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戦国武将の本多忠勝が好きなのですが、よく対比される「立花宗茂」と忠勝について気になることがあります。
豊臣秀吉が両者を「東国無双の本多忠勝、西国無双の立花宗茂」と賞賛したところから、ネットやゲームなどではよく対比、同格と見られていますが、どうもしっくりきません。功績からいえば忠勝のほうが随分上なように感じます。
また、ネットを見ていると、小説家の菊池寛が「秀吉は宗茂を本多忠勝と比べているが、本多忠勝などよりも遥かに優れた武将である」と評したそうですが、納得できません。

本多忠勝は徳川家康を若いころから支え、時に命を守って天下人まで押し上げた名将です。その功績や武勇伝は数え切れません。簡単にまとめると、
・初陣での首取り
・信長から「花も実も兼ね備えた武将」、秀吉からは「日本第一、古今独歩の勇士」と“戦国最強”と褒め称えられる
・姉川の戦いでは単騎で突入し、朝倉軍の猛将・真柄十郎左衛門と一騎打ちし、あっさりと打ち取る。この戦いぶりで朝倉軍は恐怖し、徳川軍が勝利
・三方ヶ原の戦いの前哨戦である一言坂の戦いで殿を務め、最強武田軍を少数の兵で蹴散らし、武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と最大級の賞賛を受ける
・本能寺の変後に信長に殉死しようとする家康をなだめ、伊賀越えでは家康を守る
・小牧・長久手の戦いでは、たった500の手勢で秀吉軍10万を翻弄、撃退する
・関ヶ原の戦いでは諸将を調略。武勇だけでなく知将としての顔も見せる。また、本戦では精鋭で知られる島津軍を追撃し、切り崩す
・名槍「蜻蛉切」を片手に生涯57回の戦に参戦するも一度として傷を負わなかった。常に前線で槍を奮ったにも関わらず。

以上です。

一方の立花宗茂ですが、活躍したとされる点を書いてみます。
【島津軍侵攻を防ぎ、豊臣軍の九州入りまで耐え抜く】
立花山城は難攻不落。そのうえ、先に宗茂の実父の高橋紹運が約700の手勢で島津軍3万と戦って壮絶な最期を遂げ、島津軍は死者数千人に及んでいます(岩屋城の戦い)。そんなボロボロの状態ではまともに戦えません。また島津軍の総大将は島津忠長という凡将。これが島津四兄弟だったら瞬殺されていたでしょう(忠勝なら勝てそうですが)。また立花山城の戦いはたった数日しか行われておらず、豊臣援軍の九州入りによって助けられた形になりました。宗茂は柳川の大名に抜擢されていますが、これは武功というよりも紹運の戦いぶりを評価してのもので、宗茂の活躍とは言い難いです。

【肥後国人一揆】
相手があまりぱっとしませんし、名将・小早川隆景との共同かつ隆景の働きぶりに助けられた感が拭えません。

【小田原征伐】
特に活躍なし。にも関わらず冒頭の「東の本多、西の立花」と言われています。が、宗茂は直臣の大名、一方の忠勝は徳川配下のいわゆる陪臣。それなのに同格といわれたのは忠勝が大名級の名将なのか、宗茂が大名なのに陪臣レベルと軽んじられていたのか、どちらかと思います。

【朝鮮出兵】
別に宗茂に限らずですが、この戦いは眉唾な逸話が多いです。宗茂が活躍したとされる碧蹄館の戦いですが、これは小早川隆景や宇喜多秀家のおかげというのもあります。

【関ヶ原の戦い】
まさかの本戦にすら参戦できず、大津城で足止め。しかも大津城主の京極高次は“蛍大名”と揶揄されるほどの愚将なうえ、寡兵でした。さらに本土帰還後は鍋島直茂に攻められ、兵数差があまりないにも関わらず、大敗しています。そのうえ改易されるという体たらく。

【大坂の陣】
浪人していたところ、徳川秀忠に拾われて秀忠軍に従軍。参謀を務めました。その結果、夏の陣では秀忠軍が大野治房という戦知らずの凡将に追い詰められる結果に。

以上です。
どうも宗茂は過大評価がすぎるのはないか、と思います。
このように両者の功績を見比べると、どう見ても忠勝のほうが格が上ではないでしょうか。
歴史にお詳しい方、忠勝のファンの方、ご回答よろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

武功だけをみれば忠勝のほうが上のように思います


しかしながら、関ヶ原で失った領地をそっくりそのまま回復させるというくらいですから、宗茂も相当な器量です
総合力では比較しがたいのかもしれません
槍働きでは忠勝公
政治力では宗茂公

信長公など戦国末期に活躍した大名は、戦場での働きだけをみて評価していたわけでなく、
情報収集能力・統治能力など文官としての能力も重視していました
(例えば秀吉公・・・戦下手だが文官としての能力を非常に高く買って石田三成を5奉行の1人につけました。一方後の土佐藩主山内一豊・・・槍働きの名手でしたが「猪武者では役に立たない」と秀吉からの評価はいまいちだったようです)
武力だけでも、文官としての能力だけでも生き残れない時代ですから、両方をバランスよく持っている武将が高く評価されたのではないでしょうか
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
たしかに領地を回復させた、という点は評価できますね。
強い忠勝と賢い宗茂、といった感じですかね。

お礼日時:2020/04/28 13:17

並び称したのは秀吉なのですから、世間の評価ではなく個人の勝手な感想に過ぎません。


実際の武芸の技量や勝率データ等を元に公平なジャッジをした訳でもないので、「西国
無双の名にふさわしい武将は○○のほうだろ!」とか「忠勝とでは力量や名声が釣り合
ってない!」とかって異論・反論は、当時の人からも出ていたんじゃないでしょうか。
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両者ともに10万石の大名


家禄だけから言えばどちらが優れていたという事はありません
あえて言うなら宗茂は西軍でありながら元の大名に復帰したのですから、その能力は戦時より寧ろ平時に発揮されたのでしょう
となれば、両社を比べ優劣を語ることにあまり意味はありません


ちなみに
今でも「ただかつだーーーっ!」の一言で、何をおいても逃げ出してしまいます
勝てるはずない
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鬼島津を撃退してるなら


かなりの得点アップではないでしょうか?

イギリス海軍も舌を巻いた

鬼の島津ですもんね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
たしかに相手が精鋭の島津兵だったのはポイントになるかもしれません。
ただ、本文で述べた通り、宗茂の場合は岩屋城の戦いでボロボロになった島津軍相手に数日間、籠城していただけのため得点にはならない気がします。
関ヶ原の戦いでの忠勝はその島津(しかも率いるのは鬼島津こと島津義弘)をボコボコにしているので、忠勝のポイントが高いと思います。

お礼日時:2020/04/28 13:19

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