【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

オッカムの剃刀ではないですが 最小限の定義として提出します。

どうでしょう? 寄ってたかって自由に批判してください。

質問者からの補足コメント

  • №25のお礼欄で 何度やっても 入力エラーが出ます。


        *

    それは №14のお礼欄にくわしく書きました。



    ご回答をありがとうございます。

      補足日時:2019/03/31 18:19

A 回答 (41件中1~10件)

世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる  よみびと知らず



バランスが大事だと思います。めまぐるしく変わる世の中で生きていくためには、自分の中に変わらない規範を持ちながら世の中に対応していくことが必要。
知恵を働かせ、知見と知見とを対照させてさらにあらたなる知見を問い求める、というような難しいことはよくわかりませんが、日常的にいろいろな問題が起こってきたときに、試行錯誤しながら問題を解決していくということですよね。それならわかります。
「哲学とは 交通整理である」の回答画像41
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この回答へのお礼

それはそれは。――ご回答をありがとうございます。

人によっては 《よそ見をしない》というモットーを持っている場合
があるようです。

気持ちとして 分かる気がします。



万葉集が人気が出ましたね。

お礼日時:2019/04/04 23:21

哲学的思考は、情報を鵜呑みにすることを回避させてくれるような気がします。


身近な例を挙げれば、サバ缶。メディアで取り上げられたことでブームになり全国的に品薄状態に。なぜか。サバの栄養をまるごと手軽にとれるからという理由だが、私はサプリメント的な発想がこの商品のヒットの裏側にあると思う。もちろんサバ缶がサプリメントってわけではなくて、あくまで今の世の中の傾向ということで。
サバではなくてなぜサバ缶か。本来サバの脂は傷みやすく、新鮮なものは海の近くでしか食べることができなかった。ところが、塩をすることによって保存性が高まることを知った人たちが、塩をあてたサバを内陸に運んだ。若狭から京都につながる鯖街道という道があるが、昔は人間がサバを担いで運んだそうだ。ちょうど京の都に着く頃に塩が馴染んで非常においしくなったという。これは、手間と不便という意味においても同じサバであるにもかかわらず、加工品であるサバ缶とは全く違った情報。しかしながら、消費者は今、大半において多忙であるため料理に時間をかけられず、時短にできるものを求めるゆえに、こうした世の中の動きにならざるを得ないのです。
サバ缶ももともとは、哲学的思考の中で開発されたのは確かです。日持ちもするし手軽に骨ごと食べられて栄養豊富。
そう、ここでブラジュさんの問いにかかわることです。われわれが哲学として問い求めそこに発見され得られる知恵や知見に力点を置くのではなく、知見や理論を学んで、さらにはあらたに得られた知見をも含めて、それらを常に交通整理することに重点を見出すことが必要なのではないでしょうか。と私は思いました。世の中はめまぐるしい速度で動いているからです。変わらない価値観ももちろんありますが、世の中の動きに伴って変わるものもあるでしょう。人の考えもそうだと思います。交通整理しながら、世の中を予見できるという利点もあると思いますが、どうでしょうか。
「哲学とは 交通整理である」の回答画像40
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学的思考は、情報を鵜呑みにすることを回避させてくれるような気がします。
身近な例を挙げれば、サバ缶。・・・
変わらない価値観ももちろんありますが、世の中の動きに伴って変わるものもある
でしょう。人の考えもそうだと思います。交通整理しながら、世の中を予見できる
という利点もあると思いますが、どうでしょうか。
☆ そうですね。分かりやすい事例を挙げて説明してくれました。

それを今回はあっさりかんたんな命題にまとめてしまいます。

○ 交通整理するということは 知恵をはたらかせ 知見と知見とを対照させてさ
らにあらたな知見を問い求めている。つまり 問い求めとしての哲学と ちっとも
変わりないのだと 今回はっきりと分かったと思うのですが どうでしょう。

お礼日時:2019/04/04 22:06

行き先を知らない人々ですか。

私は単なる物理的な渋滞かと。渋滞の解消は良いことですが、なぜ渋滞したのかを知らないままで、やがて解消の上を進むなら、それは人々にとってはあまり意味のないことだと思います。
哲学が形成されて、その上を歩む、これはどんなことにもあてはまりますが、深く考えない方が生きていく上で楽ですが、情報を鵜呑みにすることにもつながるので注意が必要だと思います。
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この回答へのお礼

そうですね。
渋滞の解消は 交通整理のもんだいですし
それを解決するための仕組みや考え方が 哲学でしょうね。
そして その重要性を指摘しておられる。


ご回答をありがとうございます。

そうですね。この質問は いまも掲げられている同趣の質問・【Q:哲学
とは何か?】に即したものです。

そこではわたしはブロックされているので ほかにもこちらとして【Q:
哲学の普遍性なる太陽は 人間たるおのれが・・・】という質問をかか
げるとともに 見解を述べつつ質問したものです。



要点は こうです。われわれが哲学として問い求めそこに発見され得ら
れる知恵や知見〔とそのよろこび〕に力点を置くのか それとも 必ず
しもそうではなく知見や理論を学んで・さらにはあらたに得られた知見
をもふくめて それらをつねに交通整理することに重点を見い出すか 
という問いにあります。

ふたつのことは 無理に分けることもないのでしょうが 重心のありか
としては 問うてみようと思ったことです。



道の分岐点に立ったり・また立たなくても行き先を知らない場合に わ
たしは交通整理をするのだと言いましたが その場合はむしろおのれの
行くべき道を知ることのほうが 正解になり重要であるかとも思われま
す。

ただし やっぱり同時に ほかのいくつかの道や行き先をも知っている
ことは ひとしく重要であるかに思われます。


問題は――かなり些末のことに入ったようにも思えるのですが―― 人
はおのれの道を変更することがある。ということではないか?

さとりの知恵にしても 絶対のものがないとしたら 行き先を変えるこ
とも ざらにあり得ます。

――といった風景にからんだ問題点が 哲学するという全体としての道
にあるかも知れない。こういう問いかけになっていると思います。

お礼日時:2019/04/04 08:37

世の中の仕事はすべて哲学である、という考えに賛成。


道路が渋滞してはじめて人は交通整理が必要だと思うようになる。スムーズに流れていると必要性を感じない。
車が多くなり、通行に不便を感じて、やっと交通整理をしてほしいとなる。信号機の設置であれ、交通整理員の人力であれ渋滞はいずれ解消される。
だから結果としては完成度が高く、目的を達成するのに最短の手段である。ひとつの完成された哲学と言えると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 世の中の仕事はすべて哲学である、という考えに賛成。
☆ そうですね。生きるとき 世界を知りたい・この部分をこう変えたい
といったなら 哲学なるいとなみに入るのだと思います。


★ 道路が渋滞してはじめて人は交通整理が必要だと思うようになる。ス
ムーズに流れていると必要性を感じない。
☆ ただ 人びとのあゆむ道は 分岐点にさしかかるかも知れない。行き
先をしめす標識がすでに初めに必要かも知れない。


★ 車が多くなり、通行に不便を感じて、やっと交通整理をしてほしいと
なる。
☆ 分岐点というより 道の交差する地点の問題もある。

★ 信号機の設置であれ、交通整理員の人力であれ渋滞はいずれ解消され
る。
☆ 四つ角では 交通信号が必要ですね。渋滞の以前に。

★ だから結果としては完成度が高く、目的を達成するのに最短の手段で
ある。ひとつの完成された哲学と言えると思います。
☆ ひとつの同じ地域を捉えそこに道を通すというとき 人によってどこ
に道をつくるかで異なる意見が出て もめることがある。その意味で 交
通整理が必要になる。

というふうにも考えました。

お礼日時:2019/04/03 22:03

ただし、錆びついた標識とセットです。

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この回答へのお礼

錆びついた思想というのも いくらもあるかも知れない。

それらを交通整理したほうがよいはずです。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/04/01 11:09

交通整理のおっちゃんは哲学してる暇などない。


法令に基づいたマニュアルに従い業務を遂行してるだけ。
仮に哲学してたら、交通渋滞になる。
よって、哲学は交通整理ではない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 交通整理のおっちゃんは哲学してる暇などない。
☆ 交通整理にしろ何にしろ 世の中の仕事は すべて哲学ですよ。

否定するいわれは 何もない。


★ 法令に基づいたマニュアルに従い業務を遂行してるだけ。
☆ だから 交通を整理するという仕事を果たしていることが 社会
生活をする人びとにとっての哲学の一環です。


★ 仮に哲学してたら、交通渋滞になる。
☆ だから 哲学についての誤解があります。


★ よって、哲学は交通整理ではない。
☆ 普段は信号によって整理されていますが 哲学として社会に要請
することがあれば いつでも交通整理という仕事もします。

お礼日時:2019/04/01 11:02

そうですか。


これからもunicodeの配列で遊んで下さい。
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この回答へのお礼

《unicodeの配列》が ざんねんながら わかりません。申し訳ない。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/03/31 18:54

わかりました。


あなたの住所を示して下さい。
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この回答へのお礼

何の話ですか?



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/03/31 18:50

>言葉以外で では 偏狭ではない世界をください。


>なぜなら 《偏狭》と言ったのは あなたですから。

言葉の証明が言葉で可能であることを示して下さい。
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この回答へのお礼

確認や検証することのできない主題(問いかけ)を いまの対話の
中に持ち出したのですか?



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/03/31 18:49

>わたしの思想が 偏狭だと あなたが言ったので では 偏狭ではない世界を


>しめしてくださいと尋ねただけです。

偏狭ではない世界を言葉で示せることをまず示して下さい。
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この回答へのお礼

言葉以外で では 偏狭ではない世界をください。

なぜなら 《偏狭》と言ったのは あなたですから。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/03/31 18:46
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「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
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ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
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、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
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「不信」が統合を不可能にしています
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ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
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宗教間対話」のあり方として
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ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

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いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

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>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q日本のムラ(市町村)をまるごと輸出すればよい。住みよくなる。

▲ 日本に来て人格を変える中国人が急増中 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190319-00055791-jbpressz-cn&p=1

■ 3. 日本に行くと人格が変わる中国人

・・・
 多くの中国人が幼い頃から日本のアニメを夢中になって見ているうちに、その日本
の伝統精神文化が無意識のうちに心の中で共有され、深く浸透していく。

 一つひとつ心を込めた丁寧なおもてなし、相手の心情を察した細やかな思いやり、
不都合な結果に関して他者を責めず自らの努力不足を問う自責の念、外面的な一律の
基準で定められたルールに反すること以上に自分の内面の良心に反することを恥じる
恥の文化・・・。

 もちろん日本人でもこれらの精神文化を徹底して生きている人間はほとんどいない。

 ただ、そういう姿を見れば素晴らしいと思うし、完璧ではないが、自らもある程度
は実践している人が多い。

 一方、現在の中国における日常生活では、それらを中国人が実践する機会は少ない。

 そんな日本の伝統精神文化への共感を心の中に抱く中国人が、10代、20代で旅行や
出張で1~2週間日本へ行くと、その精神文化の中で生きている日本人の世界に初めて
出会う。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ なら 日本のムラ(市町村)を一つひとつまるごと 輸出すればいい。特に中国
と韓国には 必要ではないか? どうでしょう。

▲ 日本に来て人格を変える中国人が急増中 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190319-00055791-jbpressz-cn&p=1

■ 3. 日本に行くと人格が変わる中国人

・・・
 多くの中国人が幼い頃から日本のアニメを夢中になって見ているうちに、その日本
の伝統精神文化が無意識のうちに心の中で共有され、深く浸透していく。

 一つひとつ心を込めた丁寧なおもてなし、相手の心情を察した細やかな思いやり、
不都合な結果に関して他者を責めず自らの努力不足を...続きを読む

Aベストアンサー

日本のムラ(市町村)を一つひとつまるごと 輸出すればいい。特に中国
と韓国には 必要ではないか? どうでしょう。
 ↑
1,多勢に無勢で、日本のムラが中韓化すると
 思います。

2,中韓が全員しかも同時に変わらないと悲惨な
 結果になるでしょう。

 中韓がああなったのは、そうでないと生き残れなかった
 からです。

 一部が日本化したら、日本化した人間が食い物に
 されるだけです。


 中国のTVですが、識者3人が議論する、という
 番組があります。
「日本人は誠実だな」
「そうだな」
「君たち、そんなに日本人を褒めるなら、君たちも 
 日本人のように誠実になったらどうだ」
「バカいうな。中国で誠実になったら身ぐるみ剥がされて
 しまうわ」
「それもそうだな」

Q良心の呵責を感じることはありますか?

哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

Aベストアンサー

私も感じますよ。それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。


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