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No.18
- 回答日時:
端的にいえば、さっき言った通り、形而上ってのは理想のことになるんですが、その回答では不服なのでしょう?寄せた回答をちゃんと推し量ってくれてるのかな?と言う思いはあります。
haru27さんの言う、新現実主義ってのは、現実と言う言葉の意味を拡張しただけで意味が特に無い様に思うのです。例えばパソコンで、現実と言うファイルと、形而上と言うファイルの二つがあって、それを、"新現実"と言う新しく作ったフォルダに入れただけ。
中身が変わって無いんですよ。
既存の考えを刷新したいなら、既存の考えそのものを乗り越える様なやり方じゃ無いと。
人々の世界観を書き換える様な、ある種の驚きがないと新しいとは言えないと思うんですよ。存在性によって鉱物も生物の様に進化適応してるとか言う内容も、言葉の用法やカテゴリーを変えただけの様に思えるんですよね。複雑化とか、変化とか、幾らでも言いようはあるけど。生物も鉱物も含む大きなカテゴリー、(永遠に向かう)存在というフォルダを作ってそこに入れただけなんじゃないかと。静的な存在から動的な存在へと言う意味では、近代的ではあるように思いますが。
そして大事な事なんですが、haru27さんは、権威批判とか哲学界批判とか、別にやりたい訳じゃないでしょ?それは本意ではないはずです。だって、それを批判しても実際何も生まれてない。その批判内容も、批判対象を理解していないから的を得ない。単に、社会や人々の役に立たないと言う、訳の分からない上から目線で断罪するだけだから、同意を広く得られない。
大きなお世話かも知れませんが、もっと自分の探究心に素直になった方が良いと思います。それ程、時間に猶予がある訳でもないだろうに。
この質問では、私には結局、haru27さんが何を知りたいのかが分かりません。実際、形而上について知りたいわけでも無いのでしょう?
真理を知りたいと言うならば、真理は善悪の先にきっとある。でも、善悪は物理学では論じることができません。存在性思想でも無理だと思います。
例えば善く生きる事について考えたソクラテスは、敢えて毒杯を飲むに至りました。結局ソクラテスも、命が惜しかっただけだと、議会に言わせないために。善く生き切ったソクラテスは、存在を永らえる選択をしなかった。逃げようと思えば逃げれたのに。存在する為に彼は生きたのではなかった。善く存在する為に生き切ったのだから、彼の選択は現実存在を超えていたと言えると、私は思います。でも、多分haru27さんにとって自殺は悪なんですよね。少なくとも善にはなり得ない。
善悪を語るいろんな逸話があり、また善悪を示す場面が様々に想定され得る訳ですが、善悪を語るなら、善人として死ぬか、悪人として生きるかでは、前者は実は生きた事になり、後者は実は死んだ事になるのです。
haru27さんの存在性思想に合わせて言えば、"存在しない事が、正しい理解である"場合もあると言うことです。訳の分からぬことをまた言っているとお思いかも知れませんが、他人の考えを理解するのは簡単では無いし、自分の理解していない事を他人が理解している事もあるのだと、思っていただくのも良いかと思います。
ああ、善悪の先について話すのを忘れていました。善悪の先とは、超えたという意味で、決して悪に堕ちた所ではありません。
こだわり無く、過分無く、澄んでいて、苛々する様な余計な患いの去った潤った世界であり、おそらくそこが、旅の終点であるでしょう。
そこに至れば、その人の生き方は清涼なものとなり、世間に決して縛られる事のない、静かで明るい余生が得られる。
形容詞ばかりだなぁと思うかも知れませんが、〇〇しなければならないと言う事がなく、しかも人として間違える事がないばかりか、最高の振る舞いが為せるようになる。
最高の振る舞いとは、決して人に知られる事なく、人を害から守ることであります。
No.17
- 回答日時:
イデアを探究することが形而上学です。
我々には、外界(物質界)にあるものを、直接感じることは出来ません。心の中(内界)に作り出した「もの」を感じているだけです。脳を構成する粒子が「もの」に対応する動きをし、無限の感受性である精神がその刺激を受けて「もの」を感じます。
つまり心は、物質である脳と感受性である精神のコラボです。
そして我々は、外界にある「もの自体」を感じ取ることは出来ません。「もの」の動きや作用(他者への影響の仕方)を、五感を通じて感じることが出来るだけです。
心は五感から入って来た刺激より、内界に「もの」を色(形)・音・味・匂い・感触を使って再現します。一方、外界に色・音・味・匂い・感触はありません。心は五感から入って来た刺激を、色(形)・音・味・匂い・感触に変換し、それらを使って内界に「もの」を再現しています。
そして我々は、内界に再現された「もの」を知覚します。これを「主観的知覚」と言います。この様に「主観的知覚」は、先験的な直感により受動的に与えられます。
そして、心が「1+1=2」に制約されている事実は、出来る限り忠実に外界を内界に再現していることを保証しています。故に、外界に「もの」は実存しています。
したがって「ものそのもの」を、心に再現することは出来ません。「もの」の動きや作用(因果関係)を、色(形)・音・味・匂い・感触により再現出来るだけです。
この様に、外界の「もの」は感性により与えられます。意識は先ず五感を志向し、そして心に再現された「もの」を志向します。その後に意識は、「そのもの」は「何か」を志向します。
その「何か」がイデアです。
我々は、内観器官によりイデアを感じます。これを「客観的知覚」と言います。五感から形成された「もの」を帰納し、意識はその動きや作用を把握します。
それと、イデアから演繹された動きや作用が一致する(整合する)と、意識は「イデアが真である」と認識します。この様にして、我々は正しいイデアを選択することで、外界の真理を認識します。そして「客観的知覚」は、自発的な思考により得られます。
この真理(知識)を外界に実用すると、実生活上の利益を得ることが出来ます。これが「プラグマティズム(実用主義)」の思想です。
真理を認識すると、外界の実存(もの)と内界の観念(イデア)とが一致します。イデアは、「もの(外界の実存)」の本質を表します。イデアを正しく選択し、因果関係を正しく把握する能力を「悟性」と言います。正しいイデアを選択するための試行錯誤を「反省」と言います。
元々精神界にあるイデアを正しく選択することを、イデアを想起すると言います。イデアは、我々が自ら作り出したものではありません。イデアは、心の目で洞察される「ものごと」のモデルであり、五感により内界に形成された「もの」が「何であるか(ものの本質)」を表します。
したがって、我々はイデアを知っているとしか言えません。
この様に、イデアは精神界に存在しており、意識は五感から形成された「もの」に相当するイデアを探します。こう言う意味で、精神界では本質は実存に先立ちます。
一方意識は、外界(物質界)にある「もの」を帰納し、それに相当するイデアを適用します。したがって、物質界では実存は本質に先立ちます。
内界は感じで形成されます。「クオリア」は感じられる全てであり、イデアは真か偽かを判断出来る観念です。
五感により形成された「もの」に、内感により得られた正しいイデアを結合し、概念が出来上がります。概念は言語で表された時、名詞となります。以降、この概念を単にイデアと呼びます。
イデアは部分を構成し、その全体が世界(内界)です。イデア同士は依存・対立の関係にあります。自己と取り巻くイデアとの関係より、問題が生じます。問題とは、目的に沿った望ましい未来の自己とは異なる予想です。
この様に、表象されたイデアは依存・対立の関係にあり、内界の構造を表します。構造とは、依存・対立の関係にある部分が組み立てられ全体となった時の、部分同士の関係のあり方です。内界の構造より問題が現れます。
この様に内界は、自己とイデアに埋め尽くされています。自己は、物質→生物→動物→人→社会的人になるに従い、他者から受ける影響がより複雑になります。
つまりイデアは、対象を操作したら(働きかけたら)どう動くか(どう作用や機能するか)を単純化したモデルです。自己の心的動因(真善美等)もイデアです。
問題を解決するには、目的に合った未来を導ける様に、各部分を操作しなければなりません。
問題は、①その操作方法で解決出来る可能性は何%か、②解決するのに労力は幾ら必要か、③達成される目的の価値(最終目的である「自己保存」にどれだけ寄与するか)で内容が変化します。内容が変わると、問題の「価値」も変化します。
・①から③を総合して、その操作方法(解決方法)を採用するか「判断」します。そして「意思」により、採用した操作方法を適用します。
問題を構成するイデアは、その問題の因果関係に沿ったレベルのカテゴリー(範疇)を持ちます。抽象的カテゴリーから具体的カテゴリーまでの各レベルがあります。
ただの犬のイデアで因果関係を想定出来るケースと、その犬が持つ特性を表わすより個別的なイデアで因果関係を想定しなければならないケースとがあります。この様に、イデアには同一性と多様性があります。
またイデアには、作用や機能の高低を表わす低位なものから高位なものまでがあります。
時間と空間に関するイデア(図形とその動きのイデア)が一番低位です。物のイデア→道具器具のイデア→機械のイデア→コンピュータやAIのイデア→生物のイデア→動物のイデア→人のイデア→集団のイデア→国家のイデアとなるにしたがって、イデアはより高位になります。
時間や空間の因果に係るイデアは、人に予め備わっています。他の少数のイデアも予め備わっており、経験を通じてより高位なイデアを想起出来る様になります。この様にイデアは、学習・経験により洗練されて行きます。
全てのイデアは、空間と時間のイデアで表現可能です。その時、100%正確な動きと操作を表現出来ます。
五感で再現された「もの」が織り成す現象(私の表象)を、「変化しないもの(イデア)」の組み合わせで説明します。質量・エネルギー・力・喜怒哀楽・利益・真善美等のイデアで、物や人の動きを説明します。変化しない(無から有は生じず、有は無にならない)ので、「1+1=2」が成立します。
テレビやスマホと言った新しいイデアも、既に精神界に存在しています。詳しい構造は不明でも、そのイデアへどう働きかけたらどう機能するかが、そのイデアから演繹されます。
一番低位のイデアで説明出来れば、詳しい構造も明らかとなります。物理現象は1本の超ひもで表し計算されます。そうされて初めて、物理現象の全ての構造や仕組みが明らかとなります。
しかし、外界にある「超ひもそのもの」を明らかにすることは出来ません。その構造や作用動きしか明らかに出来ません。
しかし、超ひものイデアは精神界に存在しており、「そのもの」を感じることが出来ます。したがって、人は動きや作用のみの空虚な実体しか感じられないのではなくて、内容の充実した精神界の実体であるイデアを感じます。
物質である脳は、進化によりイデアに対応する様に粒子が動く「システム」を獲得しました。
イデアは形相であり、それを研究することが形而上学です。正義や善のイデアは、外界のあらゆるケースに適用して真であるものを探求することで得られます。
詳細は、下記ホームページを参照ください。
http://catbirdtt.web.fc2.com/003sonnzaironntonin …
良いことが書いてありますが長すぎて最後は斜めに読みました。
私の考えと違うのは イデアと言うものが精神に在るものなら それはけして特別なものではなく
宇宙の真理に従う精神現象と言う現実の世界である。クオリアというものではなく
物質でも持っている 生命も持つ様々な「性質」で精神は脳を中心に実現している。
実存が本質に先立つのかどうかはあまり考えていません。
イデアというのは真理に従う性質の世界であり、精神も例外ではない。ただ迷妄は在る、イドラとか。
1+1=2というものは飽く迄、数論理学の概念であり 宇宙に同じものはない。
しかしよく考えてあって感心し、勉強になります。
No.15
- 回答日時:
ほとんどいないと思います 何故ならば、知識を使う知恵を持っていないからです
無意識には使ってる人はいるでしょうけど、意識して智恵を使う人は少ないでしょうね。
哲学をする人は少し変わってると言われます。その変に拘るからかもしれません。
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No.13
- 回答日時:
haru27さんの疑問、形而上とは何か?については、プラトンからアリストテレスの哲学史を勉強すれば大体は分かります。
理想(イデア)がどこにあるか?形而上界はどこにあるか?
別世界か?現実の世界に内在しているのか?前者はプラトンであり後者はアリストテレスです。
ただ、手紙を読むのに、書かれたインクの成分を分析する様な愚は犯さない様にすべきです。それは手紙の本質ではないからです。
"言葉"がエネルギーで出来ているか、性質で出来ているか、そんな事はどうでもいいことです。本質では無い。言葉の意味とは、それの素材が何かを考えることで明らかになるものでは無いのです。手紙の内容とは、黒いインクの成分ではなく、記されている時事近況、書き手の想い、と言った様なことが、その内容であるからです。
同じ様に、人生の意味も、善の意味も、世界平和も、真理も、それらがエネルギーと性質で出来ているかどうかとは関係がありません。
なんでも物理に還元できると思わないことです。物みたいな人生を送りたいのですか?
そうでは無いでしょう。人間として、人生を全うしたいでしょう。
であるなら、考えるべき事とそうで無い事とは識別できなければならない。
その上で、世界がエネルギーと性質で出来ていると思うならそれでいいじゃ無いですか。
それがそうなら、ただそれだけということです。この手紙は、黒いインクで、アルファベットで書かれている、ただそれだけのことです。なんの意味もない。ただし、インクや文字の存在意義は、言葉を記すためだとは言えるでしょう。本質は人生にあるのであって、それの組成にあるのでは無いということです。それが、本当の世界だと言えば、そうなるでしょう。
プラトンやアリストテレスなら僕も知っています。彼らはあの時代の哲学の開拓者です
素晴らしい偉業を残しましたが それじゃあ昔の素晴らしい鋤や鍬で現代の農業ができるか?
イデアとは何か? 質料と形相とは何か? アリストテレスのほうが現実主義的でした
私の存在性理論はアリストテレスのエイドスとヒュレーの二元論に近いです。
朱氏の理気二元論にも近いです。
私はインクの成分を分析しているのではありません。言葉の意味とその可能性を分析しているのです。
訳の分からないこと書かずに もっと端的にお答え下さい。
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No.12
- 回答日時:
勿体ないもなにも、haru27さんは、権威になった思想家や哲学者達の考えを知らないじゃない。
知らないのに、なんでそれが勿体ないとか言えるんですかね。その考えには権威があるから素晴らしいはずだと、haru27さんが思い込んでるだけですよ。金がかかってるから結果を出さなきゃいけない?アホなこと言いなさんな。そんなこと言い出したら基礎研究のほとんどが存在意義を無くして吹っ飛んでしまいますよ。豊かさってのを履き違えてる。一見、役に立たないような事にも金がかけられるのが豊かさなんですよ。そうして知識ってのは増えていくんです。人間の探究心は、役立つとか、役立たないとかで言い争うような事では無いんですよ。それを知りたいかどうかが全てです。
形而上について。
形而上の、"上"と言う字にとらわれてるんですよ、haru27さんは。字面に囚われるのは迷妄に陥っている証左です。
誰も勿体ぶってなんていない。haru27さんが、学びを怠って、自分の勝手な思いと想像で語ってるから混迷が深まる。
え?読んだの?形而上について書いてる哲学の書物の一冊でも読みましたか?
下らない、どうせ、権威だから、めんどくさいから、腹が痛いから、読んでないんでしょ。
haru27さんは形而上について知りたいんじゃなくて、ただ権威批判と自説の流布がしたいだけですよ。だって、本当に知りたかったら調べるでしょ、読むでしょ、他者の意見聞くでしょ。でも、今のharu27さんにはどれも無い。一体haru27さんは何がしたいの?何が知りたいの?何が言いたくて、おんなじ事を何年も繰り返してるの?
その方が勿体ないよ。あなたの人生と時間と、それに付き合った人達の努力が勿体ない。
俺は何かおかしな事、言ってますかね?
長い割には未熟。権威や思想家は僕も知ってますよ。
その哲学界が本来の役割 人間はどう生きるかとか 学問の狭間や繋がりとか 思想や宗教を
導く新しい考えを導くこととか 1円も貰わなくてもやらなければなりません。
哲学というと学問の根本ですよ 野球で言えばキャッチャーです。色んな学問や人々の置かれた状況を
受け留めて サインをお送りゲームを作っていかなければならないのです
その哲学がこの体たらくではこの世は闇夜です。
No.11
- 回答日時:
英智界=神界=アカシックレコードのある場所?
英智界というのは人間と真理に在るのでしょうか。と言うことは真理の事を形而上というのでしょうか?
しかし真理は現実にあります。真実・真理は現実にあるのです。小さな石ころにもあります。
神界 というのが本当に在るのでしょうか?神様なんて特別なものを欲したのは人間ではないでしょうか?
ないものねだりです。神様が我々にしてくれていることは、真理に基づくことだけです。
世界大戦や数々の戦争、震災や大型ハリケーン、台風、サイクロン等の天災がある度に
神も仏もあるものかと言う人が増えてるのではないでしょうか?
アカシックレコードは在るかもしれませんね この現実に。全ての人の苦しみや努力、感情が
我々に影響していることでしょう。最後に報われれば大万歳です。
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No.9
- 回答日時:
形而上と言うのは、自然科学の上ではなく、自然科学の後と言う意味です。
これはアリストテレスが、第一原理を求める際に、プラトンが、イデアありきで説明し始めるのに対し、アリストテレスは現実の事象の中に原型を見ようとした事に由来すると考えられます。
一般には、自然哲学(自然についての)と言う書の"後"に書かれた書、と言う意味で名付けられたそうです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/形而上学
そんな哲学の歴史を聞いてるんじゃないですよ。形而上と今まで考えられて来たものは何だったのか?
形而上というのはただの精神のこと法則、真理のことなのか それとも形而上の世界というのが在るのか?
それ程勿体を付けなければならない事なのか? おかげで現代に於いて人々から形而上は棚上げされてますよ。
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しかし「形而上」とは何かということを知ってる人が何人に一人いるのだろうか?