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邪馬台国の存在は、魏志倭人伝に書かれており、女王卑弥呼は「親魏倭王」の金印を受け取ったとされています。
ここで気になるのは、倭国と邪馬台国の関係で、当時の倭国における支配的勢力が邪馬台国だったということになるのだと思いますが、その関係性がいまいちしっくりきません。

倭国というのは日本をあらわす地域名、もしくは日本列島の中の権威的な存在で、邪馬台国は倭国の中の支配的な政治勢力・軍事勢力だったということでしょうか。

A 回答 (8件)

実際どうだったかはともかく、魏志倭人伝を記述内容では、質問者さまのおっしゃる通り、日本をあらわす地域名である倭国のなかにあって、伊都国、奴国、投馬国などの諸勢力をしたがえている支配的な勢力が邪馬台国ということです。

女王に属さない狗奴国という男子を王とする勢力の存在も記されているように、倭国は統一されていません。
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判りません。

何とも言えない。
ネットに行けば何でも答えがあるわけではありません。

支配的な勢力が邪馬台国、だったのか、挨拶に来たからお前を支配者と認めてやる、のかも判りませんし。
皇帝の部下が、私のコネでこんな奴を挨拶に来させました、エライでしょ、褒めて、と言うわけです。
その時に、極小勢力が挨拶に来ました、ではそいつの面子が立たないし、貰える物も少なくなるでしょう。
従って、この程度の捏造があったとしても朝飯前ということは。

ただ、おそらく小勢力では遣いを出すことは困難、中国人とアクセスすることも困難だったでしょうから(例えばあなたの町内会はどうでしょう)、小勢力では無かった、比較的大きな勢力だった、あるいは比較的大きな勢力のうちの一つだった、のだろうと想像します。
九州で一番だったか、九州の北半分で一番だったか、日本で一番だったか、その辺は何とも言えないのでは。
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歴史を作る際の参考書(古文書)に本当のことが書かれている保証はありません。

#4さんのように
ロマンで止めておきましょう。
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当時の日本は、一つのまとまった国が存在して


いたわけではなく、いくつかの小国が集まった
存在でした。

その連合体が倭国です。

その倭国の中で、女王卑弥呼の宮廷があったのが邪馬台国で
連合体の首都みたいな存在であったろう
とされています。
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こういう話題にはロマンがありますね。

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中国から見たことを考えれば分かりやすいと思いますが、漢の時代に遠くからやってきた者たちがいたので、それらの国を”倭国”と名付けたのです。

ですから、その倭国がどの程度の範囲なのかなどは分からないわけです。
三国志の時代に魏が朝鮮の公孫氏をほろぼすと、(おそらくそれまで公孫氏に朝貢?していた)倭国の者たちが魏に朝貢しだしたので、魏の歴史書に記録が残ることとなったものです。

明治維新以降、天皇を神とし、日本を日本書紀などに従って万世一系、日本が最初から天皇のみに支配されていた国だったとする考えを強制したので、これに従い魏の歴史書(三国志)に書かれた倭国も日本のことで、だからそれも天皇が治めていた国だという、三段論法のような解釈をされたものです。

邪馬台国時代の倭国というのは、北九州一円くらいの範囲であっただろうと(私は)思われます。中国から見て、倭国が北九州一円程度の範囲なのか今の日本全体に近い範囲のものなのか、判断しようがないですからね。ところが明治以降の天皇中心主義の考え方が洗脳のように残っていて、未だに倭国は日本全体でなければならない、卑弥呼の系統は天皇の系統でなければならない、と妄信し続けている人たちが沢山いるのです。

ですから、邪馬台国の倭国の範囲は北九州一円程度で、畿内ヤマト王権の勢力とは別のものと考えられます。日本書紀などにも景行天皇(あるいはその子のヤマトタケル)が九州征伐(熊襲征討)をして九州を支配下に治めた話が書かれていますが、逆にいえばそれまで九州は天皇の支配下になかったということです。
(ちなみに私は、その時に九州を治めていた熊襲と呼ばれた勢力は、邪馬台国の系統ではなく、邪馬台国を滅ぼして九州全体を支配した勢力(魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の南にあって対立していた狗奴国の系統)だと考えています。)


「旧唐書」という中国の歴史書、これは945年に完成したものですが、これに次のような記述があります。

『日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。』
倭・倭人関連の中国文献 wikipedia より引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB …

この文章は前後していてわかり難いのですが、意訳すると『日本国とは、(我々の良く知る)倭国とは別の倭国であり、もとは小国であったが(我々の良く知る)倭国を併せて大きくなった国で、倭の名が雅でないとして日本と名前を変えた国だ』と書かれてあるものです。
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十分な考古学的資料や文献が出ていないので、想像で語るしかない。


従って、この質問には回答できない。
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文明も生産力もそれほど発達していない状況なので


小さな集落・村落がいくつか集まってクニと呼ばれる社会組織を作っていた
そういったクニの中に邪馬台国も存在した
クニの力関係に絶対的な優劣がなく、常に勢力争いを行っていた

争いが続く中で、一定の安定を求める手段として
国力は大きくはないが宗教的な権威のあった卑弥呼・邪馬台国を象徴的な権威として位置づけた
その象徴的な王が中国との外交を担っていた

その象徴的な王を受け入れるクニの連合体を倭国と呼んだ・位置づけた
※果たして日本列島というほどの地域的な広がりがあったのか??
 それが、邪馬台国の九州説と畿内説の分かれ目

という話だったと思われる

まぁ今後の考古学的な調査でこれまでの通説が変更されることはあるだろうけど
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