみの原因は、『私』と『私のもの』にしがみついて放そうとしない煩悩である。それを消滅させることが真の平安であり、そのためには普段の生活を調え、身口意を正しく保って、熱心に瞑想しなくてはならない。この理解こそが修行のために役立つことだ。ニルヴァーナに至るという目的にかなう。それゆえに私は、苦しみ(苦)とその原因(集)、原因の消滅(滅)とそのための道(道)という四つの真理(四聖諦)を説くのである。このように、マールンキヤプッタ、私が説かないことは説かれるべきでないと了解し、説くことは説かれるべき内容をもっているのだと了解しなさい」

ブッダのこの言葉に、マールンキヤプッタは大いに歓喜した。疑念に捕われていた弟子は疑いの鎖を断ち切り、師の教えを喜んで受け入れた。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

死んだ後は無になるのだから、故人にとって墓参りは意味がない。(意訳)
と書かれていますが、毒矢の話の中では
死んだ後のことなんか教えてやらない(意訳)
って言ってますよね?

どっちが正しいのでしょうか?

ちなみに、
「私が教えないことは知る必要がないことだ」(意訳)
というのは新興宗教の偉い人が言ってたら、絶対詐欺師認定するワードだと思いました。
あ、ブッダは当時の新興宗教のトップの人でしたね。

お礼日時:2019/05/11 13:50

1.小乗仏教は真理に到達していないので、信徒は輪廻するのでしょう。

大乗仏教は真理に到達しているので、亡くなれば輪廻から解脱して極楽浄土へ行きます。
2.仏壇は仏を奉っているのであって、故人の霊ではないです。邪教の信徒は輪廻しますから、邪教・邪宗の墓や仏壇には何もないです。
3.仏を奉っているだけです。

解脱もできない仏教というのは、仏教という名前がついた邪教です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

小乗仏教と大乗仏教ですか。初めて聞きました。
悟ってない信徒が輪廻するか解脱できるか、それは大きな違いですね。

よくわからなかったので一点だけ確認させてください。
「仏」というのは何を指していますか?
書かれた内容からは以下のように読み取れました。
「解脱した故人の遺体のことを「仏」という。輪廻した故人の遺体のことは「仏」と言わない」

お礼日時:2019/05/09 11:30

1番の49日で輪廻は誤りではないですか?三途の川は渡ると思いますが、生まれ変わるのは100年後くらいな気がします。

この回答への補足あり
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1.生前の宗教は関係なく、死後49日後に輪廻して生まれ変わります。


  ↑
輪廻とか49日なんてのは仏教では
ないですか。
キリスト教にあったかしら?



2.
 お墓や仏壇に故人の霊のような存在はいません。
 (だって故人は生まれ変わってしまったから。そこにいるということは生まれ変われなかったということ。仏教の教えが嘘だということ。)
 お盆になっても帰ってきません。
 (多くの人がお盆に前世の墓に行かないように、来世に行った故人もわざわざ来ないでしょう。また、人間道以外に生まれ変わった場合は物理的に来れません。)
  ↑
そもそもですが、霊の存在に疑問があります。
そもそも宗教なんて矛盾だらけです。
理論で考えたら宗教など成り立ちません。



3.
 仏教的には霊?魂?霊魂?のないただの骨かと思います。
 それを土に埋めて保管しておく意味は無いように思います。
   ↑
土に入れるのは、衛生が理由です。
保管するのは遺族の気持ちを配慮したものです。
そうやって故人をとむらうことにより、社会秩序を
守ろうとしたのです。



以上のように、「仏教って墓いらないんじゃないか」と考えました。
多分仏教的に何かが間違っていると思うのですが。
よろしくお願いいたします。
 ↑
墓なんぞ要りませんよ。
あんなのは、後世の人間が利益などを目的にして
勝手に創造したものに過ぎません。

墓石に数百万、戒名に二千万。
死体に群がるハイエナ産業株式会社です。
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この回答へのお礼

プンプン

わからないなら解答しないでください。

> キリスト教にあったかしら?
タイトルにも書いてますが、仏教の話をしています。
例えばキリスト教の場合、キリスト教徒でなければ死後天国には行けません。
一方、仏教は生前の宗教など関係なく、火が熱いのと同じように、生物が死ねば輪廻して生まれ変わります。(一部の仏教は死後の世界を認めてないようですが)

> そもそもですが、霊の存在に疑問があります。
> そもそも宗教なんて矛盾だらけです。
> 理論で考えたら宗教など成り立ちません。
あなたの疑問をここに書かないでください。
そして、矛盾が発生するのは、誤った宗教です。
宗教の矛盾は、その宗教の存在意義に関わってきます。
あなたが思う矛盾を坊主や神主や神父に言えばいい。全部論破されるはずです。

> 土に入れるのは、衛生が理由です。
> 保管するのは遺族の気持ちを配慮したものです。
> そうやって故人をとむらうことにより、社会秩序を
> 守ろうとしたのです。
タイトルに書いてますが、「仏教のお墓について」質問しています。
書いてある質問を理解して回答していただけないでしょうか。
なぜ「土に埋める」のかなんて聞いてません。
仏教の考え方では故人(の霊?)はとっくにいないはずなのに、なんで遺体を大切に保管するの?という質問です。
遺族も仏教徒なら遺体に故人の霊が残ってないことぐらいわかるので、気持ちを配慮するも何も無いと思いますが?

おまけで、衛生という理由すら火葬の時点でクリアしています。
※「昔は土葬だったんだ」と言わないように
 ⇒釈迦が火葬されたことと、火葬が仏教とともに日本に伝わったと言われていることから、大昔から仏教徒は基本的に火葬です。

お礼日時:2019/05/08 14:16

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