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1. 《無限》――二で割っても三で割っても商が元のままの無限であ
る――は 神か?

2. その無限――真無限――なら 人知を超えており 経験的な事象
であることをも超えている。

3. ひとり・ふたりと数えられるひとは 一足す一が二であったり 
あるいは三にも四にもなったりします。限りなく増えることが出来るか
も知れません。

4. でもその限りなさという意味での無限は 経験的に可能な可能無
限です。したがって 60億番目だとか60億+1番目だとかとして数
え得ます。つまりどこまで行っても 全体の数としては 有限です。

5. ということは 数えられるひとは それぞれ真無限のもとにつつ
み込まれているのだろうか?

6. あるいは そのひとは 一人ひとりが あたかも無限なる神の息
吹きを吹き込まれているのだろうか?

7. それが 生命なのか?

8. んなわきゃねーよ! という《無い神》派を論駁できないことは
《生命》説の《有る神》派が有効に批判され得ず否定され得ないことと
同じであるようだ。

9. だって 無限の何たるかが 人間にわかるわけないとすれば 当
たり前のようであり どちらも――有神論も無神論も――それとして自
由に互いに対等に成り立つようなのだから。


10 ダ・カーポで表題の問いになります。ご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №7お礼欄をおぎないます。

    ★ ∞+1=∞ →1=0
    ☆ についてです。

    この∞が もし相対的な限りなさとしての可能無限のことでしたら 右
    側の項目がみちびかれるかどうかを別として 左側の等式としては 成
    り立つかも知れません。
    次々とあらたな無限大が現われるということです。どこまでも・いくら
    でも 一定の∞にまた1を足し続けていけばいいわけです。そういう限
    りなさとしての無限です。

    ですが もしその無限大が 絶対なるナゾとしての真無限のことであっ
    たとしたら?

    そのときは――割り算の場合とちがって―― すでに等式は不要となっ
    ているはずです。

    なぜなら ∞(真無限として)には すでに 1も2もあるいは可能無
    限としての相対的な∞もがふくまれている。からです。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/25 15:39

A 回答 (9件)

0=神

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

その0(ゼロ)というのは 経験事象としての有る無しの無しでは
ダメでしょうね。

絶対無とでもしなきゃダメでしょうね。

ただし 絶対無とは絶対有と同じなはずです。

つまり 絶対性については人間が それが有ると言っても無いと言
っても互いに同じことになります。

つまり 有神論と無神論とは 同じことを言っています。


――というところまで伸びましょうね。

お礼日時:2019/09/24 20:30

∞+1=∞


両辺から∞を引いて
1=0
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

無限大(∞)は じつは 経験事象ですよ。ふつうは。

もし その可能無限ではなく真無限であるのならば:
★ 両辺から∞を引いて
☆ というとき 《引く》ことは出来ないでしょう。

1 は引くことが出来るかも知れませんが 真無限を引いたり
することは 無理なはずです。さだまった数ではないのですか
ら。

お礼日時:2019/09/24 20:36

8と9について


人が神によって生み出されたか否かについては現状どちら側も相手を説得出来る状況出ないのでどちらの側に立つか否かは個人個人の自由で決めれば良いとなります
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人が神によって生み出されたか否かについては
☆ もしこれが いわゆる創造説のことでしたら そこまでは
言っていませんでした。

☆☆ ~~~~~~~~~
6. あるいは そのひとは 一人ひとりが あたかも無限な
る神の息吹きを吹き込まれているのだろうか?

7. それが 生命なのか?
~~~~~
☆ つまり どのように生命体が生まれたかには触れずに た
だその生き物が《息吹きを吹き込まれた》とだけ表現しました。


でも その創造説をも含み得るというかたちで:
★ 現状どちら側も相手を説得出来る状況でないのでどちらの
側に立つか否かは個人個人の自由で決めれば良いとなります
☆ とわたしも考えます。

賛成票をありがとう。

お礼日時:2019/09/24 20:41

集合論読んでみたら

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この回答へのお礼

なお説明が足りませんでしたか。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/24 20:42

あなた数学を持ち出さないほうがいいよ。

見苦しいから。
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この回答へのお礼

――という説明だけでは 見楽しいということにも成らない
ようです。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/24 20:44

愛フォーンはギズモードジャパンでyoutuberの動プロだと背景名でしょうか。

以外d氏姉。画は出てこないのが

隣の家の音がうるさくて
困り巻いた。

小島は会場自衛地あのほうが関係有るのでしょうか。
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この回答へのお礼

ちょっと分かりません。



ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/24 23:39

#2です



> 無限大(∞)は じつは 経験事象ですよ。ふつうは。

何を哲学板で数学の話をしているのでしょうか?
∞+1=∞ →1=0
は、集団の中では個人は「無」になるという哲学的な思考するのが普通では?

> 《無限》――二で割っても三で割っても商が元のままの無限

この時点で自滅してますよね
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

しっかりと基礎的な話から入るべきでしたでしょうか。

みなさんに検証していただくという前提で まづ:

☆☆ > 《無限》――二で割っても三で割っても商が元のままの無限
★ この時点で自滅してますよね

☆ これは 《仮りに・もしも 二や三で割るとしたら そのように
割ったとしても・・・》という意味ですよね。

これはあり得るようですよ。何故かと言うと クリスチアニズムやヒ
ンドゥイズムでは 三つの神(霊性)の一体というようなことを言う
からです。

つまり 三つの神――部分神?――から成ると言っても それぞれの
小さな(?)神は 決して三分の一づつではないわけです。

個なる神が ほかの個なる神とひとしく 個なる神それぞれは 全体
なる神とやはりひとしい。こういうことになります。

三で割っても その商は 元のまま(全体)なわけです。

そういう話として必要な説明なのだと思います。

そこで: 
☆☆ > 無限大(∞)は じつは 経験事象ですよ。ふつうは。
☆ これは なぜそうかと言えば いわゆる無限大は 1から始めて
2,3、・・・と数えて行って その n 番目を仮りに無限大とするわ
けです。

言い換えると n+1 番目のほうが大きいのでそれがあらたな無限大
となり・・・という形で 次から次へあらたな無限大が出て来ます。

つまり この場合の無限大(∞)は 特定することが出来て 人知の
およぶ相対的な数なわけです。


★ ∞+1=∞ →1=0
は、集団の中では個人は「無」になるという哲学的な思考するのが普
通では?
☆ 集団の中でその力学の作用によって影響を受けもし《個人は「無」
になる》というのだとしたら そのとき《〈われは集団の中で無のよ
うになっている〉と知っている》のが 人間としての個人です。

つまり ひとこと余分なことを言うとすれば そのような集団力学の
中で 《1=0》なる個人であることを受け止めざるを得ず それとし
て自覚せねばならない・・・としても じつはその無になった《1》
なるわれは 相対的な∞ではなくそれをも超えた《真無限》と ひょ
っとしてつながっている。かも知れない。

《1=0》なる個としてのわれが ∞をも超えたナゾにむすばれ そ
の泉の水のごときみづみづしさを与えられているかも知れない。

お礼日時:2019/09/25 13:04

∞+1=∞


と設定したとしても
1=0とはなりません
それでは数式が破綻します
∞+1=∞
なら
∞=∞−1 となります よって
∞+1=∞−1となります
よって
左辺の∞は
∞−1
右辺の∞は
∞+1
となります
よってそのような設定では数式としてやはり破綻してます
∞を数式に用いるなら
関数を使うべきでしょうね
最後にこの質問の一番の謎は
何故に神が無限であるとしたかですね
その説明が欠いている時点でこの質問自体が成立しないと思いますよ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ∞を数式に用いるなら
関数を使うべきでしょうね
☆ ――については くわしくはわたしに分かりません。


★ ∞+1=∞
☆ の難点については 分かると思います。

もしこの等式が成り立つのであれば 右辺の∞は 左辺のそれとは別に
あらたな無限大という数を設定したということでしょう。

もし左辺に出てくる∞が 真無限のことだとすると 仮りに1を足して
も すでにその1は 真無限の中におさまっているということでしょう。



★ 最後にこの質問の一番の謎は
何故に神が無限であるとしたかですね
その説明が欠いている時点でこの質問自体が成立しないと思いますよ
☆ これは そういうふうに定義をしたということです。

むろん 神は 人知を超えたナゾなんですから その絶対性なるナゾに
見合った――取りあえずの――概念内容として 真無限を持ち出して来
たということです。

仮説法(アブダクション)で 神は無限であるという命題(定義)を提
示して その内容が 一般に捉えられている〔仮りの〕認識内容に合致
していれば よしとする。

そういう理論です。

お礼日時:2019/09/29 15:16

一般の方々が神をどう認識論されているかは知りませんが少なくとも神を無限の存在と認識してる方て多くはな無いと思いますよ


無限か有限か否かはでは無くてどちらかと言えば
絶対的な存在か否か 
完全・完璧な存在か否か
でしょうだからこそ神は 
超越した存在か否か 
と問われますね
世界には数多の神々が祀られていますから 絶対的な神もいれば
そうで無い神がいます
完全・完璧な神がいればそうで無い神がいる
となりますね 
人の神に対する認識も上記がメインだと思いますよ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 一般の方々が・・・神を無限の存在と認識してる方て多くは無い
と思いますよ
☆ ひとつに わたしも印象ないし推測で そのとおりに思います。

ひとつに 《存在》とだけ規定した場合は 誤解が生じるかと思いま
す。

つまり 言ってみればワケの分からないナゾである無限なのですから
ただ《存在するのだ》と言うだけでは 片寄った見方になるかと。

つまりはっきり言って この無限なるナゾは 《ある》か《ない》か
は 人間には分からないわけです。もっと精確に言えば 神は存在す
るかしないか それが人間には分かるか分からないかが分からない。
――ということでは?



★ 無限か有限か否かはでは無くてどちらかと言えば
絶対的な存在か否か 
☆ 《存在》という表現に但し書きを添えれば そのとおり――つま
り 《絶対性》という用語で表わしたほうがよい――とわたしも思い
ます。

★ 完全・完璧な存在か否かでしょう
☆ これはですね。細かく言えば この《完全・完璧 あるいは 全
知全能・真理・至高の善・愛憎を超えた慈愛・・・》といった概念は
絶対である神の属性を言っているのだと見ます。


★ だからこそ神は 
超越した存在か否か 
と問われますね
☆ そういった筋道――順序――での問い求めになりますか?

つまり 質問者としては 神は初めから《超経験・超自然》だと――
半ば証明抜きで自明のこととして――捉えていました。

それを ここでは《無限》という概念で捉える道もあるかなと思って
のことでした。 


★ 世界には数多の神々が祀られていますから 絶対的な神もいれば
そうで無い神がいます
☆ それについては 説明がつきます。いわゆる八百万の神々という
のは ただ一つの神――普遍神――の分身であり依り代なのだという
見方です。

★ 完全・完璧な神がいればそうで無い神がいるとなりますね 
☆ よく《偶像》が持ち出されますね。でも 偶像を神だと見なすの
は あくまで《仮りのこと》です。つまり偶像は 神という正解では
なく正解をみちびくための補助線なんです。


★ 人の神に対する認識も上記がメインだと思いますよ
☆ つまり私見では 神は普遍神ただひとはしらのみ。ほかにその分
身・依り代・そして補助線が 神の仮りのシルシとして用いられてい
る。と。

お礼日時:2019/09/30 09:56

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