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日本では哲学にハマっている人は、ちょっと変わった人で済むけど、宗教にハマっている人は、頭のイカれた奴と思われる風潮がある。
なぜでしょう。
哲学の始祖、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも神の存在には肯定的です。なのに宗教嫌いで哲学好きが多いのは謎です。
宗教と哲学は同じ祖先なのに、哲学と宗教は友達にはなれないのでしょうか。
変な新興宗教が多いのが諸悪の根源と思います。
私は無宗教ですが、自己啓発本として聖書を活用しています。

A 回答 (19件中1~10件)

>宗教と哲学は同じ祖先なのに、哲学と宗教は友達にはなれないのでしょうか。



祖先は同じでも、カント以降の哲学はコペルニクス的転回をしてしまったから、今や祖先が同じマントヒヒと人間ほどの違いになっているでござる。

カントの凄いところは、近代哲学の重鎮であるデカルトによる『神の存在証明』でさえも、ゴミだということを見破ってしまったことなんです。
理性を使って神の存在証明をすることはできない、と。

以来、哲学は、神を措定しない仏教型の宗教とはお友達になれるが、一神教のアブラハムの宗教とは相入れない。哲学者も理性を駆使しないときには宗教に身を委ねても構わないのだけれどもね。

哲学愛好家の中にはカントが見破った理性の限界を理解せずに、今だに神の存在を論じようとするものもおる様だが、相手にしない事だよ。

彼らの神の存在証明は、少なくとも理性の利用ではないのだからね。
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№8です。



信仰と宗教とを分けた場合 宗教は――そのオシへを哲学として《考
える》べきところを 信仰として《そのまま受け容れよ・つまり信じ
なさい》と説くなら・すなわちなんぢの思考を停止せよと言い張るの
なら―― 哲学や信仰にとって敵です。

信仰は 思考を超えているゆえ 思考は自由に成されます。



1. エワとアダムの物語――意志自由について――

エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 
言ってみればまだまっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限ら
ない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

そういう意味でも 自己表現は自由なのだ。このことを やがてエワ
だけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれが自由
に及ぶこととなった。



2. われあやまつなら われあり――哲学のはじまり――

ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われ
たとも言い得る。(ひとが社会生活をいとなむということでもある)。

その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐に遭い 難
破することも生じ得る。
 
こうなると ひとの自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たと
えば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。

――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。

あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわ
った自由意志とその自由がある。したがって 自己表現の自由は そ
こに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。
 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思
考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)
ともあるいはルーアハ(霊性)とも言った。



3. 超経験思考としてのわが自由:非思考としての《信仰》

すでに非思考の領域へと飛躍している。身(感じる感性)と心(考え
る知性)を超えているので 霊性は 信じるという言葉を当てる。

この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ず
であるにもかかわらず 人間の言葉で(言葉をシルシ・代理物として)
思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

アダムらの子孫であるアブラハムなるぢいさんが この空想とも呼べ
る飛躍の中で こう思った。:

  神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくこともあるのではあ
  るが これをあやまちとして気づくときそのわれがわれである自
  由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すこともなければ む
  さぼることも裏切ることもなかろう。

この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする
ウゴキが現われる。



4. 信仰内容の思考化・思想化:宗教

《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼるなかれ(不慳貪戒)・姦淫する
なかれ(不邪淫戒)》という戒律としてまた道徳として 神の霊〔へ
の信仰〕に代えて崇拝するやからが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)として説き始めたのが 《宗
教》である。
 
一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしら
え この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌
(さば)こうと言うのだ。(宗教者は 自由のためだと抗弁する)。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それ
にあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれる
なら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰
り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。信仰と
いう蝉の抜け殻である。屁の河童なり。



5. 《科学》としての哲学の展開

科学は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。

それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中
でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分
立しうると考えられるからである。

利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによ
って 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学とな
る。
 
あるいは 誰れの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識し
うるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり
分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。



6. 《芸術》と哲学

果てさて 《芸術》は――文学をふくめて――これらの哲学・科学・
宗教の定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に
表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。あらゆる表現方法を模索する。

哲学に通じる人間の真実がそこに描かれていると人が感じ得るなら 
よいものだと言われる。
 
ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 
芸術行為であると考えられるかも知れない。けれども その根っこは
哲学である。

つまりは このわれわれの生活日常がおのおのの芸術行為であり ひ
ょっとすると 科学の芽は 科学者の芸術行為にあるだろうか。

しかし 考えてみれば 誰もがひとりひとり哲学する人間である。



7. 哲学って?

――というふうに いま・ここにあるわれが その世界における位置
関係を精神的に捉えようとする自己了解が 哲学の核心である。

哲学的な自己了解が 哲学の仕事である。
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宗教にハマっている、頭のイカれた者ですが


哲学にハマっている、羊の肉の頭は腐っている

何でもハマらなきゃ分からないでしょう
宗教のイロハも知らず、頭のイカれた、とは
お前は、仏典の一つも読んだのか
これほど失礼な、人をバカにした言い方はない
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正月に清々しく初詣をし、盛夏の折に故人をしみじみと偲ぶ。

日本人の信仰は季節感と生活感に溢れてる。

でも、単身世帯や核家族が増え、都会化が進むに従って、そう言った精神風土が遠のき、心の居場所を見失ってしまった人も多くなった。今や物語の中に故郷を見出す様な状態になってる。

観光客に諂って名所となった神社仏閣には、その心は見る影もなく。

都会に取り残された人々の内では、文庫本になった聖典を手に取る人も、分厚い哲学書を手に取る人も、少ない。彷徨う心を御しきれないでいる人は多い。

物質的に繁栄した時代には、精神的なものは軽視され、物質的に貧しい時代には、精神的なものが重視されるのだろうか?
それで、洋の東西問わず僧は質素な生活を好むのだろうか?

物質的に満たされ、精神的にも豊かな時代と言うのはあるのだろうか?

それは伝統的な生活の中に実現すると思われます。伝統的な生活とは、徳のある生活の事です。つまり、人間の伝統です。
徳とは、過剰で無く、不足もなく、という事です。
また徳とは、一律ではなく、臨機応変です。

正当性を忘れてしまい、流されるままになってしまっているのが現代日本人の少なからずの一面であるでしょう。

哲学や立派な教えは、自らの不安を暴露するので嫌われる。
哲学や立派な教えは、自らの不徳を暴露するので恐れられる。
まともな人は、哲学や立派な教えを嫌わないし、恐れない。しかもそれに囚われない。自分を確立しているからです。

世の人々の大半がそうであって欲しいけれど、実際はそうじゃ無いらしい。しかし、らしいというだけであってその憶測は実際の事実では無い。
私の出会ってきた人達は真面目な人が多かった。そういう話をしても、しっかり話が出来た。でも世間全体を見れば、そうでは無いと思えるのは、世間を占める殆どの人と知り合って居ないからではないか。つまり、親しくもなく、話しても無いのに、彼らが哲学や立派な教えについてどう思っているのか、分かるわけが無いという事です。
多分、話してみれば、それぞれに悩みや考えが存在し、生き方があって、形は違っても哲学や教えについて関心があり、それについて感じたり考えたりしていると思います。

ただ、それらが個別的であるのに対して、哲学や立派な教えは一般化(抽象化)されたものであり、それを自身の人生に適用するには具象化が必要になります。
この個別具象化の過程が実は簡単ではないので、多くの人々は、哲学や立派な教えを一意に受け取ることが出来ないのだと思います。
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哲学は他人を救わないが、宗教は他人を救うからです。


だから、宗教を熱心に信仰している人は他人を救おうと、他人と関り軋轢を生みます。
しかし、哲学を熱心に勉強している人は他人を救おうとしないので、他人と関りがなく軋轢も生れないです。

他人を見捨てるのが哲学、他人を救おうとするのが宗教です。
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No.7です。



正直なところ、日本では、信仰の価値はあまりないんじゃないでしょうか。お正月に初詣をして、親兄弟のお墓参りをしていれば、それで済みませんか?

私は米国在住のキリスト教徒で、こんなところで回答するのも、きわめて、おせっかいなのです。

アメリカのような弱肉強食の社会に住んでいると、息抜きが必要になります。日曜の朝に、教会に行って、牧師さんのお説教を聴き、よし、今週も頑張ろう、と思える。大きな災害が起きたときには、教会で寄付をすると、信頼できるチャリティに一括で寄付してくれる。他にも、ボランティアを通して、共感や一体感が味わえる。

信者同志、少し親しくなると、いきなり、人生の根源に関わるような悩みを打ち明けられます。子供を亡くしたお母さんの悲しみが、一番、辛いです。でも、ウン、ウン、と聞いて、最後に、一緒にお祈りさせてくださいという。手を握ってお祈りをするだけで、心が軽くなります。

天国でまた会える、ということが可能です。

信仰は、人生の区切りをつけるような、心の慰めを受け取れる場所だと思います。
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いえいえ 哲学もそれほど良くも見られていません。

哲学をやってると言うだけで

え?哲学? 難しいんじゃない? という反応です。

宗教もあまり嵌るとおかしく思われますが 彼らには仲間がいるのでまだいいのです。

哲学はあまり仲間を作りません。それぞれ違うからです。

今の時代何を信じて良いのか分からない時代ですね。信じなくてもいいことをする

ボランティアをする。仕事をする。おまつりをやる

新しいものは生まれてこない 根本的なことは変わらない。
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日本に本格的に西洋文明が取り入れられ始めたころの西洋は


産業革命によって宗教の位置づけが低くなって
物質科学の影響が大きくなり始めたころです。
科学の一分野としての哲学の方が格が上という傾向を伴っての
明治維新以後の西洋に追いつき追い越せだったのも
原因の一つなのかもしれない
と思います。
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親鸞と日蓮のポピュリズムが遠因としてあるのではないかな。



もし仮に、日本の寺が禅宗の寺ばかりだったら、肉食妻帯坊主とか、薬九層倍坊主丸儲け、とか言う言葉も生まれなかったでしょうね。

キリスト教も奴隷貿易を正当化したり、非戦闘員の女子供の上に原爆を投下したりせなんだら、日本人の5%ぐらいがキリスト教に回収した可能性はあったと思うのですが、、、、、。

哲学好きでも正月には神社に初詣する者が多いのだから、日本の神道は他の宗教ほどにはエゲツなくなる事がなかった、と言う事が言えるのではないでしょうか。
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日本では哲学にハマっている人は、ちょっと変わった人で済むけど、


宗教にハマっている人は、頭のイカれた奴と思われる風潮がある。
 ↑
ワタシもそう思います。



なぜでしょう。
 ↑
日本では、哲学は教養と考えられている
からでしょう。
儒教もそうでした。
韓国などは、宗教の深みに入り込み骨髄にまで
達しています。
しかし、日本では教養の一つに過ぎません。

これに対し、宗教は違います。
血肉になります。単なる教養では済まされません。
特に、キリスト教となると、侵略の先兵
として、まがまがしいもの、と
考えられてきました。

新井白石も述べています。
「アダムとイブだあ?
 あいつら、大人のくせに、こんなおとぎ話を
 信じているのか」




哲学の始祖、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも神の存在には肯定的です。
 ↑
ギリシア哲学がキリスト教と合体して
西洋哲学が出来たのです。
西洋哲学は常に神との関係で論じられて来たのです。

だから当初は存在論が中心でした。
神はなぜ人間を存在たらしめたのか。
人間の存在とは、そもそも存在ってなんだ。

神との距離を取るようになって認識論が
主流になり、更に実存主義へと
発達シマした。



なのに宗教嫌いで哲学好きが多いのは謎です。
  ↑
キリスト教徒でないと、西洋哲学は理解出来ない
といわれる所縁です。
キリスト教徒でないと、理屈では理解出来ても、感情でストンと
落ちないのです。



宗教と哲学は同じ祖先なのに、哲学と宗教は友達にはなれないのでしょうか。
  ↑
ならない方が良いと思います。
今更、神でもないでしょう。



変な新興宗教が多いのが諸悪の根源と思います。
  ↑
既存の大宗教による弊害の方が大きいと
思います。
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この回答へのお礼

歴史からご教示いただきありがとうございます。
宗教は嫌いでしたが、
食わず嫌いを辞めて
どうしてそのような思想に至ったのか、
信じるではなく、学んでみます。
信者が多ければ安全ってものでもないですね。

お礼日時:2020/08/02 10:04

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