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侍の服装で”裃”の話ですが、江戸初期と中後期では大きく意匠が違うようです。 理由をご存知の方はご教示下さい。

A 回答 (1件)

こんばんは


「意匠」が形式なのか、デザインなのか、ちょっとわからなかったので、的外れのレスになるかもしれませんが・・・

 武士の服装は、TPOおよび身分によって事細かく「服制」として定められていました。
 「裃(上下)」は、肩衣と袴のセットで構成される、殿中における武士の正装ですね。
 これには、将軍ほか諸大名・御目見得以上にのみ許された長裃(袴の裾の長いやつ)、くるぶしまでの(一般的な)半裃、肩衣と袴の柄・素材が違う継裃の三種があります。
 小袖も、一定身分以上の武士は「腰替わり熨斗目」といって、腰の部分だけ縞模様を織り出したものを着用し、身分・役職によって異なります。それ以外は、「服紗小袖」を着用します。
 さきの「継裃」は、一種の「略装」ですが、熨斗目小袖を認められた者以上のみが許され、仙台平・茶宇・桟留といった柄の袴を着用します。

 裃の「肩衣」にも形や大きさなど流行があったようですが、ゴメンナサイ、詳しいことはわかりません。

 デザインには中期以降は「江戸小紋」が、それぞれの大名の間で「自己主張」的に使われたそうです。
 江戸小紋については、参考URL貼っときますので、御参考に。

 こうした裃も、世情騒然とした幕末には、裃を廃止して羽織・袴での登城を認めるようになります。 

http://www.tokyo-somemono.com/img2/edokomon.htm
http://www.kimono-server.com/wasomenu/jyosei/edo …
http://www.jttk.zaq.ne.jp/kimono/edokomon.html
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この回答へのお礼

有難う御座いました。
大変参考になりました。

お礼日時:2006/04/18 08:17

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