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人間の幸福とは、
結局、ドーパミンとセロトニンとオキシトシンの分泌量で決まるだけですか?
幸せな人生を送った、と生きたのは、
脳内物質たくさん出せた、で終わるだけですか?
そうすると、幸せを追求する人生よりも、
世の理や、真理を追求する生き方のほうが価値があるのでしょうか。
私は今まで幸せを追求してきましたが、もしや、世の理や、真理の中に、私が生きる意味があるのでしょうか。

A 回答 (9件)

幸福とは、不幸でない状態のことだ。



不幸でもない時に、幸福を追求してはならない。
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この回答へのお礼

そういう考え方もありますね。
私は不幸ではありません。

お礼日時:2020/06/25 19:33

神経伝達物質による幸福とは、あくまで感覚、言ってみれば本能的幸福。


真理は超自我的幸福を満たすために必要とされるもの。
その幸福のためには自身で納得できたか否かが問われるわけですが、その納得できる基準として真理は絶対的価値を保持している。
むろん、何が真理かという問題は常に積み残された状態ですが、それを求め続けること自体が幸福ということも言えないわけではない。
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この回答へのお礼

真理を求め続けることは、
人生の目的に到達することに酷似していると思います。
幸せかどうかは、私の中では、ただの副産物であり、脳内を駆け巡った一時的な感情です。
私が生まれたのは何故か、何のために生きるのか、生まれた目的に気付かないとまず何のために行動するのか羅針盤がありません。

お礼日時:2020/06/25 19:36

人間の幸福とは、


結局、ドーパミンとセロトニンとオキシトシンの分泌量で決まるだけですか?
 ↑
ドーパミンなどの体内麻薬で得られる
モノは快楽であって、幸福ではありません。
幸福とは、人生における満足を意味します。



そうすると、幸せを追求する人生よりも、
世の理や、真理を追求する生き方のほうが価値があるのでしょうか。
  ↑
快楽を追求する人生よりも、真理を追究
する人生の方が満足度は高いかもしれません。



私は今まで幸せを追求してきましたが、もしや、
世の理や、真理の中に、私が生きる意味があるのでしょうか。
 ↑
快楽=幸福
という錯覚があるだけです。
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この回答へのお礼

快楽は幸福では無いのですね。
幸福は脳で感じるものだと思っていました。
不幸も幸福も脳で感じる動物的な欲求で、それを満たすためのトラップが至る所に仕掛けられていて、
惑わされず真理を追求することが、人生の目的に辿り付ける方法だと思います。

お礼日時:2020/06/25 19:24

真理を解すると、付属と言うか、副産物的に幸せも獲得できるんじゃないかと思います。


何故なら、真理の探究においては心は落ち着いてきますし、争いからは遠ざかりますし、色々のこと(世界とか人間など)についての理解が進む事によって、不安とか、焦燥感とか、不全感とか、そういったものが減衰し、更には善い友人との縁に恵まれて、遂に真理を悟るからです。

つまり真理の探究を経て諸々の徳を備え、人格が円満になって、結果的に幸せになるのです。
例えば、食事をすることは栄養を摂取することが目的ですが、それが素晴らしい料理であれば味も最高なわけです。その味は食事においては主目的ではなくあくまで付属的な楽しみではありますが、真理の獲得についてはそれ(味=幸せ)も付いてくると言う事です。

他の譬えで言えば真理の獲得とは、病気を治すのに、心身に極端に負担のかかる手術や強い薬を使うことなく、心身にかかる負担を最小限に抑え、しかも病気を快癒させるような妙薬を飲むようなものです。薬の目的は病気を治すことですから、美味しい必要はありません。むしろ美味しさで人を虜にしてしまえば、必要もないのに薬を飲む羽目になってしまう。それでは薬は薬ではなくなってしまいますね。真理や智慧も同じで、それを得るのに何の負担もないと言う点で、他の理や知識よりも優れており、全てを明らかにする(悩みが尽きる)と言う点で、一つ謎を解くごとに更なる謎を生じるような、科学的見解とは性質を異にしています。

人に、幸せを目指すなと言うのは無理な話です。人間だけでなく、多種の生物もおそらく幸せを目指しており、それは生存の目的でもあります。しかしながら、それを超える目的を見出した時に、幸せに縛られない自由を得て、幸せとは何であったのかその全容を知るに至るのではないでしょうか。

ところで、美味しい料理を食べ過ぎて苦しくなれば本末転倒です。人を虜にするものは結局は苦しみを生み出します。美味しい料理をちょうどよいくらい食べて、その余韻を楽しむのがグルメな人です。彼は適切に食事をとっていると言えるでしょう。

禅定の味を貪ればかえって退転する愚を知り抜いているので、真理を悟った人は禍福の因を積まない。その幸せを称して円かな安らぎと言うのであります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
真理を追求するのは、食事で栄養を取るようなもの、
味を楽しむ(食事の副産物)のは、幸せを得ること、
ということですよね。
目先の味を楽しむためだけに、肉やデザートばかり貪っていれば、やがて肥満になり糖尿病になります。
アスリートにはアスリートのパワーのある食事、病気をしていれば適切な薬、バランスの取れた食事を楽しむように、適切に真理を追求することで、道を外れず健康に人生の目的に辿り着くことができるはずだと信じています。

お礼日時:2020/06/25 19:21

幸せだからでるのであって、でたら幸せというわけではない。


(幸福感がたかまるだけ)
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この回答へのお礼

幸福物質は、動物的な感情で幸せを得たから出るものであって、食べたから幸せ、セックスしたから幸せなどは、動物的なものと考えます。
人間の人間たる人生の価値は、真理の追求にあると思います。

お礼日時:2020/06/25 19:12

結果が積み重なるだけで意味はないです。


小難しい事には何の意味もなく、都度 感謝されるのでは無く、都度 感謝して終われるのが一番の幸福かなと。
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この回答へのお礼

感謝できることは幸せなのでしょうか。
私は全て等価交換だと思うので、あまり周りに感謝していません。

お礼日時:2020/06/25 19:10

般若心経を読み解いて下さい


何の意味も無いと書いてあります
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この回答へのお礼

何の意味も無いというのは初耳ですね。
全ては空であるとの悟りを開けば苦しみから解放される、という趣旨の、お葬式で読まれる説教かと思っておりました。

お礼日時:2020/06/23 21:37

ご気分を害したようで申し訳ありませんでした。

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幸福感を司るものは神経伝達物質以外にもあるし、幸福感と幸せは違うと思いますね


とくに神経質伝達物質は一過性のものだし。まあそこはどうでもいいけど


> 幸せな人生を送った、と生きたのは、
脳内物質たくさん出せた、で終わるだけですか?
そうすると、幸せを追求する人生よりも、
世の理や、真理を追求する生き方のほうが価値があるのでしょうか。

ここの飛躍が意味わかりませんね。


なんかニヒルちっくになって自分に酔ってるだけに見えます。脳内や机上だけで生きるのをやめ、現実を生きましょう。
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この回答へのお礼

幸福感も幸せも似たようなものでは?
結局頭の中でぐるぐる回っているだけ。
私ほど現実の荒波でもがいて生きている人間は100人に2,3人くらいしかいない。

お礼日時:2020/06/23 21:25

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