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純粋に疑問なのですが、宗教に幸せになるために入ると思っている人が多いみたいなんですが、私は(無宗教)ある程度の戒律を自分に定めておくための考えを持っておく、程度の認識しか宗教に対してありません。
生き方や、人間関係まで支配されるとかえって迷惑になりそうなんですが。
宗教関係の本を読むなり納得できるところは納得するし、
特に神にすがらなくても楽しみを持てる時代ではないんですか??よっぽど不幸である、追い込まれている。とかならわかるんですが。
それに所属しまっては、かえって何かに対する偏見や執着を持ち行動範囲や考えが狭まるなどないんでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 勝手なイメージですが、創価学会は精神性は高いが高いが故にいらぬことをするをするイメージ(人間ができていない割に自信を持ちすぎてしまった
    天理教は建築物が美しく、構築理論が得意であり、構築が得意ならば考えや理に矛盾がない。
    原始仏教は、生命学に近いと思っています。
    キリスト教はまさしく神にすがるタイプで、仏教はすがるというより、自分を研磨するものだと
    祈りであっても、祈られて迷惑だとおもう人もいます。なので、特に祈りを大切にしている創価学会に関しては野心や執着だけで大きくなりすぎたんだと思います 祈りがあるならば、それが大きな規模である程何かと対峙してしまうはずです。同じ宗教でも、全ての人が同じ人間ではありませんし。三重苦ではないんでしょうか
    批判になっていたら申し訳ありません。
    また、間違えてたらすみません

      補足日時:2019/06/25 10:50

A 回答 (11件中11~11件)

宗教は自分が幸せになるためのものだという認識でオッケーです。



ここでいう幸せとは、いわゆる「楽しさ」「幸福感」とは違います。

戒律というのは宗教・宗派によってさまざまで、厳密に規定されているものもありますし、ゆるいものもあります。
原始宗教に近いほど戒律は厳密だと言っていいでしょう。

ご自身で「幸せとはこういうものである」と定義できていて、
その意味で幸せになるための手法が確立されているならそれで十分です。

しかし、平穏な状況なら宗教がなくても日々楽しく過ごせることはその通りですが、
急な病気や事故など、自分の力ではどうしようもない出来事が起きたときこそ、どう生きるかということが大事になってきますし、
そこで一定の解決策や方針を提示しているのが宗教なのです。

宗教によっては考えが狭められるものもありますし、そうでないものもあります。
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