一回も披露したことのない豆知識

お釈迦様が悟ったとか イエス・キリストが悟ったとか言いますが

悟りとは何を以て悟りと言うのでしょうか?

哲学や宗教で悟りとは何か?

あなたは何を悟りましたか?自分の人生で?

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    私は存在主義・愛情主義・新現実主義を考えました。

    存在することに意義があり、存在することが価値であり、存在することが目的であり、存在することに意味があります。

    愛は最高の存在性です 愛とは互いに活かし合うことです ラブ&ピースです。

    正義は全員の人権を守ることです。

    真実も真理も現実の中にあります。現実を良くすることが何より大切です。地獄も転生もありません

    生きてる間の現実が未来に繋がっていくのです。因果律です。因果応報 良い事をすればいい因果が廻ります。

      補足日時:2020/02/14 22:37

A 回答 (28件中21~28件)

悟ったことをもって悟ったのであるわけですから


悟ってない人間が想像してもわかるわけがありません
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この回答へのお礼

成る程

お礼日時:2020/02/13 23:20

> 悟りとは何を以て悟りと言うのでしょうか?



 客観的には、ある個人が、様々雑多な現象・経験を貫通する明晰な説明を構成し、その結果として何をしたらどうなるかが予見できるようになる、ってことです。当の個人にとっての主観的には、言葉にすれば「なるほど、そーいうことだったのか!」という経験ですが、ただしその場のヒラメキなんて程度のものではない、核心を掴んだという確信がある。なぜなら、その説明が適用できる対象が広いからです。

 「哲学や宗教で」はない悟りを考えてみるのがよろしかろうと思います。典型は、たとえば力学の発明。ケプラーが経験則として発見した天体の運行に関するいくつかの規則性と、ガリレオガリレイが身近な物の運動を調べて発見した規則性を、ニュートンが僅かな数の、あらゆる物に適用できる単純な規則から導けることを示した。これは個人による発明ですから、悟りと呼べましょう。
 その後、この説明に従って得られる非常に多くの予見が成功することによって、それは「法則」と呼ばれるようになる。しかしこのプロセスは科学であり、個人に属するものじゃありません。

> あなたは何を悟りましたか?自分の人生で?

ある発見をしました。(実際に利用されて世の役に立っていますが、使えるかどうかは「悟り」の必要条件ではないでしょう。)数日間ほどの極端な集中の末に、いきなり説明が、これが答だ、という確信を伴って「降りてくる」んでした。それを人に伝わるように言語で記述し、細部を詰め、個人的感慨を拭い去って冷たく美しい形に纏める作業は、考えていた時間よりも長く掛かったんですが、確信に支えられてますから、むしろ楽しい作業でした。
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インスピレーションごときで悟りとは言えません


悟った、と言う
エセ聖職者、霊能者、詐欺師ペテン師イカサマ師マジシャンが多いので
証明が必要ですね
瞑想にふけって動かない人
冠婚葬祭に忙しく金集めをする人
寺に閉じこもり、金の計算をしている人
机上の上で、理屈をこねてるエセ哲学者
荒行で満足している人
山や川や滝で修行している人
これ、ダメでしょう

結局、人を何人救ったか、これしかありません
何をもって救ったか・・・・何・これが悟りの実態です
例えれば
人生の、大海原での羅針盤であり、山で迷った時の道標です

釈迦もイエスも孔子もソクラテスもそれを示しました
例えば、ソクラテスは、「汝自身を知れ」、、、異論もあるでしょうが
喩えですから
釈迦は、生死の法則、かな
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この回答へのお礼

Thank you

仰る通りでしょうね。倫社の本にもそう書いてあるのでしょうけど

社会に出たら行き成りそんなものは忘れざるを得ません どれだけ仕事が出来るか

人間関係を上手くやっていくか 金を稼ぐか 楽しい思いをするか 彼女彼氏を作るか

何かそういう感じになってしまって 学校で習った事は建前だったのかと思わされます

そして年を取って来て 矢張り結局は最初から正論で生きていけたらよかったなあ

と思うのではないでしょうか?

つまり青春の疾風怒濤時代と恋愛、結婚、育児、仕事、人間関係に追われて 食う事に追われて

青雲の志もなかなか通用しないのではないでしょうか。

お礼日時:2020/02/13 23:19

お釈迦様が悟ったとか イエス・キリストが悟ったとか言いますが


悟りとは何を以て悟りと言うのでしょうか?
 ↑
お釈迦様やキリストの悟りは、普遍的な
悟りでしょう。

その悟りとは、人間とは、人生とは、世界とは
何か、に対し回答を得た、ということだと
思います。




哲学や宗教で悟りとは何か?
あなたは何を悟りましたか?自分の人生で?
  ↑
普遍的な悟りは無理ですが、自分なりに
悟ったつもりではいます。
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この回答へのお礼

Thank you

普遍的に悟るには哲学と現代科学と倫理学とかを以てすれば何とかなるんじゃないでしょうか?

自分なりに悟っていれば人生は大体上手く行くのではないでしょうか?

普遍的な悟りを普遍させるには普遍的な言葉が必要なのではないでしょうか?

その普遍的な言葉が 存在 性質 存在性 永遠 意味・価値・意義・目的 ではないでしょうか皆さん(共産党調)

お礼日時:2020/02/13 23:10

私の覚りはまだありません。


ですが、幾らか理解している事を話そうと思います。

仏道では、一切の苦悩の消滅を以て覚ったと言います。
世に、解空したとか、大悟したとか、愛を悟ったとか、神を知ったとか、色々とまことしやかに自らの体験を語る者達があっても、根本苦を滅して居なければ、彼らの楽は苦に転じる事さえ少なくない。かく言う私自身もそうだった。
それで、問題は苦とは何か?と言うことになる。生まれ、老い、病、死は四苦と仏門では呼ばれるけれど、仏はこの世は一切が苦であると見るべきと言う(一切皆苦)。一切が苦であると見得た時、一切の苦の消滅をも見ると言う(苦集滅道)。
この分かり難い事(真理)を自ら体現して、覚ったと仏門では言われる。

分かりやすい所から具体的に言おう。
人は、例えば怪我をしたらそれは苦だと思う。しかし更に苦しいのは、怪我をしたことによって誰からも見捨てられてしまった場合である。

生まれ(例えば犯罪者の子供に生まれるとか、生まれつき容姿に劣るとか、生まれつき心身に障害があるとか)によって見下され、老いによって嫌悪され、病によって遠ざけられ、死によって忘れ去られる。
身体的な苦痛もさることながら、人間(じんかん)において救いが無い事も、苦と言うのでは無いだろうか。

この苦、差別を克服する事を、一の矢に射られても二の矢に射られないと喩える。一の矢とは身体的苦痛であり、二の矢は精神的苦痛である。
ところで、完全な覚りはこの射出される二種の矢を完全に回避する。二度と生まれない事によって、生存する身体を受けない事によって、一の矢を克服し、人格を完成する事によって二の矢を克服する。前者を形態(身体)の解脱と言い、後者を名称(心)の解脱と言う。妄執を滅し、想いからの解脱を達成して、智慧の解脱、慧解脱と言う。"妄執"が人を生まれさせるからである。

ところで、生老病死には、反対も考えられる。良い生まれ、若さ、健康、生存である。
良い生まれによって傅かれ、若さによってチヤホヤされ、健康によって明るく、生存を謳歌する。しかしこれらは無常によって失われると言う事である。再生の素因を作ると言う事は、再び苦を受けると言うことであるから、解脱者は再生の素因を作らない。禍福の因を積まないとも言う。

この様に私は理解しているが、これに誤りを見出し得て、それを正せる人がいるなら正してもらいたい。
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この回答へのお礼

ありがとう

仏教の理解は分かりませんが 二度と生まれないことが句を克服するというのは如何なものか?

誰でも二度も生まれてこないでしょうねえ。輪廻転生とかしませんよ

二の矢はいいですねえ人格をよく形成することによって苦を遠ざける、苦と思わない

私の場合は心身ともに病んでいますがそれよりも何よりも 自分の作った製品が売れない

自分の考えた哲学が売れないのが残念です。痛いのは誰でも嫌でしょう マゾでなければ。

もう人間として生きててどうと言う事もないですねえ。死にたくないという本能や習慣があるから死なないけど

自分のガニ娘が売れてくれれば もう一生をかけたプロジェクトは終わりです

後は母の世話でもして呆けて車にはねられるか肺炎になるかして死ねればいいですが

誰からも理解されない苦しみが私にとっては一番の苦しみですねえ。

お礼日時:2020/02/13 22:53

>>悟りとは何を以て悟りと言うのでしょうか?



「一段階上がった、ひとつ上からの見方ができるようになった」ってことを「悟り」っていうようです。
学校の体育とかスポーツに例えたら、鉄棒の坂上がりができなかったのが、2か月努力してできるようになったとか、テニスのスピンサーブが練習の甲斐あって、90%の確率で決まるようになったというみたいな感じ。

もちろん、スポーツには、どれでも、1つできたら、次にマスターすべき難しい技ってありますよね?
それと同じように、宗教においても、座学とか座禅、瞑想修行等で、何らかを「悟った!」とか「判った!」あるいは、「○○に執着していたけど、それが無くなった!」って感じで、1段階ほど悟りが進むことだと思います。
だけど、それは「1段階の進歩」であり、さらに先の悟りを得る修行が続くってことです。

たとえば「あの世の存在(天使や悪魔たち)」と交信できるように瞑想修行を続けて、それが可能になったなら、それは一つの「悟り」といえるでしょう。
また、他人の心が読み取れるようになれば、それもひとつの「悟り」だと思います。

私が幸福の科学で学んだ悟りは「人間は永遠の生命を持っている」ということを、それなりに信じられるようになったことでしょうか?
このフレーズは、幸福の科学に入会した方が、最初のころに教わることですけど、それなりに信じられるようになるまでに学び続けて20数年かかりましたね。
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この回答へのお礼

Thank you

成る程~~~と読んでたら 幸福の科学。よくは知らないのですが霊媒って勘でやってるんじゃないですかねえ?

人間は永遠の生命を持っている イエスもそう言ってますし、多くの宗教も永遠を語りますねえ

僕も永遠の一派です。人間は永遠を目指して生きるのです。タスキを繋いでいくのです

子孫に繋ぎAIに繋ぎ我々の存在への意志を実現していくのです。

何次元とかいうのは分かりませんが 新しいから正しいわけではないので 古きからも学ばなければなりません

幸福を科学するというのは分かりませんが(科学というのは測って推論して実験して法則を見つける)

20数年ですか 僕も自分で考えて20数年かかりました。

幸福の科学の人が投稿してくれたのは ひょっとしたら初めてかも知れません(今までは知りませんでした)。

悟りは段階的に進むのですね。人間は永遠の命を持っている どうもありがとうございます^^

お礼日時:2020/02/11 22:11

「無知の知」です。


悟りを知らないから考えるというのが悟りです。→悟る+悟らない

「あるがまま」→分別知+無分別知
「人間万事塞翁が馬」→ある事象には良い面と悪い面がある。
「あるがまま」「人間万事塞翁が馬」→十円玉が回転している重ね合わせの状態(量子)です。
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この回答へのお礼

Thank you

量子というのは10円玉が回転してる様な状態で分るのでしょうか。

確かに真実・真理を全て見極めた人は居ないし、何も知らない人も珍しいですよねえ。

一瞬と日本人はいうけど 一時点なんですよね 存在は。その時はたしかに10円玉が立っているのです

でも一時点だけじゃあ何者かわからないから一瞬を観て 何 と言う 存在か名前をつけるんですよねえ

人間にしても一時点じゃなくて 空じゃなくて 色を見て何という存在

例えば酸素分子という存在、水という存在 人間という存在 地球という存在という風に

名前をつけて認識をする訳ですよね。それが経験となって概念になって考え、思想と成る

「私の考え」になる訳です。 脱線しましたね。

人間万事塞翁が馬というのは言えてますが いいことも有れば悪いことも在る それが繰り返しやってくる

と言うくらいに思っていました。

お礼日時:2020/02/11 19:37

価値観・人生観は10人十色だろから


人それぞれだよねぇ

正解があると思うから、そうやって探そう
という気になるのだろうけど私的にはそんなものは
ないと思うな。

敢えて個人的に1つとなれば
「色即是空 空即是色」で以て妥協しているような気がする。
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この回答へのお礼

Thank you

色即是空 空即是色 と言うのはお釈迦様が悟ったのでしょうねえ。

全てのものは実体無く転ろう、移ろう 無常ということ。

日本人は特にその観が強いですねえ。

お礼日時:2020/02/11 19:17

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