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最近、後悔することが減ってきています。決して成功している人生ではない。しかしながら、かつては、ああしておけば、なぜこうなったのか、という思いに悩まされることが少なくありませんでしたが、今は、あれもよかった これもよかった と思うようになってきています。それは、後悔していたこととは別に、よい事を思い出すようになったのではなく、後悔していたその事を、よかったとおもうようになっているのです。
例えば私は子供の頃、同居していた祖父に冷たく当たっていた時期がありました。大人に成ってもその後悔は長く心にとどまってぬぐえませんでしたが、今思い出せば、祖父のやさしさこそが思い出され、あれもよかったと思うようになっているのです。
学生時代の悪い巡り合わせと思っていた、嫌な教師がいたことについても、その教師の抱えていた苦しさなどが想起されるようになり、恨みに思う気持ちがなくなっています。

また、以前はある種、教条主義的なところも無くはありませんでした。このようにすべきである、かのようでなければならぬ、そのように考えて、畏まってはいても自由ではなかった。今は、立派な教えに対して別に畏まってはいないけれど、縛られてもいない。

これは、私は成長したのでしょうか。自分を赦せるようになったと言えるかもしれない。殻を破ったのかもしれない。

Q:皆さんの人生の遍歴において、ふと気が付けば、自分はこのように変わっていた、という事はあるでしょうか。よろしければ教えてください。

A 回答 (11件中1~10件)

北斗の剣の制定サウザーがキリスト教の逆な幹事のキャラだなあと課


思ったりとか昔はそんなkとは主わなあったので変わったなあと科。

内臓逆胃というのは
身体レベルで逆な尾でしょうね。

鴎外が盛り王がイナ荒
違うのkもしレマ円がきりないr魔s田。
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この回答へのお礼

雪山さんは北斗の拳世代ですか。北斗の拳も一部(ラオウ編)は読んだと記憶しています。
小説はあまり読まないのですが、物語とか、初めに読んだ時と後に読んだときと読後感が変わっていたり、解釈や理解の程度や目の付け所が変わっていたり、しますね。

お礼日時:2019/12/10 23:07

成長と思って良いと思います。



川の小石も、下流に流れていくほどに丸くなっていくと云います。
中には、ヒビが入ったり、かけてしまったり、ごつごつとしてしまう石もあるでしょうが。

☆精神の流れは自身を肯定しよう、との思い。

今は、ここまで。
思うところは有るのですが、バカゆえにまだ言葉が出てきません。

感想を頂ければ思考の助けになります。
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この回答へのお礼

色々なものをもらって今があるわけですが、もちろんいろいろなものを与えてもいて、また、奪っても来たし、奪われても来たと思います。
ただ、自分を肯定してくれたのは他者であったし、しかしただ肯定するのではなく、根本的な非を否定せずに指摘してくれたのだと言うところを、今になってやっと知る事が出来たという事でしょうか。そのことで、自己肯定というか、自分を赦すというか、自分を諭すことができた。これは全く具体的で実際にあった出来事から省察によって想起されるところのものですが、人生において非常に大事な出来事です。例えばそれが苦い思い出だからと言って無視してしまえば長くそれは残ります。忘れてしまえば無意識に残ります。しかし思い出してその意味を紐解いたならば、苦いそれが答えとなって以後の人生を導いてくれる。逆に言えば、後悔を伴う苦い思い出だったからこそ消さずに残すことが出来ていたとも言えます。

人生の遍歴を、精神の流れと表現されたところが汽笛さんらしいと思います。自己を赦したい故の遍歴であったわけではないが、内心ではそうだったのかもしれないと思う。人生は不思議ですね。

お礼日時:2019/12/10 23:29

同感です。



年齢とともに自己肯定感が強くなってきました。

過去を否定をし、自己を超克する力が衰えてきているからだと思います。

精神世界にコンフォートゾーンを作ってそこに安住する方が楽だからねぇ。
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この回答へのお礼

なるほど、成長ではなく安泰だと言うご見解ですね。言われてみれば人格が成熟して来た感はあり、若い頃の躍動的な感じは無くなっています。成長は常にある種の不安定さが伴い、苦痛も生じます。ここに至って、それが終息しつつあるのかもしれません。

お礼日時:2019/12/11 11:31

キサラギさんは今、迷いがなくなって達観の世界に入りつつあるのではないでしょうか。


その精神性が、過去を肯定できるのだろうと思います。
執着も、しなくなってきているようですね。

御自身に「丸み」は感じますか?
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この回答へのお礼

丸みというか、あまり怒る事がなくなって来ています。こないだまで、通勤帰りの混雑した駅のホームで、後ろからぶつかられた時、なんやねん、と思ってましたが、今はそういうのもなくなっています。
心に波風があまり立たないような感じですね。
他人を否定することも明らかに減っています。

お礼日時:2019/12/11 11:36

諦めることに慣れてしまったのかもしれませんね

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この回答へのお礼

諦めるという言葉は、本来はつまびらかにする、明らかならしめると言う意味だと聞いたことがあります。
そうならばまさしく、今までの人生における大事なことの大事な意味をあきらめたと言えるかもしれません。

お礼日時:2019/12/11 12:33

質問者さんへ


私個人の考えをもとに回答させていただきます
「人を無条件で認める」
私が常日頃自分自身に言い聞かせている事で

人を無条件認める」とは人を評価する数多の括りや評価等(学歴や職歴・肩書き・資格・実績等)を一切排除し「人としての素」をそのまま認めると言うことです
「括る事を排除する」とはラベリングをしない事。
全ての人を真の意味で同等に捉えかつ一人ひとりを区別する事です
そうする理由は「単純化した2極思考」に陥らないようにし「複雑な事柄を単純化せずに複雑のまま」捉えたいからです。(多極思考)
単純化された思考は見方・捉え方を単純化させ単純化された見方・捉え方では正しい答えにたどり着けないと考えているからです 
知的限界
人の脳は数多の情報を混乱せずに処理するため2極的な思考をします
脳は2極的な思考する事です合理的かつ迅速に処理出来ます
ですが2極思考の弊害=偏った見方・捉え方を生むのです
偏った見方・捉え方を避けるには極数を増やす(2極→3極以上に)必要がありますが
極数を増やすとは処理数を増やすことになり脳に多大な負担をかけることになります
極数を増やすと脳にかかかる負担は指数関数的に増え限界を迎えます
よって脳にとって一定数以上の極数(と言うってもせいぜい3極)を思考することは脳の思考力の限界を突破しなければできないのです
マトモに
以上の理由に人が知的に進化するに脳自身の思考力の限界を突破して多極的な思考が出来るようすることになります
その点を踏まえて私は「多極的な思考」=「複雑な事柄を複雑のまま捉え」たいのです
補足
否定は単純化させる方向に進むので否定をする事は「単純な2極思考」から抜けられなくる恐れがあります
だからこそ私は「人を否定しません」
以上です
長文すみませんでした
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます^^
仰ることに私は同感します。複雑な物事を省略したり、単純化したり、ラベリングしたりして処理することは事物を明確化する事にもなりますが、多くの事柄を捨像してしまう事にもつながります。その捨像されたものは何処へ行くのかと言うと、無意識に沈んでゆくのだと思われます。そしてそれが堆積し、ふとした拍子に意識に浮上してくる。当人にとっては何の脈絡もなく、他愛のないことで涙がこぼれたりして、あれ、おかしいな、と思ったり、妙に鬱っぽくなったり、逆に些細なことがトリガーとなって怒ってしまったり。大小さまざまなトラウマやコンプレックスとなり、捨像された事象は声を発しているのだと思われます。
しかし仰る通り、複雑な物事を複雑なまま捉えるのは負荷の大きいことです。ですので、何が大事で何が大事でないかを見極めることが重要となってくるように思いますが、それを決めてかかってしまうと物事の真実の姿をそのままに見ることは出来ません。私の場合、大事なこととは後悔していることでした。どうでもよくない事だから憶えているのだし、それを失敗してしまったがために後悔しているのだから、後悔は大事なことが何かを指し示す目印です。しかし難しいのは、後悔は基本的に望ましくないことですから、人はそれを忘れたい。忘れてしまったなら、大事な事柄が無意識に沈んで大きなコンプレックスとなって固着してしまいます。その場合は、それを思い出すきっかけが無ければ、長い間再発見する事は叶わないかもしれません。そんなときは、人生の遍歴に従って、その都度に、自分のコンプレックスとは関係ない事柄かも知れないけれど、大事なこととは何かについて、考え続けることだと思います。大事なことは個別具体的でその人の人生に存在するものですが、普遍的に大事なことを考えることで、自分の人生では何が大事に当たる事柄であったかを想起するきっかけにするということです。

お礼日時:2019/12/11 13:54

若いときは、理想の方が現実よりも近くにあったので、理想に合わぬものは、気に入らないことばかりでした。

が、10年20年30年と、理想に向かって努力、実現することで、周囲の他者が、自身の存在と能力を承認してくれるようになったので、自分の現実を、素直に肯定出来るようになりました。ニーチェではないですが、自己肯定出来るようになると、気性も落ち着きます、が、自己肯定を維持するために、若いときよりも、努力と集中力を緩めていません。
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この回答へのお礼

私は、十代の頃から、努力ではどうにもならない事について思案して来ました。ですので、回答者様の様に質実に理想に向かって努力出来た事はあまりありません。その私の思索の傾向が何故その様であったのかは、最近になって明らかめいて分かるようになってきました。
人生とは不思議なもので、自分が何かの対象(理想や目標)に向かって進んでいる時に、それとは全く違う事柄が別の側面で起動していて、実はその、自分には知られざる側面での出来事の方が、人生には断然に重要で、自分が目指している何かはそれに出会うための切っ掛けに過ぎなかった、そのようなことがあります。
例えば、志持って勉強し医師となった人が、ある日素晴らしい女性と出会ったとします。その女性は彼の患者でありました。彼の人生にとっては、医師となった事はもちろん大事な事なのですが、それよりも何よりも、彼女と出会えた事の方が遥かに大事であって、医師となったのは彼女に出会うためだったのかもしれない。その様に思えるような大事な事が、人生には何度かある様です。

詳しくは述べませんが、私は人生の初期(子供時代)に、後の人生を左右する決定的な出来事に二度、会っていて、それはもう、誰にもどうにもする事が出来なかった事柄なのですが、それらを克服する為に今まで求道して来たと言っても良いくらいです。

別の回答者様の使われた諦めと言う言葉を用いれば、以来私は、諦めざるを得なかったが故に諦められず、諦められなかった故に遂に諦めるに至った、と言う事なのかなと。

私も回答者様の様に努力を重ねて理想に近づく様な生き方が出来ればと願っていましたが、足枷を付けたままではそれらは出来なかった。そして、足枷だと思っていたそれが実は翼であった事を、最近になって理解し始めています。

お礼日時:2019/12/11 15:03

これは、私は成長したのでしょうか。

自分を赦せるようになったと
言えるかもしれない。殻を破ったのかもしれない。
 ↑
エリクソンの老年的超越理論というのがあります。

老化に伴う各種能力の衰えを否定的に捉えず、現状を肯定し、
多幸感を抱くという心理的適応を指す理論です。

この反対に、総て悲観的に捕らえてしまい
絶望に至る人も少なくありません。
いや、こちらの方が多いかもです。



Q:皆さんの人生の遍歴において、ふと気が付けば、自分はこのように変わっていた、
という事はあるでしょうか。よろしければ教えてください。
 ↑
質問者さんと同じで、後悔が無くなりましたね。

選んだ道が正しかったのです。

自然とそう考えることが出来るように
なりました。
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この回答へのお礼

選んだ道が正しかった。過去に選んだ道を、正しいものとするように歩んでこられたという事でしょうか。
素晴らしいことだと思います。
皆それぞれに、それぞれの苦労を超越して、成熟していくのですね。

お礼日時:2019/12/11 17:27

人生の遍歴において、自身に適正でないものは、そこで、どれほどよい成績成果を出そうとも、その分野の人脈の人々や仕事からもお別れします。

けれど、その迂回が実は、ムダなのではなく、適正のキャリアになるための、武器だったのです。ですから、どんなときでも、手を抜かず、己の武器を身に付けていく必要があります。私が、30代前半に、ある研究所のサイエンスライターをやっていました。仕事で最寄の図書館に向かうと、中央区千代田区のサラリーマンが、5時過ぎると、図書館にやって来て、閉館まで勉強していました。中央区千代田区のサラリーマンは、おそらく本社勤めの方たちでしょう。生き残り、成果、出世のために、酒場に向かわず、勉強する、そこに手を抜かない。その彼らの姿は、私の師の姿でもあります。どんな場合でも、手を抜かない。基本的所作をそこで学びました。
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この回答へのお礼

立派なことだと思います。そういうストレートな努力を出来るという事が素晴らしいですね。
そう言う方たちが社会を基礎から支えているのだと思います。学ぶべきことを学ぶべき時にしっかり学べる、今がその時と知っている、そのような方とはなかなか私は親交を持てたことはありませんが、しっかりと自制心を働かせているそのような人は、理想の人物の一人であります。

お礼日時:2019/12/11 17:40

自分自身にとって大事な事を考えるとき大事な事は「自分自身をニュートラル」にする事と私は考えます


損得や感情や信義や信条でその答えを見つけようとするとそれらに都合が良い答えを選び出してしまいます。
間違った答えを導き出してしまいます
だからこそ間違った答え出さない為に「自分自身をニュートラル」する必要があります
それと「自分自身をニュートラル」にして出した答えが信条や信義に反する答えだったら信条や信義に反してもその答えを受け入れるべきです.
向かうべき道が変わりますがそれが正し道となるからです
旧ソ連の映画監督であった故アンドレタルコフスキー氏の作品「ストーカー」で下記が示されていました
「ゾーン」(目的地)に向かって真っ直ぐ進んでも「ゾーン」にはたどり着けない
これは人生における教訓です
目的地に到達するには通るべき道を通らなければならない。
と言うことです
紆余曲折した人生を送る事を無駄の様に感じる人がぃますが、紆余曲折した人生が通るべき道ならその紆余曲折した人生こそが正しい人生の送り方です
質問者さんは数々の後悔をされているとの事ですが後悔された経験こそが質問者さんが通るべき経験だったならその後悔した経験をした事は質問者さんにとっても良き(正しい)経験となります
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
仰ること、本当にその通りだと思います。
私もやっと、紆余曲折した自分の人生が、それで良かったのだと思えるようになってきました。これは挫折したという意味ではなく、良いものにできたという意味で。
ニュートラルな自分自身でいられるように、肩の力を抜いて、明るく歩いていきたいですね。

お礼日時:2019/12/11 20:26

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