プロが教えるわが家の防犯対策術!

(神が存在するかどうかは、ここでは俎上に載せません)
神を信じる人々は確かに存在します。
多くの文明は、このような何らかの超自然的な力を崇拝しています。
つまり、人類には、この世のものではない何かを信じる性質をもともと備わっていたようだ、と私は考えます。
ところで、物的証拠のない何かを信じることは、進化論的にみて、人類の生存に役だっていた(いる)のでしょうか?

A 回答 (27件中11~20件)

続きです


「物事をシンプルに端的に理解」しようとする大きな理由として「迷わない」を挙げました。
加えてもう一つ大きな理由があります。それは「間違わない」ようにする為です。
「迷う」事同様のデメリットが「間違う」にもあるからです。
その為に編み出したのが「概念」を持つことです。
「概念」を持つことで正確かつ迅速に判断出来るようになったのです。
「概念」を持つ為の作業は「合否チェック即ち○☓」です。
これは視覚情報を用いるのなら誰でも容易に行えますが、非視覚情報即ち「目に見えない情報」を用いて行うのは容易ではありません。
故に非視覚情報である「超自然的存在=神」の概念を持つこと非常に困難だったでしょう。
しかしながらヒトはそれを成し遂げました。
更に「超自然的存在=神」に対して「概念」を持つだけでは無く「神」と言う名前をつける事もなし得たのです。
これはヒトの「知的能力」が一定程度以上向上したからに他なりません。
それと前後してヒトは「目に見えない情報=非視覚情報」に対して「概念」を持っただけでなく
「名前を付ける」
「数値化する」
「目に見える形にする」
以上の3項目を常に行えるようになったのです。
その代表例が「時間」と「貨幣価値」です
「名前を付ける」事で情報の共有化や共通認識が容易に行えるようになりましたし、数値化する事で理解を深めかつ実用化させられるようになり、「見える形」に出来るようになった事で「考えている事=イメージ」を具現化させられようになりました(これを故養老孟司氏は「脳科社会」と呼びました)
これが科学技術を発展させ今至るようになった要因です
以上を踏まえるなら「神の概念」を持ち「神」と言うを名前を付け「神の意思」を是としそれに従った事が「ヒトの知的進化」に重要な役割を果たしたと言えるでしょう
    • good
    • 0
この回答へのお礼

<度々之ご回答ありがとうございました。

<「神の概念」を持ち「神」と言うを名前を付け「神の意思」を是としそれに従った事が「ヒトの知的進化」に重要な役割を果たした>のですね。
<「名前を付ける」事で情報の共有化や共通認識が容易に行えるようになりましたし、数値化する事で理解を深めかつ実用化させられるようになり、「見える形」に出来るようになった>
<見えない神>(概念上であるが)が<見えるようになった>といえるのですね。

お礼日時:2020/02/06 11:21

コメントをありがとうございます。



★ (№15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆☆ (回答№15) <人間の世界において相対的な善悪の概念をそれ
 なりに確かなものとして――しかも 秩序を成し得るように――活用する
 ことができるのは それは経験事象なのですから 《物的証拠》です。>

はわかりません。
これは、仮に証拠とし認めても、物的証拠に該当にしない、と思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 全体としてそういう現実である・・・のでは?

ならば 《超自然的な力》は:
★ (趣旨説明欄) 人類の生存に役だっていた(いる)
☆ のでは?







絶対性という最後の砦がないならば 善と言っても悪と言っても どちら
もたいして定まった概念ではありえず 意味さえ互いに区別がつかなくな
るはずです。


完全な相対性としてある善と悪とは たとえば酸性かアルカリ性かの互い
の混合度合いが或る程度さだまるほどにも はっきりした意味が持てなく
なるはずです。


人による勝手な使い方だけが横行するようになるはずです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
<人による勝手な使い方だけが横行するようになるはずです。>ですね。
物的であろうがなかろうが、どうでもいいことですね。

お礼日時:2020/02/03 15:28

オマケです


「超自然的存在=神の意思」を行動基準とする考え方を「2極思考」と言います
「2極思考」は物事を一定程度理解するにはとても有効な方法です
「2極思考」を技術化したのが「ノイマン式コンピュータ」です
「ノイマン式コンピュータ」が世界で広まり日常で使われていることからも「2極思考」の有効性は示されています
しかしながら「2極思考」は「全体を把握」する事には適しません。
「全体を把握」する事は「ノイマン式コンピュータ」には不向きでその代わりに「量子コンピュータ」が開発されている事からもそれは言えます
「全体を把握」するためにヒトは「知的能力を進化」させ「2極思考」から「多極思考」にしなければならない時期に差しかかっています
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<「2極思考」は物事を一定程度理解するにはとても有効な方法です>
<「2極思考」>を具体化し、膨大な判断・計算を繰り返す「ノイマン式コンピュータ」すなわち現状の2進法コンピュータコは、尊敬されるものですね。
しかし、ある程度の状況をそのまま入力して、判断・計算し<「全体を把握」>しやすい量子コンピュータは、それ以上の期待を得ていますね。2進法コンピュータとは違った面で、量子コンピュータは人への補完が期待されますね。

お礼日時:2020/02/03 11:49

ホモ・サピエンスは本能的行動である条件反射的な行動のデメリットを解消する為に「知的能力」を向上させ「行動の選択」を可能としました。


「行動の選択」が「駆け引き」に繋がりました。
行動を選択する事は「行動の自由度」を持たせる事になりますが、「自由」が故にの問題が新たに発生しました。それが「迷い」です。
「迷いの状態」に陥ると「行動が取れない」とのデメリットが生じます。「行動をが取れないデメリット」は「条件反射的行動に伴うデメリット」より大きいので「迷わない方法」を編み出さなければならなくなったのです。
その方法が「選択(判断)基準」を持つことです。
多くの民が「選択(判断)基準」として選んだのが「超自然的存在=神の意思」です
「超自然的に存在=神の意思」を是とする事で「迷い」を回避しようとしたのです
物事をシンプルに捉え端的に理解するようにしたのです。
よって「超自然的な存在=神の意思」を信じるしかないのです
「超自然的な存在=神の意思」を信じなければ「迷い」が生じてしまうからです
物事をシンプルに捉え端的に理解するその思考方法は科学の発達に寄与したことから、その思考を信じる事もまた科学の発達に寄与したとなります
以上を質問に当てはめるなら
「超自然な力(神など)即ち物理的証拠のが無い何かを信じる事」は「知的能力の進化」に繋がりました。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
<行動を選択する事は「行動の自由度」を持たせる事になりますが、「自由」が故にの問題が新たに発生しました。それが「迷い」です。>
<「超自然的に存在=神の意思」を是とする事で「迷い」を回避しようとしたのです>
<物事をシンプルに捉え端的に理解するその思考方法は科学の発達に寄与>のですね。
人の心には、理由を付けたい、すなわ<シンプルに捉え端的に理解>したい、という気持ちがありますね。

お礼日時:2020/02/02 15:28

№9です。


★ 物的証拠
☆ の証拠を示します。

1. 人間にとっての《よしあし》は 相対的なものです。

1-1. どっちもどっちであると言える部分があり 程度問題におさまる
部分が大きい。

2. というほどにその善性あるいは悪性が 一義的に変わり得ないかたち
で決まっているわけではないのですが しかも問題は その上でもさらに困
ったことが起きます。

2-1. よく言われるように 《善は悪 悪は善なのだ》とか あるいは 
《悪であってもそこから善を生むことがあり得る》だとかと言うまでに そ
の相対性の中身が ずいぶんあいまいであると指摘されます。

2-2. あなたはあなたのおこなうことが善であると言うが ほかにも善
悪の判断の基準はあるんだ。独り善がりであってはいけない。――と指摘さ
れる問題があります。

2-3. そうであっても――そんなこんなであっても―― なおひととお
りの《良し悪し》の考え方が ナラハシとしてでも 成り立っています。

2-4. 意志をないがしろにしたり存在を抹殺するのは ゆるされないと。


3. ところが 存在も意志も果てはいのちまでも どうせ互いの関係だけ
で良し悪しが決まり どっちもどっちではないかという一方に片寄った投げ
やりな考え方が それなりにしりぞけられるのは どうしてか?

4. その理由ないし事情が 《超自然・超経験なるナゾ》にかかわってい
ます。


5. なぜか? かんたんです。良し悪し〔なる経験自然〕を超えた絶対性
が想定されているなら その視点から 相対的なものごとやその判断の基準
をとらえることが出来るからです。

5-1. 先ほどの対立する議論が 悪無限に落ち入らないとしたらそれは
善悪を超えた絶対性という考え方があるからです。水掛け論に落ち入らない
という――たしかに立証しづらい――良心ないし信念があるからです。

5-2. たとえ水かけ論にじっさいには終わっても 社会生活は一定の秩
序をもってすすめて行けます。相対性が 《純粋な?》相対性に終わらない
〔と思うことができる〕からです。

5-3. それは 超自然なるナゾ〔の想定〕によっています。


6. 絶対性なる超自然そのものの証拠は挙げられづらいでしょうが それ
を想定し ナラハシとしてでも持って使用するというその主体つまりわれわ
れ人間 この存在は じゅうぶんに証拠立てることができます。

7. 人間の世界において相対的な善悪の概念をそれなりに確かなものとし
て――しかも 秩序を成し得るように――活用することができるのは それ
は経験事象なのですから 《物的証拠》です。

7-1. 《超自然》にとっての間接的な物的証拠です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

<人間の世界において相対的な善悪の概念をそれなりに確かなものとし
て――しかも 秩序を成し得るように――活用することができるのは それ
は経験事象なのですから 《物的証拠》です。>はわかりません。
これは、仮に証拠とし認めても、物的証拠に該当にしない、と思います。、

お礼日時:2020/02/02 15:10

>物的証拠のない何かを信じることは、進化論的にみて、人類の生存に役だっていた(いる)のでしょうか?



分かっていません.以下,
https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教の起源
から抜粋

しかし宗教的精神の進化を駆動したメカニズムについては議論がある。二つの主流な説はどちらも、宗教は自然選択によって進化したと考えているが、一方は宗教それ自体が選択上の有利さをもたらしたと考え、もう一方は宗教が他の精神的適応の副産物だと考えている
(中略)
心理学者スティーブン・ピンカーにとっては宗教的信念に向かう普遍的な傾向は真に科学的な謎である。彼は宗教が適応と見なせる基準を満たしておらず、宗教的な心理は祖先の生存を助けた他の精神的適応の副産物だと考えている。一方D.S.ウィルソンは宗教が集団の生存を助けた群選択的現象であると主張している。
(中略)
ボイヤーは宗教の様々な成分、儀式や超自然的概念、規範の指示、葬儀や死への説明などについて、それぞれが異なる認知能力に根ざしており、異なる起源を持ち、したがって現在見られる宗教の起源を説明する単一の理論は存在しないと述べている[36]。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご尤も

お礼日時:2020/02/02 10:18

>物的証拠のない何かを信じる


その部分は違う、というべき。
要するに、昔(4大文明のころを想定)においては、神という概念は非常に科学的な結論だった、ということ。
なぜこうなるかというと、

観測事実:
・ある程度複雑なもの(機械類を想定)は、誰かが作った。
・複雑なものをほっておくと壊れて、単純なものになる。

では、生物のような複雑なもの(この世界全体もここに含む。)って、いったいどうやって....

可能性の候補として、
・誰かが作った。    誰かの能力考えると、それ、無茶苦茶複雑なものなんだが... それ以外には矛盾なし。
・無限の昔からあった。 それ、問題の先送りだけなんじゃあ....
・自然発生した。    観測事実に矛盾。
こんなところ。これ以外の可能性は考えなくていいと思う。

で、物的証拠が何もないのが「自然発生」、物的証拠がものすごくあるのが「誰かが作った」ですねえ。
「誰か」というのはめんどうなので、以下、「神」とします。


あと、
>物的証拠のない何かを信じる
と言われても困る別の理由があります。数学です。

数学は、物的証拠は皆無です。
何?物理法則はどうなてってる?
物理法則とは、物理現象をモデル化したもの。モデル化が正しければ観測事実と一致し、モデル化が間違っていれば観測事実と一致しません。どのみち、数学が間違っているわけはありません。数学に物的証拠を与えることはできません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<(4大文明のころを想定)においては、神という概念は非常に科学的な結論だった>ことですね。
ところで、この<科学的な結論>を持っていることは、役立ったのですか?

お礼日時:2020/02/02 07:58

「超自然的な力」とは、全知全能の人格神や、種々の神の起こす奇跡的力、


ということになると思います。
科学的因果関係を超えた、正に「奇跡」ですね。

それと、「この世の中の何らかの力」例えば、運命的、因縁的流れとか、社
会の時代の流れとか、アダムスミスの「見えざる手」など、人間の経験的に
捉えた「力」。これとても、科学的に証明されているのではないものがほと
んどでしょう。

まず、この二つをキチンと立て分けるべきかと思います。

宗教的なものであろうが、占いでも人の言うことでも、どう考えても因果関
係が「ない」と言えるものを信じることは役に立たないどころか危険である
と思います。
数字を根拠にしていても、その数字や解釈が出鱈目であった場合も、これに
含まれると思います。

しかし、後者のものであれば、経験的・論理的に考えて、信頼に足るものと
思えば、信じればよいのです。
何らかの分野で成功している人たちは、独自の哲学を持っていて、それを信
じています。何となく科学的でないから信じない、などということがありま
せん。

尚、前者を信じるということは、進化論的には勿論、マイナスでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
超自然的な力は、分析して区別すれば、役に立ったものもあれば、役に立たなかったものもあるのですね、
1.<科学的因果関係を超えた、正に「奇跡」>
<因果関係が「ない」と言えるものを信じることは役に立たないどころか危険である>
<進化論的には勿論、マイナス>なのですね。
2.<人間の経験的に捉えた「力」。これとても、科学的に証明されているのではないものがほとんどでしょう。>
<経験的・論理的に考えて、信頼に足るものと
思えば、信じればよい>のです。

お礼日時:2020/02/01 13:00

例えば太陽神が崇拝されるようになったのは、農耕が始まったからだと言われています。

農耕において暦は有用で、天文知識が即、人類の生存に役立っていたのですね。
しかし、天文知識は難しく全ての人々が理解できる性質のものでは無かったために、神という形で寓話として共有を図ったのだと思われます。
神には、根拠があったのですね。
信仰の形態が時代を遡れば遡るほど、その意味は汲み取りやすくなります。
狩猟採集時代には、動物が神として崇められたケースもありますね。
時代時代において、人間の生存に最も身近、影響力のあるものが神とされるのではないでしょうか。
現代で言えば科学技術が人間の生存を支えていますから、科学の最先端らしきところを神の御座と考えるケースがよく見られます。
宇宙なんかがその代表ですね。未来のAIなんてのもあります。
神は、人々が理解できないものの、確かに人々の生存の強く影響しているものを、寓話として自分達の世界に取り込むための変換装置なのですね。なにからなにに変換するのかというと、知識を物語に変換するのです。
従って、純度としては神よりも知識の方が優っています。神はあくまでその人や集団における物語の一因に過ぎませんが、知識は確かに時代と文明を牽引しているからです。
この知識の奴隷にならないために、神と言う物語が必要なのであります。
知識を運用出来る人にとっては、神は語られるもので語り得ないものではないのですね。

語り得ないものについては観察と考察によって見究める対象であると言うことになりますか。

つまり、神は超自然的なのではなく、ある人々の理解を超えているものであるということです。ある人々に自然を理解し切れてない部分があるなら、神は超自然的な振る舞いを、その人々の世界観の中で、物語の中で、為すことになる。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<神は超自然的なのではなく、ある人々の理解を超えているものである>ですね。というこ<ある人々に自然を理解し切れてない部分があるなら、神は超自然的な振る舞いを、その人々の世界観の中で、物語の中で、為すことになる。>ですね。
ご回答読んでいる間に、歴史的に俯瞰すると、神の代わりに哲学にでも、よく似て適合する筋道だな、と理解しました。

お礼日時:2020/02/01 09:59

★ 超自然的な力(神など)すなわち物的証拠のない何か


☆ という規定は:
★ つまり、人類には、この世のものではない何かを信じる性質を
もともと備わっていたようだ、と私は考えます。
☆ という命題(判断)と 微妙にですが 矛盾するところがある
のではないでしょうか?


すなわち:
★ 何かを信じる性質をもともと備わっていたようだ
☆ というときの《性質》は まわりまわって:
★ 物的証拠
☆ になっているのでは?





ヒラメキ直観や良心にかかわるヤマシサ反応(恥ぢの感覚をともな
う)などには あたかも超自然のチカラがかかわっていると言える
としたら 経験事象として物的証拠に――結果的に――なっている。
のでは?






経験的でふつうに自然の思考を超えたなお思考内容を ひとはヒラ
メキとして得ることがあります。

そのヒラメキは どこから来たのか。



あるいは 何かよからぬことを思ったり果てはそれを実行しようと
すると 胸は動悸をおぼえ顔が赤くなり舌はしどろもどろになると
いうヤマシサ反応が現われます。

恥ぢという感覚および意識をおぼえます。そのハタラキを成すのは
良心と名づけられていますが その良心は どこから来たのか?



これらの現象は 人間にそなわった身と心との(身体・感性と精神・
理性から成る)自然本性に なおその経験自然を超えたところの何
らかのチカラがはたらいたと見られ得る・・・のでは?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/02/01 09:43

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!