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▲ (ヰキぺ:四諦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/四諦

1. 四諦(したい、梵: catur-ārya-satya, チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)
または四聖諦(ししょうたい= 4つの・聖なる・真理(諦))

2. とは、仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。

3. 苦集滅道

苦諦(くたい)  - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実。
集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、
         苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道による
         べきであるということ
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4. おのれの思うようにならないというドゥッカについては その生老病死のう
ち やはり どうして《生》が挙げられているのか。これが・そしてつまり そも
そも生の苦とは どういうことなのか が皆目わかりません。――おしえてくださ
い。


5. 集諦について そうは言うものの 《さとりを得る》ということ・つまりは
《苦を滅する》ということ これがそもそも《求めて飽かない愛執》であるのでは
ないか?


6. 滅諦つまり 《無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの
境地である》というのなら すでに・つねに・はじめに その《さとりの状態――
そしてその元気の素であるブッダター ――》のことをきちんと説き明かしていなけ
れば おかしい。

6-1. つまり ブッダターないしアミターバ・ブッダを説いたのは ゴータマ・
ブッダは述べず かれのあとの庶民たちであったに過ぎないではないか?

6-2. また ブッダターとは――あるいは タターガタ・ガルバ(如来蔵)とは
―― ブラフマニズムに言う《アートマン(霊我)》とけっきょくまったく同じ概念
なのではないか?

6-3. ゴータマ氏が アン‐アートマン(無‐我)と言ったから わざわざ後世の
人びとは アートマンとは別の言葉で アートマンと同じ内容を表わし元に戻ったと
いうに過ぎない。(だから ブディズムは インドには余分なんだ)。

6-4. その後 本覚思想というかたちで この《すでに人は 生まれながらにし
てブッダターをやどす》と言った。

6-5. あるいは もっと手早く《即身成仏》だ・あるいは《即得往生》なのだと
説かれた。

6-6. 苦集滅道の以前に 《〈ひとは おのおの自分が ブッダである〉と言え
る状態にある》――こう言わなくちゃいけない。



7. 道は 一人ひとりが自由に実存として生きて行くことだ。

7-1. 《念仏は 非行非善なり》であり 修行ではなく善行でもない。

7-2. つまりきちんと言うとすれば すでに自然本性としてブッダターをやどす
人間という人間は その状態の実現に向けておこなう《修行から 自由である》。や
るやらないは 人によって自由だ。

7-3. ひとは生まれながらにそなわったブッダターの状態を実現するために 修
行から自由であるだけではなく――難行苦行などは糞くらえと言う場合もあるし や
はりわたしは修行をするのだと言って実行する場合もある というだけではなく―― 
善行をおこなったから成仏するとか その反対なら反対になるとかといった決め(因
果応報の説)からも自由である。のだ。




8. さて ゴータマ・ブッダなるえらいさんは 何を言ったのでしょう?





9. 《 catur チャトゥル》は フランス語の《 quatre キャットゥル》と同じ語
です。《 four 》とも同じです。どれかがかなりひどく訛ってますけどね。

9-1. 唐招提寺の《招提》は この《 catur チャトゥル》または《 caturdesa
(「四方」の意)》の音訳らしいですよ。

質問者からの補足コメント

  • №3つづき1

    ★ ただ、その過程の段階では《求めて飽かない愛執》ですね。
    ☆ ですからそれは 生のぜんぶを初めに苦だと規定したからですよ。

    求道心を持たねばならないという強迫観念を――そのマジックは――
    植えつけたのです。

    だから後世の人びとは せめて《自然本性の初めに ブッダターがや
    どる》という説でおぎなったんです。ゴータマの阿呆をあわれんだん
    です。

    ★ 弁栄(べんねい)上人はこの事を「霊恋(神仏に恋する)」と表現し
    ました。
    ☆ それが 《一切衆生 悉有仏性》の説に立つ場合です。そうでな
    ければ さとりを得たからでないと 《愛執》が《霊性(アートマン
    =ブッダター)へのあこがれ》にならない。

    さとりを得ていない状態にあっても 神仏に恋するというのが 《生》
    の賛歌です。

    ゴータマ・マジックなるオシヘは要らないのです。

    つづく

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/12/16 04:12
  • №3つづき2

    ゴータマ・マジックなるオシヘは要らないのです。なくても あこが
    れの境地に到り得ます。《義無きを以って義とす》るというゴータマ
    批判です。


    ★ 釈尊は、人の心の仕組みを明らかにし、
    ☆ ひとの心理くらいは ふつうにまじめな人びとなら心得るように
    なります。

    ★ そして悟るための方法を述べただけであって、
    ☆ ただしい方法によればさとる。という輪郭を述べただけです。




    ★ 人間は人間としてどの様に生きなければならないか、なんてこと
    は言っていないように思うのですが。
    ☆ いや ここでもあつかっていません。



    ★ ブラジュロンヌさんが、なんでこんなに釈尊に目くじら立てると
    のか、未だによく分かりません。
    ☆ 先ほどの親鸞は そのオシヘの枠内で目くじらを立てました。と
    いうことです。

      補足日時:2019/12/16 04:14

A 回答 (3件)

4.に付いて。


みんな、より良く生きようと四苦八苦してるじゃないですか。
教わるまでもないでしょう。
釈尊は人間の楽しむ姿を見て、それさえも苦であると観たのですよ。

楽しみたい、楽をしたい、安心したい、という気持ちから逃れられない、或いは束縛されている人の心は、これを手にした時は喜び、楽しみ、安堵しますが、それも一時のことで又求め心が現れてしまいます。

釈尊の心には、この楽しむ姿さえも生命の持つ悲しき宿命である、と観えたのでしょう。

5.に付いて。
集諦は、一言でいうならば私の言葉では求め心、となります。
その求め心が何を求めているのか、が重要なのです。
悟りの境地を求めて、それが叶えば四苦から抜け出せたと、云えます。
ただ、その過程の段階では《求めて飽かない愛執》ですね。
弁栄(べんねい)上人はこの事を「霊恋(神仏に恋する)」と表現しました。

釈尊は、人の心の仕組みを明らかにし、そして悟るための方法を述べただけであって、人間は人間としてどの様に生きなければならないか、なんてことは言っていないように思うのですが。

ブラジュロンヌさんが、なんでこんなに釈尊に目くじら立てるのか、未だによく分かりません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 4.
みんな、より良く生きようと四苦八苦してるじゃないですか。
☆ 四苦のうち《生》がなぜ苦なのか? です。


★ 釈尊は人間の楽しむ姿を見て、それさえも苦であると観たのですよ。
☆ 気がおかしい。のでは?

★ 楽しみたい、楽をしたい、安心したい、という気持ちから逃れられ
ない、
☆ 学者の名前を忘れましたが この生苦については 《根本的な生存
欲》と解しています。

たのしい時をすごすのとたのしみたいという気持ちとは 別です。後者
から むさぼりが出ます。前者を ふつうにささやかに生きている場合
はあります。こちらの場合が どうして苦なのか?

例の因果応報説については 善因善果・悪因悪果と言わず 善因楽果・
悪因苦果と言うようです。つまり ふつうに自然に生活していて たの
しいなら 善因か悪因かを問わず(――つまり 誰もが多少の悪をも引
きずっています のでおのれの善悪をおさめ 世間の善悪をも自分の生
活の範囲で引き受けて善因悪因を問わず――) すでに生には楽の部分
も あるぢゃないですか?

つまり なぜ人間の生のぜんぶを《そもそもの初めに》苦と決めつけて
その思想を構築するのか? こういう問いです。気がおかしいのでは?
と言わないほうが おかしい。


★ 釈尊の心には、この楽しむ姿さえも生命の持つ悲しき宿命である、
と観えたのでしょう。
☆ オシヘをおしつけ浸透させるためにマッチポンプの手に出たので
は?


★ 5.に付いて。
集諦は、一言でいうならば私の言葉では求め心、となります。
☆ 求め心が むさぼりになり得ますよね?


★ その求め心が何を求めているのか、が重要なのです。
☆ それなら 《生》には 初めにその思惟と行動とに善と悪とがあ
ると言ったことになる。つまり 苦でない生も 初めに自然の状態に
ある。
生苦という決めつけは どう見ても ただのむさぼりでしょう。自説
を広めるための技法でしょう。


★ 悟りの境地を求めて、それが叶えば四苦から抜け出せたと、云え
ます。
☆ という方程式を単なる輪郭として さだめただけです。

しかも さとりの中身をついぞ明らかにしたことがありません。

それでも これに追随するひとが 末法になっても後を絶ちません。
ゴータマ・マジックです。


つづく

お礼日時:2019/12/16 04:10

ブリコラージュとぶりっ子は亜kんけないようですkれど、


はmちは魚なのでh僧ね。

四諦八正道はデザインでh層かね。
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この回答へのお礼

ブリコラージュのブリコから ぶりっ子。

そのぶりから はまち。

ひょっとして その魚族として 鯛。つまり 四諦のタイ。

四諦八正道とデザインとは どういうつながり?

お礼日時:2019/12/15 23:31

で、


今日の晩御飯何にする?
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この回答へのお礼

そろそろ肉を食べたい感じかな・・・って そんな問題ぢゃない。

このヤロー!

お礼日時:2019/12/15 08:38

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