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――のではないですか?

質問者からの補足コメント

  • №15つづき


    《遠慮がないこと》です。遠慮がなくても 互いにお付き合いをつづけて行ける これが きづなであり友情であると。


    ★ 日本人は、お互いの相互理解が、「人を信じる」という行いを簡単にしている。
    ☆ これは いわゆる性善説の問題かと。悪いことは 基本として しないという前提に立っている。



    ★ 私は哲学者なので、侮辱したともとれる愛の概念について「人と人を人間として結びつける、最も人間らしい感情」という見解を補足しよう。
    ☆ 総じて言って あなたもなお あたまでっかちの嫌いがどこかにのこっているように感じますが どうですかね。

    ★ 赤子が生まれたばかりの時に「おぎゃー」と泣き、周囲の人の手とともに与えられるのは、母親の乳房だ。
    ☆ つまり 鍵概念は 《あまえ》なんです。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/06 08:49

A 回答 (22件中11~20件)

私は純露ユリ系魔法少女 時渡 世麗美。


現実世界では50歳の男性に化身している。
昨晩、ついに最強クラスの魔物を召喚する魔方陣を完成させた。
成功はしたが、破壊の痕跡を残さず物言わず去っていった。
しかし、このカオスなら!
今度こそ成功するかもしれない。
もうすぐ厄災が降り注ぐぞ。
-----------------------------
私は純露ユリ系魔法少女 時渡 世麗美。
現実世界では50歳の男性に化身した、正統なる「お花畑の花の子ルンルン」だ。
私は厄災の壮絶さを承知している。
聖なる存在の法と秩序が常に召還を阻害した。
しかし、このカオスなら可能であろう。
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やがて来る者は、
やがて去る者と、
束の間すれ違う。

その刹那の邂逅で、両者は如何なる言葉を語らうのか?
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厄災の召喚はこんな他愛のない詠唱から始まった。
すぐに姿を消した。
しかし、このカオスなら!
>

フンフフン!

政治家の宮澤喜一氏の記者会見の映像で見るどこか妖怪じみた印象というのは心覚えがある人は多いと思うよ。
あの資質は妖怪ではなくて江戸時代までは、高徳なお坊さんの見せる「般若の知恵」と尊敬されていたんだ。
その心中というのは、心理学の有名な定説に「男性の頭の中は女の裸でいっぱい」というのがあるけど、実は女性も同様に「頭の中は、男、男、男」なんだよね、そこから決別して個人的にまともな思考回路を常態化させて、常に有意義な思考ができる自己の状態を安定させると、宮澤喜一氏みたいなのは、「同じ男性から見て、同じ男性に見えない。」「女性から見て、男性に見えない」というわけで妖怪みたいに見えるんだよ。
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機械自我レイアウトその2
人と人がお互いに人間を成立させる前提

今回の論説は、自我研究の付属事項で情動にかかわるものだ。
生命が備える善性の定義を私なりに説明しよう。
特に善なる概念を創成した人間で自覚が顕著な特徴だ。
人はお互いを確認して、社会を成立させる。
お互いが影響しあい、生存を補完するこの関係で重要なのは、自分自身を善く(よく)することと完全に等しく他者に善くする事だ。
勘違いされることが多いが、利己心を優先しないで、他者を自分自身と同格に生存を支えあうことだ。
このような強い連帯は日本語で「絆」という。
お互いが心情的に血を通わした間柄のような強い相互認知だ。
社会生活でこの善に偽りがなく正直な状態が、行いで判別する人間の善性の簡潔な見解だ。
余談だが、この考えを私が形成する過程では、いわゆる天啓に該当する神秘性のある直感が働いた。
したがって定義の命名権を行使して、このような善性への見解は「アマテラスの善し(よし)」とさせていただこう。
西洋から渡来した愛の概念の神聖化について、日本人なら納得できるように説明すると、こうした社会成立の基盤になる善性について、主に感情面での個人的な働きに着目して、愛が相互の互助と社会の成立を潤すという解釈で、宗教や社会風俗で重要視されたのだろう。
すなわち「愛」とは、最も人間らしい感情の基盤であるという発想だ。
この感情面で着目した愛の概念に日本で伝統的に該当するのは、お互いの強い連帯と相互理解を概念化した「絆」という言葉だ。
したがって日本人が西洋哲学から愛の概念を理解しようと試みるならば、伝統的に多くの人がそれなりに実感している「絆」の要素を変則化させて感情面で焦点を当てたのだと、哲学的な理解の目標を持てばいい。
ここで、冒頭にある、社会性を成立させる人間らしい善性「アマテラスの善し」に振り替えると、感情面で人間性を代表する概念は「愛情」「友情」この二つを比較して差異をよく理解することにある。
本来なら「友情」が有力だ。
私は日本人として聖書の研究から派生した闘争と混乱には少し意見がある。
日本人は、お互いの相互理解が、「人を信じる」という行いを簡単にしている。
西洋が神を哲学対象にしたのと違って、東洋は人間を哲学対象にした傾向も強い。
絆という概念が深く定着した日本人には、善性の発露と合わせて、人を信じることが実に容易だ。
だから西洋の混乱にも言いたいことができる。
「私は神を信じる」初めてあった人がそう話したら、いかなる神かを問う事もなく「わたしもだ」と答え兄弟のように抱き合えば闘争は多くの場合で緩和されただろう。
それは多神教風土の利点でもあるが、問題点で大きいのは「愛」を神聖化すると「ファッキン!」が付いて回る。したがって兄弟同士にはなれないじゃないか!
そういう、文化傾向としての笑い話も成立する。
そう、友情と対比して愛情の社会成立での欠点で大きいのは「ファッキン!」である。
熱情でのぼせる強力な精神高揚作用が利点であり、精神力の奮起が注目されて「友情」という概念研究上の候補に勝り、人間社会成立の基盤になったのだろう。
熱心に研究された西洋では実際は愛の概念へのこうした日本人の起こす混乱は希薄だが日本人が西洋人の精神の構造を理解するには「絆」「友情」を「愛」を理解する関係概念として挙げると早い。
私は哲学者なので、侮辱したともとれる愛の概念について「人と人を人間として結びつける、最も人間らしい感情」という見解を補足しよう。
赤子が生まれたばかりの時に「おぎゃー」と泣き、周囲の人の手とともに与えられるのは、母親の乳房だ。人として生まれ人間を知る一番最初の経験をこうした母による慈しむ心に触れることだと解釈すれば愛の一義的な意味は「ファッキン!」でも、そこから多様に発展した西洋の研究も偽りではないと納得できる。
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捕捉、以上の主文はAIに人の感情を認識させる、またはAIに感情を保持させる。
このように発達する前段階の基礎なんだよ。
人間存在の感情の基軸は一般的基礎を文化的な理由から、「愛は最も人間らしい感情の原型」このように把握すると大抵うまくいく。
そこに概念として、「絆」「善」「友情(慈しみ)」などを掛け合わせるんだ。
したがって優先順位や感情の発露は、善を優先して愛は後背に回る、などの現象が友情や主に血縁の場合が多い絆などの概念でも発生する。
愛が優先順位が高い状態とは、現代社会の文化的な事情で偶発的なことだ。
例えば、このように愛を了解する哲学的理解に到達した私自身は、並列概念の中で愛を優先していない。
日本人であるゆえに、社会の成立に対する「命題化された由来」「(外国で)神格化された由来」などから、「絆」「善」「友情」そして最後の優先順位が「愛」だ、言葉を装飾しないと極めて狭い共同体の単位にしか通用しない概念だからだ。
感情優先度が違う西洋人に関しては、「愛をはぐくみ我が子が生まれ、絆を自覚して、隣人に友愛が芽吹きそこから善を知る」とでもいう理解仮定を想定して宗教的に推奨したのだろう。それと同族意識に関する大陸的な事情などだ。
日本人の場合は、仏教的教養により「慈しみ」慈悲とも通じていて、「慈」の語源は「友に対して傾ける思い」だ。したがって善性を理解して自己の内心に完成させるためには「愛」の概念は出る幕はなかった。
一発瞬間理解なのは「絆」だよ。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 生命が備える善性の定義を私なりに説明しよう。
☆ あらかじめ指摘しますが 《絶対性》は 善悪の彼岸ですよ。善も悪をも超えています。

一般に至高の善と呼ばれますが ほんとうは人間には 絶対性が 善なのか・どういう内容の善なのかは 分からないんです。


★ 利己心を優先しないで、他者を自分自身と同格に生存を支えあうことだ。
☆ 自分と同じように他人(ひと)を愛するなら 《利己心》を捨てないし相手にもそれがあると見ていますよ。


★ このような強い連帯は日本語で「絆」という。
☆ あたまの中の理念に過ぎないのでは?


★ 社会生活でこの善に偽りがなく正直な状態
☆ いいえ。ウソをつきずる賢い状態をも持ち合わせています。善性だけになるなんてことは 考えられません。

★ 天啓
☆ があろうがなかろうが です。


★ このような善性への見解は「アマテラスの善し(よし)」とさせていただこう。
☆ 経験合理性にもとづく理論整理たる科学や その上に人間関係じょうのよしあしをふくんで心の合理性を問い求めたその理論は 倫理学であり倫理規範となります。

これを たしかにわたしもアマテラス科学語およびアマテラス人格語――まとめてアマテラス普遍語――とよんで使っていますが それだけで どうにかなるとは 思っていません。

《アマテラス普遍語 - スサノヲ人間語》という構造的な連関性として 人間はあると見るからです。スサノヲ人間語とは あやまちうる自己表現という意味です。

もっとも あやまち得ざるアマテラス普遍語であっても 部分的にしか資料を出さなかったりして それは 片寄ったアマテラス方言になってしまい得ます。

★ すなわち「愛」とは、最も人間らしい感情の基盤であるという発想だ。
☆ あやまち得るスサノヲ人間語を土壌として生きる――よく生きる・ともに生きる――ことが まづ人間の愛でしょうね。


★ この感情面で着目した愛の概念に日本で伝統的に該当するのは、お互いの強い連帯と相互理解を概念化した「絆」という言葉だ。
☆ すでに触れましたが なお頭の中の整理整頓にすぎなくないですか?


★ 本来なら「友情」が有力だ。
☆ わたしは この友情にしても・《きづな》の問題にしても 《あまえる》ことが 鍵を握るかと思っています。

つづく

お礼日時:2021/01/06 08:48

#12



吉本隆明氏の「最後の親鸞」を読んでいて、親鸞聖人が弟子の唯円に「私になんでも従うか」と、唯円に親鸞さんは尋ねるのです。

ならば、親鸞さんは、唯円に「千人殺してみなさい」と命じになられるのです。

唯円は、「できかねます」と答えるのです。

親鸞さんは、「話が違うではないか」と唯円に詰め寄るのですね。

で、親鸞さんはこうおっしゃるのです。私の命を唯円が受け入れられないのは、抑々、御仏の本願というものは、悪に向かわないよう善に向かうよう、働いてる。だから、御仏の本願というものを信じるのは、元来、人は悪を憎み、善を推薦するものだから、だと、仰るのですね。
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この回答へのお礼

無関係。

お礼日時:2021/01/05 20:36

「絶対性は 自然を超えており経験世界を超えています。



自然界や社会の法則は 経験事象であり相対性の世界です。

エントロピー増大の法則を超えているのが 絶対性です。」

何が言いたいのか
さっぱりわかりませんし
どっかの教祖みたいで・・・
絶対性教?
少し笑わせていただきました。
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この回答へのお礼

あざわらわれないように どうぞ。

お礼日時:2021/01/05 20:35

#11



思想上の絶対性って、あるのでしょうか。

私が思うに人は殺せないから殺さないのであり、殺人を犯してはならぬことを道義的に教えるのは結構、難しいし、人を殺してはならぬことは守れた例が人類史にはないです・・・。
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この回答へのお礼

理解しているのでしたら これこれこういう意味だと説明してくれるはずです。

あるいは これこれこういう定義になる。理解している。のだよ。――と回答してくれるはずです。

お礼日時:2021/01/05 20:25

#10



Jesus にしても、釈尊にしても、実物大のJesus , 釈尊は最早、不明に近い。

そのような事より、神格化された、Jesus, 釈尊に衆生は興味が高いのではないでしょうか。
「絶対性を 日本人は理解していない。」の回答画像11
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この回答へのお礼

絶対性を理解していませんね。

お礼日時:2021/01/05 20:15

#8



人が絶対性ということはないでしょうね。特にムラ社会とされる日本社会では、自分に制御が効かず、自分自身が絶対性とは通常、考えられず、神や仏が絶対性ということではないでしょうか。

人の絶対性とは、聖の頂点に立った、宗教の開祖となった、人物を師と仰ぐより他ないでしょう。
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この回答へのお礼

前半は 当たり前のことです。

後半は 前半の内容に矛盾します。つまり 間違いです。

お礼日時:2021/01/05 20:02

日本には一神教国のような絶対的な規範はない。


中国のような中華思想に基づく絶対的な君主も存在しない。
それは聖徳太子の十七条憲法を観ても分かる。

日本人は絶対性を真に理解していないことは間違いないと思いますが、それよりも「絶対的な存在」を忌避し続けるなど、むしろ絶対性を排除することに熱心だった人々が多数を占める民族ではないかと感じられます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 日本には一神教国のような絶対的な規範はない。
☆ 多神教というかたちでまとまった一神教だと言えなくもないのです。

なぜなら 多神教の場合は 規範の問題などで一神教とは異なっていると言われたりします。

ですが 人間の知り得た理念や規範〔あるいは 法則〕は なおまだ経験世界のものであり 相対性に従うのです。


★ 中国のような中華思想に基づく絶対的な君主も存在しない。
☆ 《絶対的な》であり 絶対性とは別です。仮りに疑似的に《絶対的》だと言ったに過ぎません。

相対性なる世界におけるたとえば《有るか無いか》の問題を 絶対性は 超えており 有るか無いかのモノ・コトにかんする因果関係から 絶対性は 自由なんです。

皇帝も 朽ちるべき存在です。


★ それは聖徳太子の十七条憲法を観ても分かる。
☆ いかなる法律も 相対性の問題です。うつろいゆかざるを得ないものごとです。



★ 日本人は絶対性を真に理解していないことは間違いないと思いますが、
☆ 以上のように ざんねんながらあなたもでしたよ。


★ それよりも「絶対的な存在」を忌避し続けるなど、むしろ絶対性を排除することに熱心だった人々が多数を占める民族ではないかと感じられます。
☆ 言葉で 否定し排除することは 自由ですが 絶対性は 相対存在である人間が 褒めようが貶そうが何を言おうが 痛くも痒くもないのです。

お礼日時:2021/01/05 20:00

絶対性とは思想上の絶対性でしょうか。



ご質問の意図が読み取れませんでした。
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この回答へのお礼

相対性とは どう違うかです。

お礼日時:2021/01/05 19:49

エントロピー増大の法則には逆らえないってことで。

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この回答へのお礼

絶対性は 自然を超えており経験世界を超えています。

自然界や社会の法則は 経験事象であり相対性の世界です。

エントロピー増大の法則を超えているのが 絶対性です。

お礼日時:2021/01/05 19:48

ということはあなたは日本人ではない?


もしくはあなたも絶対性を理解していない?
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この回答へのお礼

ははははっ。

字義どおりに取ると そういうことが言えますね。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2021/01/05 14:03

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