電子書籍の厳選無料作品が豊富!

哲学として定義してくださいませんか?

宗教を信じるだのキリスト教を信じる・ブディズムを信じるだのと
よく聞きます。

おかしい。オシヘは 考えるもの。概念を思い込んだからと言って
《信じた》ことになるだろうか? 


《考えた》その結果を 思っているのだと言っても それなら理念
やイデアの崇拝者になるに過ぎない。理念や思想という偶像のでは
ないか?

哲学としてただしてください。

質問者からの補足コメント

  • №41お礼欄のおぎないです。


    無条件に受け容れるとき ひとは 考えてもいいんです。批判しても
    構わないんです。

    神のバカ野郎! こんなに災害の起こるのを放っておくなんて! と
    ののしってもいいんです。


    批判するしないにかかわらず 人知を超えて無条件に受け容れる。こ
    れが――なぜなら その対象は 相対世界を超えた絶対性なのですか
    ら 言ってみればわれわれ人間は歯が立たないと言わざるを得ません
    それゆえ―― 信じるなのだと見ます。

    No.41の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/13 11:19

A 回答 (30件中21~30件)

《信じると》というのは どういうことをおこなうものであるのか?



その学問や理論教義を「学ぶ」事とその「実践」です、が
先入観を、思い込み常識を捨て、色眼鏡を外し
未踏の地へ踏み出す「勇気」の行動が必要です

信は確信になります、不動の信になります

その一歩を踏み出した人にしか分からないものです
多摩川の土手が一番高い、と思っている人にヒマラヤは分かりません
プラトンの喩え話にありましたが
生まれてからずーと洞窟に住んでいる人は太陽を理解できません
しかし、一歩外へ出れば、すべてを理解するのです

理論のみで実践が無ければ
実践のみで理論がなければ、
100年かかっても不動の信は得られないでしょう

勇気とは自分に勝つ事
震えながらでも一歩前に出る事だと思います
不動の信を得れば、今度は、
その勇気が人々への慈愛へ向けられます
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 《信じると》というのは
その学問や理論教義を「学ぶ」事とその「実践」です、
☆ それは 《考える(&感じる)》ことです。

言いかえると 経験世界の中におさまります。

ですが 信じるのは 人知を超えた神をです。超経験です。

★ が 先入観を、思い込み常識を捨て、色眼鏡を外し
未踏の地へ踏み出す「勇気」の行動が必要です
☆ これも 考えるであり 意志にまつわる徳(秀でたチカラとその発揮)の
問題です。神は 倫理道徳を超えています。だから 神を考えるではなく神を
信じるというのだと思います。

★ 信は確信になります、不動の信になります
☆ この《信》には ふたつの種類があります。

神を信じる場合と 学問を修め芸術に触れたときの《考える・感じる》の結果
をさらにつよく思うという意味で信じるという〔仮りの〕表現を使う場合と。

どちらにも この命題はあてはまるでしょうが 本来の信じるについての定義
が なお求められます。


★ その一歩を踏み出した人にしか分からないものです
☆ ぢゃあもしすでに踏み出したのでしたら 理解が得られないとしても と
にかく言葉にして表現してみておいてください。参考にする人が出てくるでし
ょう。

ですが 大人になったら分かるよという言い方は たいてい本人が分かってい
ないときのセリフです。


★ ・・・しかし、一歩外へ出れば、すべてを理解するのです
☆ その理解した内容を 自己表現してみてください。



★ 理論のみで実践が無ければ
実践のみで理論がなければ、
100年かかっても不動の信は得られないでしょう
☆ 定義は 表わせない・・・のですね?



★ 勇気とは自分に勝つ事
震えながらでも一歩前に出る事だと思います
不動の信を得れば、今度は、
その勇気が人々への慈愛へ向けられます
☆ いいこと尽くめですね。

お礼日時:2020/01/03 08:26

信じると知恵が沸き行動する、更に信が強くなる


不信は行動を止め無知になる、更に不信になる

信じると不可能が可能になる
不信は可能が不可能になる

信は合流、平和の元
不信は分裂、戦争への元
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 信じると知恵が沸き行動する、更に信が強くなる
☆ たぶん そうでしょうね。

ただし その《信じると》というのは どういうことをおこなうものであるのか?
これが知りたい。はっきりさせたい。んです。



★ 不信は行動を止め無知になる、更に不信になる
☆ ううーん。そうですね。一概には言えないのではないかと。


なぜなら 神は――普遍神はひとつですから その意味での神は―― じつに人知
を超えていますから 人間にはそれが《有る》か《無い》かは 分からない。いづ
れとも 人間は知り得ない。知りうるか知り得ないかが 知り得ない。

ですから 神を《信じる》と言っても《信じない》と言っても 互いに自由に同等
なのではないか? というふうにも考えられますから。





★ 信じると不可能が可能になる
☆ という場合もある・・・ということですね。つまりそうならない場合もあります。


★ 不信は可能が不可能になる
☆ そういう場合もある。ですね。決まってません。


★ 信は合流、平和の元
☆ ただしい(まちがいのない)信とは 何か? この問いがまだのこっているとは
思うんですが。

★ 不信は分裂、戦争への元
☆ それは 人間不信のほうでは? 信頼関係の破綻は そりゃあケンカの元ですか
ら。


申し訳ないですが 《信じる》の定義は? となります。

お礼日時:2020/01/02 18:23

https://www.asahi.com/articles/ASMDN53PZMDNUCVL0 …

~~~~~~~~~~~
やはり今回もダウンタウンに場kンセ定多様です。
こぼすなだのテレビで言ってましたよ。
の嫌がら
芸能人はせだらけですね。
テレビはいじめに見えました。
    • good
    • 1

雑談ですが大晦日、テレビを見たのですが少しだけですが、


そしたらサバンナが司会をしネットからネタを盗ってテレビで放送して理のですね。
ていた番組で、サバラン兄
泥棒されてましたね。ヒルナンデスの出演者は全員、シサンだったのでh沿うのでh層化。ダふみを
ちょうど見たタイミングで岸田さんとか連呼sレテ、
人物が緑になっていたり、それぞれの解釈がずれておりますだの
これはき
mも疎のほんれたんルデ見ただの
高橋南の写真集だのなぜ差版案尾番組だったのかは謎ですが、
今年は最後の日までひどいものを見シアタね。

今のテレビ番組
芸能人はそんなに仏教に今日日が有るので沿うか。
    • good
    • 1

自分とは、文化背景の異質な次元の存在のことを、他者と言うなら、そこには人も入りますが、神ですよね。

今年はいつも、様々な意見=アドバイスをいただき感謝しております。来年もよろしくお願いします。良いお年をお過ごしください。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自分とは、文化背景の異質な次元の存在のことを、他者と言うなら、
そこには人も入りますが、神ですよね。
☆ あぁ 大文字の他者( l'Autrui )のことですか。

(こういうソフィスティケートした議論は いつもわたしの指のあいだを
すり抜けて行ってしまいます)。


★ 今年はいつも、様々な意見=アドバイスをいただき感謝しております。
来年もよろしくお願いします。良いお年をお過ごしください。
☆ こちらこそよろしくどうぞ。あ・はっぴー・にゅー・いやー。

お礼日時:2019/12/31 12:47

根拠なき、自覚的な、他者への愛ですね。

    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。

《信じる》そのものの定義がないということは 人間の生きるとき
すでにおのづから《いと高きところなるものとのカカハリ》は で
きている・・・でしょうか。

あとは その自覚をもって成り立つと。


そうですね。つまり 信じる動態がすでに実存のあり方として成り
立っているとき ここでもおのづから:
★ 他者への愛
☆ が芽生える。あるいは 湧き起こる(?)。

★ 根拠なき
☆ に 信じるが込められているでしょうか。



となりますと:
★ 他者への愛
☆ とは何か? という問いに移るかも知れません。

・ 自己への愛 とどう違うのか。
・ そして 愛 とは何か?


〇 隣人愛
☆ といった主題になるのかもわかりません。

お礼日時:2019/12/31 06:13

鵜呑みにする



考えるkとは食べること
認知言語学的考え方dと
鵜呑みはかんげ手いる問うことなお出h僧ね。

意外なというか難しいですね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

考えるとは たしかに精神の胃袋で消化しますね。

★ 鵜呑み
☆ は どうですかねぇ。

お礼日時:2019/12/30 22:36

《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?


 ↑
信じるという選択肢と、信じないという選択肢が
あり、
信じるという選択肢を採る行為です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ううーん。どうですか。ううーん。


わるく見れば 半分のこたえになるのでは?

なぜって 《信じる》をまだ定義していないのですから。




神に《有る神》と《無い神》とが――互いに同等に・しかも人が自由にどちらか
をえらべばよいというかたちで――ある。・・・といった回答と同じような中身
のように思われます。

ですから じっさいの思惟と行動にとっては かなり分かりやすい恰好になって
いると思います。




《信じるという選択肢を採る行為》と《信じないという選択肢を採る行為》とは
どう違ってきますか?

この問いに答えてしまえば 満点なのでは? ・・・とえらそうに思いますが。

お礼日時:2019/12/30 16:07

>人間の心の内奥を変革する働きを持っています。


古代、中世ヨーロッパでは町中の教会に対してミサに参加しない、献金しない者に対して
普通の信者がその者に対して暴力を振るう、平気で殺すということが行われていました。
キリスト教は愛の教えです。
人間の心の内奥を変革する働きを持っています。だって。
お前、馬鹿じゃないの。

>概念を思い込んだからと言って、《信じた》ことになるだろうか? 
昔から言われている。宗教が愛の慈善をその者にもたらしたのではない。
その者が既に持っていたのだ、と。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

◆◆(№1) >人間の心の内奥を変革する働きを持っています。
★ 古代、中世ヨーロッパでは町中の教会に対してミサに参加しない、献金しない者に対して
普通の信者がその者に対して暴力を振るう、平気で殺すということが行われていました。
☆ 盲信・狂信として区分し得ます。

つまり 《心のあり方を変革する》というのは 一般によい意味であり
(つまりは われがわれに還り よりいっそうそのチカラを発揮するこ
とができるようになる) そしてそのほかにも いくつかの影響のかた
ちがある。こういうことだと見ます。

常軌を逸するような《変革》は どのオシヘにも多かれ少なかれあると
思われます。



★ キリスト教は愛の教えです。
☆ 精確に表わせば 信仰なる動態が日々の生活において ヒラメキや
あるいは良心としてはたらき その結果として隣人に対してやさしく思
いやりのある振る舞いを自然にするようになる。

このような生活日常のふつうの生き方が――信仰によって――あり得て
そのとき 自慢したい者や自意識過剰の者は いちいちわざわざ《オシ
ヘ》として打ち出したいということだと思います。

せいぜい 信仰論としては 《神は愛なり》といった命題として言えば
よいのだと見ます。

《キリスト教》と呼んでそれを言うのは 余分でしょう。



★ 人間の心の内奥を変革する働きを持っています。だって。
お前、馬鹿じゃないの。
☆ そうかも。ただ 神の弱さは人間の強さよりも強く その愚かさは
人間の賢さよりも賢い・・・かも。





☆☆(趣旨説明欄) >概念を思い込んだからと言って、《信じた》こ
とになるだろうか? 
★ 昔から言われている。宗教が愛の慈善をその者にもたらしたのでは
ない。その者が既に持っていたのだ、と。
☆ つまり オシヘは糞くらえであり 宗教は消え失せろ。です。

気が合いましたね。(二つ目のパラグラフで 同じことを述べましたで
しょ?)

お礼日時:2019/12/30 13:51

例えば地動説を信じようが天動説を信じようが、特段生活する上において大した差異はありません。


あくまでも理論、学問上の知識、概念であるが故に影響は小さいのです。
打って変わって、宗教というものは信仰であり、人間の心の内奥を変革する働きを持っています。
故に信仰の対象によって、根本的な考えや日々の暮らしに多大な影響をもたらすとは至極当然なのです。
信仰とは全くの関係もない選挙活動に現を抜かす新興宗教団体の会員などは、
洗脳され、心を牛耳られ、既に操り人形と化してしまった生きる屍とも言うべき、
大変にお気の毒な方々の代名詞なのです。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 例えば地動説を信じようが天動説を信じようが、特段生活する上に
おいて大した差異はありません。
☆ いや――臆面もなくストレートに応答しますが―― 地動説などは
やはり思想なんです。科学による証明のなされた知見ですけれども。

つまりは やはり考えるものであり 経験事象についてのふつうの認識
です。

これをわざわざ《信じる》という言葉をで表わすのは 《考えて真であ
るとつよく思う。確信している》というふうな強調表現です。

すなわち:
・ 経験事象については 《考える》という思考の緑野に属し
・ 超経験については 《無条件にわが心に受け容れる》という非思考
 の庭の問題です。

本来の《信じる》が 派生的な用法として経験事象についても横流しで
用いられています。


つまり:
★ あくまでも理論、学問上の知識、概念であるが故に影響は小さいの
です。
☆ というふうに《非本来の派生的用法である》と了解されていれば問
題ないのでしょう。



★ 打って変わって、宗教というものは信仰であり、
☆ いいえ。げんみつには 宗教は一般にオシヘです。人間の言葉で書
かれた経験思想です。

たとえそこに理解のしがたい神秘がふくまれていたとしても それを経
験合理性でわかるように説明するのは 宗教の側の義務です。

ですから 宗教というものは 信仰ではありません。考えるべきオシヘ
を何を思ってか 信じなさいと説く勘違いによって成り立っています。


★ 人間の心の内奥を変革する働きを持っています。
☆ それは 思想一般のちからでしょう。

むろん信仰にもそのチカラがあるはずですが しかもそれは 一人ひと
り個人の心ないし主観の問題におさまります。

おさまらないハタラキがあるとすれば それは 言葉をとおして第三者
が理解した思想としてなのです。《信仰》そのものを他人がわかるはず
はないと思います。



★ 故に信仰の対象によって、根本的な考えや日々の暮らしに多大な影
響をもたらすとは至極当然なのです。
☆ と言えると同時に その現象を理解しえたとするのは 信仰から外
に出てしまった思想としてなんです。


★ 信仰とは全くの関係もない選挙活動に現を抜かす新興宗教団体の会
員などは、・・・大変にお気の毒な方々の代名詞なのです。
☆ はい。

お礼日時:2019/12/30 10:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!