哲学が全然わからなくて困っています。
夏休みのレポートでデカルトの(我思う、故に我あり)という命題の意味するところ
を彼の学問方法論との関連で説明せよ、また彼の哲学体系との関連で説明せよとだされました、、、、。もぉ何がなんだかさっぱりわからないんです。ちなみに400字の原稿用紙三枚以上で書けと、、、、。定期試験の勉強でもいっぱいいっぱいでこまっています。何か教えていただけたらと思って書き込みしました。
お願いします。

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A 回答 (2件)

 実は自分もmaminさんと同じ状態・・・課題と夏休み明けの定期試験・・・ヤダヤダ・・・それは置いといて。


 まず、学問方法論はプラトンにはじまる形而上学の歴史にそったものである。と言えるでしょう。プラトンは例えば「美しいもの」を成り立たせている根拠を「美しさ」そのものにもとめました。しかも完全な「美しさ」そのもの(原型・イデア)は、私たちが暮らす日常的世界の背後にあり、日常的世界で私たちが目にするのは不完全な美しさ(日常的な判断・ドクサ)であるというのです。
 その完全と不完全という対立からヨーロッパの二元論は発生しました。そして、日常的な判断・ドクサという認識をしてしまうのか、と言う問いも生まれました。デカルトも、そうなのですが、デカルトの業績というか哲学史の位置というのは、彼の学問の方法として理性を習慣や偏見、伝統や権威から浄化して、諸学の基礎を発見すべく、「いっさいのものを疑うことから哲学を始めたということに大きな意味があるとも言えます。いわばリセット(死語化?)しようとしたわけですね。それを<方法的懐疑>と言います。
 次に哲学体系ですが、まず、存在と認識という二つを頭に置いて下さい。存在論には二つの面があります。拡がりである限りでの物体的世界と、思考する働きである限りでの精神です。それらは実在的に区別された実体なのです。物と心と・・・つまり<物心二元論>です。しかし、彼の方法的懐疑においてキリスト教は疑われませんでした。存在一般の根拠は神なのです。一方、認識論においては自己意識の確実性と神の誠実性を保証する<明晰判明>に把握される数学的観念だけが、世界の実在的構造に帰せられるとされます。
 ここで、「我思う、故に我あり」という命題ですが、それは<方法的懐疑>の結果到達した命題であります。そこに至るには、まず感覚も排除されます。数学的真理は夢の中でも、1+1=2であり、夢の中という身体を直接的に伴わない状況でも可能です。そして極限の状況として、著作である『省察』では、「私を欺こうと算段する(悪)霊もいるかもしれないが、彼が私を欺いているとすれば、この私がすでに在ることには、疑いの余地は全くない。われ在り、われ存在すEgo sum,ego existoという言明は・・・必然的に真である」と述べます。同じ趣旨を『方法序説』では、こう言います。「われ思う、ゆえにわれ在りCogito,ergo sumという真理が極めて堅固で、きわめて確実であり、懐疑論者たちの論法を束ねてかかっても揺るがすことの出来ないのを見てこれを私の探求しつつあった哲学の第一原理として、ためらうことなく受け取ることができると、私は判断した」と。デカルトの学問方法論の結果(と同時に背景)がこの有名な命題だったのです。まとめると、現に働いている心・精神にとって、心の存在は直に確実です。ここで存在が確かめられた「われ」は、身体をすら持たないと考えても「在る」われであり、歩いたり、食べたり、見たり聞いたりする「物体的な」われではないという点に注意です。
 さてこの命題をもう一度、哲学体系とからめて考えることにします。
 物心二元論は、例えれば積み木によって作られるお城でしょうか。積み木でできたお城は物の世界です。物の世界では、積まれていく、積み木という空間的拡がり(延長)のみが認められます。お城をお城として認識し成り立たせるのは、心の純粋な知る働きです。思考する内容は異なろうと心は心です。さて、存在の真理は心と物のどちらにおかれているでしょう?心にウエイトが置かれています。厳密には認識によって心も物も実在するというのが物心二元論です。しかし、デカルトの中で、その認識論が真理の面では解決してますが、方法の面で心と物との存在にどう関わるのかがあいまいなことから生じる問題です。ちなみに、カントはこの認識の面を追及していきます。実際、「我思う、故に我あり」という命題は、彼の決意表明的な部分が多分にあると思います。しかし、思考過程において、すなわち学問としての方法論的立場において、歴史的な拘束を排し、一切の世界状況から離れた自我を確立する真理を求めたデカルトの態度を示すものとして、大きな意味があるとおもいます。
 長くなってしまいましたー。自分にも解るように読みかえて書いたので、専門の人には反論されるかも。よろしかったら参考にしてください。
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土屋賢二先生の「われ笑うゆえにわれあり」など読んでみられたらどうでしょう。


「哲学」でも、気楽に読めます・・・
どんな方かは以下のURLをご覧になってね!

参考URL:http://www04.u-page.so-net.ne.jp/gb3/kenji-ts/
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Qレポートの書き方

経営学部の大学一回生です。冬休み初めてレポートの課題が出たのですが、書き方が全くわかりません。2000字で現代企業の人材育成と職務拡充について企業例を1つ説明しなさい。なんですが書き方のコツや使ってはいけない記号等ありましたら教えてください。

Aベストアンサー

有名企業をひとつ選んで、公式ホームページで公表している情報と、リクルート等の人材募集広告を比較してはいかがでしょうか。矛盾点があるようなら、ニヒリ、ですよね。同業他社との比較も面白いと思います。

また、企業の内情を知りたければ、図書館でビジネス系雑誌を読みあさるのが良いかと思います。そのうち、何かネタが見つかるでしょう。

株式会社を表す「(株)」や、項目ごとの冒頭に新聞等で使われている「(1)、(2)」などは、機種依存文字といってWindows以外のPCでは文字化けを起こしますので、印刷ではなくデータ形式での提出を求められているのであれば、使ってはいけません。また、半角カナ(横幅が半分のカタカナ)は、最も嫌われる機種依存文字です。

Q「我思う、故に我あり」とは?

デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉の意味が良く分かりません。

何かを見たり触ったりしているのも、夢の中の出来事かもしれないけど、どれだけ疑ったとしても疑っていると思っている事実は動かない・・・ということだと思うのですが、だから何が言えるのか良く分からないです。

また、疑っていると思っていることも夢かもしれないと思うのですが、どうなんでしょうか?

どなたか分かりやすく説明をお願いします。

Aベストアンサー

6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。

私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読まないといけない、とされてます)。

そこで、そこから出発したら、絶対まちがわん、という一点を必死に探した。あらゆるものを疑ってみて、論破できたら、全部疑わしいものとして切り捨てた。

で、感覚的世界も全部私を間違わせるから、全部無視して、自分がどこにいるのかも分からなくなりながら、必死に疑いえない一点を探した。

あらゆる命題を疑い、論破し、苦しんだあげく、最後に「われ思うゆえにわれあり」を見つけた。
これはどんなに疑いの目を向けても、真実だ、とデカルトには思えた。

というわけでここから出発して真理を探究することにした。全ての学問の出発点はここ以外にありえない、と。

そこから哲学について、感情について、いろいろ探求したけれど、一番凄いのは神様の存在証明まで考えたことだと思います。
われ思う、から出発して、神様まで証明しちゃう。
『省察』のその戦いっぷりは偉大です。
全然デカルト主義者じゃないですが、泣けます。

話がそれましたが、「われ思うゆえにわれあり」は、全ての哲学が、全ての学問がそこから出発すべき一点だ、とデカルトは主張します。

感覚的なものは私を間違わすことがあるので、切り捨てます。だからこの「われ」は肉体ではなく精神です。(デカルトは肉体と精神を思いっきり分けて考えます)

夢の中で思っていても精神としての私はある。
ホントは体を全て失っていて、実験室で脳に電極さされて、本当は肉体なんてないのに、あるように思わされていたとしてもかまわない。
究極的には脳なんて物質があろうがなかろうが、どうでもよい。
それでも、もし私が考えてるなら私の精神は存在する。

そんな感じだと思います。

6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。

私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読...続きを読む

Q中学の理科の実験レポートの書き方・・・

中学の理科の実験レポートの書き方が詳しくのっているサイト教えてください。  例などあると助かります。

Aベストアンサー

http://www.kyoto-su.ac.jp/~oda/essay1.html

http://www.info.kochi-tech.ac.jp/hama/lab1/report.html

http://www.cs.is.saga-u.ac.jp/lecture/report.html

上の3つは、ちょっとよんでみるといいですよ。

参考URLのが、わかりやすいとおもいますよ。

参考URL:http://www.mitene.or.jp/~minowa/rika/note/noteindex.htm

Q反症してください。我思う、故に我あり。

デカルトのこの言葉、どこかおかしい気がします。反症できますか?

Aベストアンサー

 No.9です。もう少しくわしく書きます。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  *(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。

 我れに還った我れをもうたがうなら それは悪しき無限に落ち入ります。と我れは知っているようです。

 No.9です。もう少しくわしく書きます。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえ...続きを読む

Q大学のレポートの書き方について質問します。手書きで書かなければならない

大学のレポートの書き方について質問します。手書きで書かなければならないレポートなのですが、書き方や、筆記用具は何を使うなど詳しくのっているサイトはありますか?

Aベストアンサー

基本的には市販のレポート用紙にボールペンで書けば問題ないと思いますが、先生によってA4またはB5の指定があったり、鉛筆でもよかったりするのでそれに従えばいいと思います。
http://www.report.gusoku.net/kihon/reportyousi.html
先輩の過去レポが手に入ると書き方のお手本になるので楽なんですけどね。

Q我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。

 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。

 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器...続きを読む

Aベストアンサー

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があったのです。つまり、現実存在(エクシステンティア)の成立という話になれば、それは現象の存在の自明性に繋がり、また現存在の存在了解にも繋がっていたのです。
 
  現象の存在の自明性は、フッサールが西欧の哲学の歴史のなかで、反復的に主張したことで、「人間の現存在」による、存在物の「存在了解」は、ハイデッガーが考えたことです。
  現象の存在が自明であるということは、現存在の存在了解によって自明であるのです。デカルトの懐疑は、思考のモデルであって、疑っている自分が存在していることは疑いがない、つまり、思考主体=主観の存在の自明性は、最小の答えであって、デカルトや他の人が見、聞き、触れている、様々な事物の存在性も疑いがないものだということです。つまり、悪魔が幻覚をデカルトあるいは私たちに見せているのだとしても、その幻覚の事物は、幻覚という実体規定のもとで、自明的に現象として存在しているからです。
 
  わたしが思考している、わたしが懐疑しているという時の主観的世界の構造のなかでは、思考している主体、懐疑している主体の現なる思惟存在、懐疑存在が自明であり、思惟存在や懐疑存在の「存在の構造」解析は、存在事実の自明性によって乗り越えられているというべきでしょう。
 
  つまり、貴方 robking さんは、貴方の思考モデルで、思考実験してみたのですが、まったく感覚から遮断された子供とか、その子供のまわりの生命維持装置とかに言及し、それを思考モデルで使用している以上、「外界の存在物や、その感覚刺激」が、「思惟する我の存在」に先行して存在しなければならないなどと言ってみても、そういう思考内容の現象的存在が、現に、貴方自身の思考の構造解析以前に、自明であるということです。
 
  ポイントは二つで、一つは、存在は、現に phyein しているものであるということと、もう一つは、存在物の存在了解を主体が行えないとしても、そのことは、主体にとって、存在物が存在しないことにはならないということです。つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
 
  注)「存在の構造解析」とは、現なる現象存在を、構造の設定で整序しようとすることを意味します。つまり、形而上学的構造を措定することで、現なる現象世界のありようの説明または根拠付けを行おうとすることです。

  それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。主体に超越的な世界の存在を措定しておきながら、主体の成立にとっては超越的な世界の存在が先行すると言ってみても、何の意味もないということです。
 
  なお、アプリオリな認識・知識については、わたしは、統覚精神実体の存在を構想していますから、それは自明的にあり得るだろうという考えです。イデアー世界は存在するだろうという考えです。
 
---------------------------
  どうも、何を述べているのか、分かりにくい人もいると思いますので、補足的に易しく説明します。
 
  つまり、robking さんが考えている、思考実験を行っているという場合、思考している robking さんの思考している主体の現象存在は疑いがないということです。しかし、仮に robking さんが、AB歳だとして、AB年ほどの色々な記憶を甦らせて、色々な経験をしてきたなあ、と考える時、考えている事実・事態・現象は、現実存在ですが、記憶にあるAB年は本当にあったのか、あるいは、5秒前、宇宙人が、robking さんの脳に、そういう嘘の記憶を投射し注入したのではないのか、本当は何なのか分からないということです。これがデカルトの懐疑の意味なのです。
 
  感覚を完全に遮断された子供の脳に宿ると仮定した主体意識にとっては、実は、外部世界は超越的で、いま上で述べた、AB年の人生が、本当にあったのか、宇宙人が5秒前に記憶を注入したのか、どちらか分からないと言うのと同じ意味で、外的世界があるかないか、子供の主体には分からないということです。これは感覚遮断しているので分からないのではなく、私たちであっても、窓から外をみて、美しい風景を見て、素晴らしいと思っても、それは、よく見ると精巧な壁の絵だったとかいう可能性から考えると、外的世界の現象的立ちのぼり(pyein)は疑いがないが、そういう世界・風景が、例えば「物質実体」として存在しているかどうかは(超越的命題であって)分からないということです。
 
  robking さんの思考のなかで、感覚遮断された子供の主体意識が考えられており、また、外部の生命維持装置などが考えられているのであって、これは、robking さんの思考のなかでの現象存在であり、図式であって、最初から子供の主体にとって超越的な外的世界を設定しているので、それでは、子供の認識の成立に外的世界からの刺激が不可欠になるのは当たり前の話だということです。(カントの主観の構造のような話です)。
 

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があ...続きを読む

Qレポートの書き方

こんばんは。
冬休みの課題で、「美術館に行ってレポートを書く」というものが出ました。
ですが、あまりレポートを書いたことが無いので書き方がわかりません。
アイヌ文様の美というのに行こうと思っているんですが・・・
やはり写真もレポートには入れた方がいいでしょうか?
レポートの書き方に次いでわからなくて困っています。
美術が好きなので、良いレポートを書きたいと思っています。
どうか、書き方を教えてください。お願いいたします。

Aベストアンサー

美術大学に在籍しています。ご参考程度に、私の経験からアドバイスをさせて頂きます。


全体の構成としては
(1)表紙(主題タイトル)
(2)本文

主題について、どういうところが自分にとって魅力的なのか、
それにはどういう由来や歴史があるのか、何を意味するのか など
いくつかの項目に分けて考えると書きやすいと思います。

例えば…「印象派について モネの魅力」が主題だとすると
1.印象派とは
2.モネの生きた時代とその功績
3.代表作『睡蓮』の連作とその変化
(以下必要なだけ項目を設ける。最終的に、
ある程度自分の主観を入れた論述があったほうが「美術館に行って」という部分が活かされるので、良い と
私は思います。)

…など
主題の背景(アイヌの文化でしたら、アイヌ民族のことなど)から
徐々に幅を狭めていって、主題を浮彫りにしていくと読み手がすんなり入り易く、
印象に残るレポートができるのではないでしょうか。
又、写真は効果的に入れていったほうが良いと思います。
レポートの読み手はその内容について知らないわけですから
いわば教科書や新聞のようによりわかりやすく情報を伝えることを考えると…
あったほうが、親切なように感じます。

(3) まとめ
上にも記述しましたが、「美術館に行って」ということなので
美術館に対する感想、今回レポートを作ったことによって気付いたことや良かったことを書き、あとがきとします。
ある程度の長さがあったほうが説得力があると思います。
又、最後に
参考にした文献(本やWEBページ)について「参考文献」として記述しておきます。(箇条書きで大丈夫です)
本はタイトルとISBN、WEBはタイトルとURLを記述します。
版権的な問題のためもありますが、これだけ色々調べました というアピールにも繋がると思います。


私は以上のような手順で、レポートを書いています。
わりと高評価を頂くこともあるので…ある程度参考にして頂けると思います。

余談ですが
「美術館の入場券の半券を
表紙かはじめのほうに展示タイトル・日時・場所 の明記と共に貼って提出しなさい」という指定で
レポートを作ったことがありまして…
指定が無くてもそうすると、なんだかそれらしくなる気がしますので、
ちょっと使える手かもしれません。


レポート制作 頑張ってくださいませ!
微力ながらお力添えできていましたら幸いです。

美術大学に在籍しています。ご参考程度に、私の経験からアドバイスをさせて頂きます。


全体の構成としては
(1)表紙(主題タイトル)
(2)本文

主題について、どういうところが自分にとって魅力的なのか、
それにはどういう由来や歴史があるのか、何を意味するのか など
いくつかの項目に分けて考えると書きやすいと思います。

例えば…「印象派について モネの魅力」が主題だとすると
1.印象派とは
2.モネの生きた時代とその功績
3.代表作『睡蓮』の連作とその変化
(以下必要なだけ項目...続きを読む

Q哲学者のデカルトについてお教えください。

私は哲学のことを全く知らないものです。
最近、現代の科学技術文明について、その元の思想としてデカルトという人のことをときどき聞くのですが、デカルトの思想とはどのようなものなのでしょうか?
人間が自然を支配できるとか、自然などをすべて数式に置き換えることができるとかを言った人とかをテレビで聞いたのですが、はずかしいことですが哲学の本を一冊も読んだことのない私には難しくてよくわかりません。
哲学を全く知らない私に、ご無理を言って申し訳ございませんが、易しい言葉でお教えいただけましたら助かります。
本当に初歩的な質問で申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

哲学者のデカルト?、ですか。座標幾何学を考えた、数学者、でしょう。
デカルトを哲学者だと思った事は私にはありません。
しかし西洋思想とは、デカルトの合理主義思想である。というのは、西洋思想の宣伝、の意味もあるようですが。西洋化させられた?日本人の常識にもなっているようです。
デカルトの合理主義とは
「一週間に6日は、自己利益や欲望、快楽の追求のために活動し、日曜日は、協会に行って、懺悔、をする。」そういう矛盾が西洋思想だ。と誰かが言っていました?。
キリスト教と鉄砲を掲げて、世界に進出し、侵略しむ、先住民族を迫害し滅ぼしてきたのが。
西洋の歴史の一面でもあります。日本人が西洋思想に侵されると、懺悔もしない民族になるんじゃないでしょうか。
デカルトの思想は、根は形而上学(キリスト教神学)幹は自然科学、と言われています。
これ以上の矛盾はないのでは?神の信仰を前提にした哲学はありえません。

哲学、とは。在るものをあるがままに見る者は、
思惑愛好家、ではなく、愛知者(哲学者)と呼ぶべき者ではないかね。とソクラテスが言った(とプラトンが言った)。なっていますが。宗教、とは。人の心を一つの方向に導こう、支配しよう、とする。

思惑の思想、心の思想、であり。物事の在り方を知る、考え方、方法論、=知恵 を求める哲学、とは
相容れないものなのです。古代ギリシャ哲学を継承しているのは、神はいないとしても。の物理科学の方なのです。自然科学の探究から、神が出てきた事はないし。これからも出てこないのです。

デカルトは、形而上学の枠の中で、強制的懐疑、として。科学的、数学的に、真、と実証されたものしか
受けいれるべきではない。それを積み上げる事によつて。思想を構築しようとしたようです。

しかし。結局は、「我思う故に我あり」。フロンス語では、ジュ・パンセ ジュ、忘れました。
元々のは、 我考える、我存在する。であり。

いくら疑っても、疑っている、我が孫沿いする。事は疑う事が出来ない。
我の存在がすべての存在の基本である。との解釈は、語解釈、誤訳の意味もありそうです。

物理的にも、哲学的にも、幼稚すぎます。

数学者としては並みではないテデカルトでも。根が神学では、そんなものになるのでしょうか。

人間の思考が有限であるとは、無限としての神が存在しなければならない。というような。
懐疑とは相容れない、神の存在の証明、みたいな事も言っているようです。
若い女性からのとおもいますが。私の回答は、あまり常識的ではなく無責任です。
常識的な知識として、デカルトを知りたいのであれば、
デカルト、ウエブ検索、を押せば、済む事では。

哲学者のデカルト?、ですか。座標幾何学を考えた、数学者、でしょう。
デカルトを哲学者だと思った事は私にはありません。
しかし西洋思想とは、デカルトの合理主義思想である。というのは、西洋思想の宣伝、の意味もあるようですが。西洋化させられた?日本人の常識にもなっているようです。
デカルトの合理主義とは
「一週間に6日は、自己利益や欲望、快楽の追求のために活動し、日曜日は、協会に行って、懺悔、をする。」そういう矛盾が西洋思想だ。と誰かが言っていました?。
キリスト教と鉄砲を掲げて、世...続きを読む

Qレポートの書き方を教えて下さい。

今日、学校でレポートの宿題を出されたんですが、今までにレポートを書いた事がありません。なのでどんな事でもいいので簡単なレポートの書き方を教えて下さい。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

とりあえず提出するレポートには表紙をつけましょう。
用紙は中身のものと同じものでかまいません。

表紙に「課題名」、「学年・組・出席番号」、「氏名」をかきます。

レポートの宿題、とありますがどのようなレポートなのか解らないので中身についてはアドバイスのしようがありません。

提出時には、レポート用紙がバラバラになってしまわないようにしっかりとホッチキスなり何なりでとめましょう。

Qデカルト主義について詳しくおしえてください!ご迷惑おかけします。 哲学の質問です。またこれは経験主義

デカルト主義について詳しくおしえてください!ご迷惑おかけします。
哲学の質問です。またこれは経験主義と啓蒙主義と対立していたのもなぜですか?

Aベストアンサー

お前のようなかたわにデカルトは理解できないと書けばよい。


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