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庄屋と下級武士ってどっちの方が偉かったのでしょうか?

A 回答 (4件)

身分なら武士。


経済力なら庄屋。
庄屋が武士に強く出れるかは、武士にお金を貸していることと、庄屋の力量次第。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
官僚と財界人みたいな関係ですね。

お礼日時:2020/09/28 22:03

まず 戦国時代においては


「庄屋さん」=「武将の家臣団のメンバー」
でした

しかし これでは いざ戦に臨みたくても
農作業が忙しい時期には庄屋さんが反対しますので
上手くいかないことが多過ぎました

ここにいち早く気がついたので織田信長で
家臣の配置換えを積極的に行うことによって
「兵農分離」を推し進めて 職業武士が誕生しました

これに目をつけたのが徳川家康で
徳川が急北条氏の領地に移動になったことで
徳川軍団の兵農分離が一気に進みました

つまり
庄屋さん→元を正すと戦国大名の家臣団
下級武士→一兵卒
だったので
士農工商の身分制度が出来上がっても
庄屋さんには逮捕権や勾留権がありました
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この回答へのお礼

なるほど…庄屋さんはただの平民では無かったのですね。
参考になりました。

お礼日時:2020/09/28 22:06

#2さんが正しいのですが、なぜ質問者様が迷うか、ちょっと説明します。



それは「学校の勉強で、日本の階級差も西洋と同じようなものだと思い込まされるから」です。

西洋の階級というのは「王族や貴族などの支配階級がいて、農民などはその支配に服す」というものです。「支配に服す」というのは、農民などには土地を持つ権利も、自由に移動する権利も、職業選択する権利も事実上ない状態です。
土地を持っているのは支配階級で、農民などは「支配者から支持された土地などを耕す」だけというのが基本構造で、その代り「農民などは戦争に行かない」ものでした。
なぜなら「土地所有などの財産を守るのは、土地などを持っている人だけ」だったからです。

ところが日本の場合、墾田永年私財法から後は「基本的に土地は耕した人の物」だったので、農民も自前の土地を持っていたのです。
 領主とされる武家は「○○の一帯は××の土地」というお墨付きを与えるだけで、人々が自分の土地の所有権を争わないように保証しているだけでした。
 
そうなると戦国時代など自分の領主=自分の土地を保障してくれる人、が戦争に負けると「自分の土地の保証が無くなる」ので、だから「領主の求めに応じて出兵する」状態だったわけです。

これが兵農分離以前の状態で、この時代の「庄屋・名主」は「その集落で有力な武力を持つ、集落のまとめ人」であり、農民であると同時に下級武士だったのです。

これが織豊時代に兵農分離がおき、徳川時代も含めて「百姓は農民」となります。ただ庄屋は集落の争い事を納めたり、警察的な機能を持っていたり、年貢の取りまとめなどの税務署的な機能ももっていたので、領主側も「行政権を持つ武士扱い」にする必要があったわけです。

だから兵農分離以降の庄屋は農民でありつつ武士でもあった(だから名字帯刀や門付きの家を持てた)と言うことになるわけです。

そして一般的に「下級武士」とは、幕藩の行政府の役人のことを言い、将軍に謁見できないお目見え以下を言います。
彼らはかなり安い給料で仕事をしていて「武士」とはいえども庄屋のほうが行政的な能力は上だった、といえるでしょう。
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建前と現実がありますし、一口に庄屋(名主)、下級武士と言っても色々あったでしょうから一概には言えませんが、ちょっと洒落てみて、かつ、独断すれば、



庄屋(名主)は仕事がえらかった(大変だった)、
下級武士は生活がえらかった(大変だった)

ということになるのではないでしょうか?

ちなみに良寛さんは町名主の跡取でしたが町名主見習いを始めてすぐに家を飛び出しました。
トラブルの調整など煩わしい仕事で、良寛さんには耐えられなかったということです。
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