アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

1. 《たとへ》です。タトへとしてどこまで現実であるか?

2. おそらく主観の内面においてであることは定まっているはずですが どこまで・どのようにして 現実であると人びとは捉えるか?
 


3. 十字架上のイエスが特異点だと言うのは なぜ磔になったかその無実の罪といったいきさつの問題がある。これが 大きい。

4. そのいきさつを無条件で引き受け 有罪無罪を超えた地点に立った。

5. 因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由な一点だという意味で 特異点にたとえられる。その地点は 微分することが出来ない。いかなる傾き・傾向がない。

6. 1/ x において x = 0 である場合を言う。

7. その x がイエスであり それが 0(零)であるということは イエスが完全なる死を死んだという意味である。

8. 死が完全ではないというのは 通俗に言う《この世に未練が残って 文学的に言うならば幽霊になってさまよわねばならない》場合のことである。

9. イエスは 完全に死を死んだ。磔による苦しい死を膝を折ることなどによって早めてやろうとして近寄った兵士らは イエスがすでに息を引き取っていたのを見て驚いたとある。

10. 去って行ったとき 特異点が成った。あたかもよみがえった。


☆ ご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №5でおぎないます。

    ★ コロナはいままでのウイルスと非常に異なっていて、特殊です。陰性を判断されても脳内にウイルスは残るとか、さまざまな危険な後遺症が次第に判明しつつあります。どう思われますか?
    ☆ 特殊性についてですよね。いやぁ すみません。分かりません。

    牧師氏の指摘のごとく《人類の堕落を示唆する》ものか。

    神から贈られたメールであると採ってよいと思いますが その解釈は わたしにとって むつかしいです。ヒラメキが得られていません。(解釈が ひとつに限られるとしなくてもよいでしょうし)。


    どう考えられますか?

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/29 22:31
  • №10つづき


    ★ ただ、聖書の理解を深めるために、ブラジェ先生が神学について語られ、誰もコメントをしていない状況であるのなら隙を見て、お邪魔をし、教えを乞いたいと考えているのです。
    ☆ ありがとうございます。まなばせてもらっていますし これまでわたしが考えて来たことがらはそのままつづらせてもらっています。


    ★ 邪魔
    ☆ というのは たしかに同じやり取りを延々と繰り返す場合として実際に経験していますが いまはこうやってご回答ご投稿に応じてたのしく言葉をつむいでいます。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/30 10:04

A 回答 (18件中1~10件)

イエス・キリストを、(神仏G=天)とするならば、


確かに、それは、特異点で有る。


しかし、彼は、残念ながら、(神仏G=天)では無い。

(神仏G=天)からの、天啓を受けた人物である。
従って、天の使い、天使様で有っても、天では無い。

ゆえに、特異点では無い。

特異点 0~1~0  又は1~0~1

特異点の正体は、私が、物理理論と数式で、解明、発表を済ませている。


~~~

良い、質問を有難う。

では、又、お会いしましょうね。


By  逆転地蔵


    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ イエス・キリストを、(神仏G=天)とするならば、
確かに、それは、特異点で有る。
☆ あぁ。ほぉ。

★ しかし、彼は、残念ながら、(神仏G=天)では無い。
☆ ん? むろん 人間ですが 人間であると同時に 神の子でありみづからも神であると言われます。(ヨハネ福音冒頭ほか)。


★ (神仏G=天)からの、天啓を受けた人物である。
従って、天の使い、天使様で有っても、天では無い。
☆ そうですね。

▼ (マタイ福音 16:20 )イエスは、ご自分がメシア(クリストス)であることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

▼ (ヨハネ福音 4:25-26 ) 〔サマリアの女の言う《メシア》は 自分のことだとイエスが言っている〕。

▼ (ヨハネ福音 14:6-14 ) ~~~
イエスは言われた。

「ピリポ、・・・
 わたしを見た者は、父を見たのだ。
 ・・・
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、
 信じないのか。
 わたしがあなたがたに言う言葉は、
 自分から話しているのではない。
 わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、
 わたしが言うのを信じなさい。
~~~~~~



★ ~~~
特異点 0~1~0  又は1~0~1

特異点の正体は、私が、物理理論と数式で、解明、発表を済ませている。
~~~
☆ そうなんですか。理解できるようになるといいと思います。


★ ~~~
良い、質問を有難う。

では、又、お会いしましょうね。
~~~
☆ また どうぞ。

お礼日時:2021/01/28 17:15

(特異点の謎は、解明出来ている。

) ← 検索の事 
__________________________

↑ これは、私が、(宇宙時間方程式)として、
過去に、ネイチャー誌に論文投稿した内容を、誰にでも解かりやすく、記入している。
興味が有れば、参考にどうぞ。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。

宇宙の生成が繰り返されるということは 理解できました。

特異点の問題については わたしにはむつかしいかと思います。

といった感じなんですが。

お礼日時:2021/01/28 20:03

(宇宙時間方程式、2016年 3 月 28日 最新、改定版)


____________________________
↑ 検索の事

これが、理解出来ると、相対性理論は、誤りと正しいのごちゃまぜ理論で有る事が理解出来る。

そして、相性の悪い、相対性理論と、量子論の融合の数式で有り、大統一理論の完成で有る事も理解出来る。

そして、宇宙S=神仏G=時間T で有る事も、この世の事象。

森羅万象、この世の全てが、極めると逆転する事も理解出来る。
これは、究極の哲学である【陰陽逆転の法則】の数式で有る事も理解出来る

これ等は、全て、私が、天啓として、女神ミューズ様からの、天の教えで、承った。

このような事が、凡人の私に、思いつく訳が無い。

~~

出会いと別れは、天の導き

~~

では、又、お会いしましょうね。

逆転地蔵 = 宇宙時間方程式 = 陰陽逆転の法則

以上です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ていねいにどうもありがとうございます。


陰陽は 互いに対消滅するかとは思いましたが よくは知らない分野です。

お礼日時:2021/01/28 21:16

ブラジェ先生、こんばんは!(^^)



>タトへとしてどこまで現実であるか?
>おそらく主観の内面においてであることは定まっているはずですが どこまで・どのようにして 現実であると人びとは捉えるか?

これは牧師が言うには「イエスによる奇跡の解釈については、奇跡を受け入れずして、信仰は成立しない(イエスがメシアであるということ=イエスが100%人間であり、また同時に100%神であるということ)」と仰っておりました。

なぜなら、イエスはイザヤの予言通りに人々(我々)の罪のために人間として死ぬ必要があった。そして、神でなければ三日目に復活できないからと。

つまり、イエスの起こした奇跡もイエスが人であり、神であり、メシアであるためにはイエスの起こした奇跡を受け入れざるを得ない。そうでなければ信仰は成立しないと。

そして、一般人の聖書読者は奇跡を受け入れがたいから信仰へは至らない。だから本当の意味で「救われたクリスチャン」として天国へ行けない(牧師が言うにはクリスチャンには2種類あり天国へ行ける「救われたクリスチャン」と「救われていない名目だけのクリスチャン」がある。)だが、聖書に書かれてあるイエスは奇跡を含めて、すべて真実であり事実であると。つまりイエスの起こした奇跡さえも嘘ではなく、事実として受け入れなさいと。

是非、ブラジェ先生の見解をご教授くださいませ。m(..)m

PS.あと、聖書は何を使用されておりますか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは 000034さん。ご回答をありがとうございます。

★ 「イエスによる奇跡の解釈については、奇跡を受け入れずして、信仰は成立しない(・・・イエスが100%人間であり、また同時に100%神であるということ)」
☆ そうです。そして話は 三位一体説にまでおよぶものと見られます。

しかも 《特異点》は 経験事象なんですね。相対的な事物をタトへとして絶対性を指し示そうというコンタンです。


★ なぜなら、イエスはイザヤの予言通りに人々(我々)の罪のために人間として死ぬ必要があった。そして、神でなければ三日目に復活できないからと。
☆ ええ。復活についても[10]でチラッと触れました。


★ つまり、・・・イエスの起こした奇跡を受け入れざるを得ない。そうでなければ信仰は成立しないと。
☆ 初めに信じる(非知なるナゾを無条件にて心に受け容れる) そうして思索も議論も始まると言われます。


★ 奇跡
☆ の話は つまづきの石になっているようです。そうですね。では 次のように預言(解釈)するとしたら どうか?

★ つまりイエスの起こした奇跡さえも嘘ではなく、事実として受け入れなさいと。
☆ これは 《事実》としての認識が――経験合理性に照らすならば――むつかしい。物語として正解へとみちびく補助線だと捉えるなら 分かる。といういわゆる常識の線が考えられます。

わたしとしては 《奇跡を事実として受け容れなさい》とは よう言わない です。自然の感覚にそこまでさからうことはむつかしいです。

★ 「救われたクリスチャン」
☆ これは 潜在性として・理論じょう ひとは一人残らずみな《われはある。わたしはわたしである》という世界との和解に到ったという理解でいます。

それは へブル書8章でエレミヤ書31:31以降の新しい契約が――イエスの登場によって――成ったと書かれたことを持って判断します。《神は人間の罪をもう覚えない。忘れる》そして《神のことを人びとがおしえることはもう無くなる》という二点の成就と見るからです。

ヤハヱ―神は イエスの登場によって 民族の外に開かれ 普遍神と成ったと。デウス・アブスコンディトゥスになると。



★ PS.あと、聖書は何を使用されておりますか?
☆ 翻訳にこだわることは控えるようになっています。新共同訳などを見ます。

お礼日時:2021/01/29 20:30

なるほど。

お礼を頂きどうもありがとうございます。
実に勉強になります。

そうですね。イエスの奇跡がまさに信仰へのつまずきの石になっておりますよね。

「論語と算盤」という本があり、渋沢栄一(でしたっけ?)が、人生の座右の書として聖書も読んだらしいのですが、どうしても「人が奇跡を起こせるはずはなく、死んだ者が生き返るはずがない」という点で、聖書より「論語」を選んだそうです。そのせいか、女性関係にはだらしがなかったようです。
(これは私は読んでなく、ネットでいろいろと内容をざっくりと調べただけです)

>★ つまりイエスの起こした奇跡さえも嘘ではなく、事実として受け入れなさいと。
☆ これは 《事実》としての認識が――経験合理性に照らすならば――むつかしい。物語として正解へとみちびく補助線だと捉えるなら 分かる。といういわゆる常識の線が考えられます。
わたしとしては 《奇跡を事実として受け容れなさい》とは よう言わない です。自然の感覚にそこまでさからうことはむつかしいです。

確かにその通りですよね。常識人であれば自然の感覚で聖書の奇跡を「事実として受け入れなさい」と言われても拒絶されますよね・・・・
その理由の一つとして、「イエスが人であり神である」ということの論理的矛盾を受容できるかどうかの困難さがあると思います。

>それは へブル書8章でエレミヤ書31:31以降の新しい契約が――イエスの登場によって――成ったと書かれたことを持って判断します。《神は人間の罪をもう覚えない。忘れる》そして《神のことを人びとがおしえることはもう無くなる》という二点の成就と見るからです。

すごい記憶力をお持ちですね。うらやましい。
あるいは、ブラジェ先生はかなり何度も読み返されておられるのですか?
まあ、語学が堪能であることを考えれば、暗記力が凄いことは十分理解できますが、うらやましいです。

そして、聖書のどこかに神が「私はもう二度と人類を滅ぼすことはしない」という記述があったかと思います。
しかし、現在のコロナの世界での流行をどう捉え・解釈されますでしょうか?
牧師が言うには「疫病が流行る時には人類の堕落を示唆している場合がある」と述べておられました。神が考えを変え「第三の滅び」を行うことが果たしてあるのでしょうか? コロナはいままでのウイルスと非常に異なっていて、特殊です。陰性を判断されても脳内にウイルスは残るとか、さまざまな危険な後遺症が次第に判明しつつあります。どう思われますか?

>☆ 翻訳にこだわることは控えるようになっています。新共同訳などを見ます。

私も翻訳には拘りません。はじめの頃はもっともわかりやすいリビング・バイブルを読んでおりました。1955年度版もなぜか家にあったので読み、そして、アマゾンで普通に販売されている新共同訳に落ち着きました。(^^;)
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ そうですね。イエスの奇跡がまさに信仰へのつまずきの石になっておりますよね。
★ 渋沢栄一が、どうしても「人が奇跡を起こせるはずはなく、死んだ者が生き返るはずがない」という点で、聖書より「論語」を選んだそうです。

★ その理由の一つとして、「イエスが人であり神である」ということの論理的矛盾を受容できるかどうかの困難さがあると思います。
☆ ううーん。そうですね。経験合理性にも一理あると思いますよ。

なぜって 《人間イエスが 同時に神の子でありみづからも神である》という命題は 《神である》ことが 感性や知性を超えた霊性の問題であるからです。

それだから 信じるのですが ですが信じるのであって《思考において真であると認識する》こととは 別なんです。人知を超えた場ないしチカラとして 霊性があります。(事実としての認識を得させてくれるかも知れないですが)。

☆☆ へブル書8章でエレミヤ書31:31以降の新しい契約
☆ 31章31節という数字で覚えやすいのです。

★ そして、聖書のどこかに神が「私はもう二度と人類を滅ぼすことはしない」という記述があったかと思います。
☆ ええっと。ノアの洪水のあとでしたっけ? 


★ しかし、現在のコロナの世界での流行をどう捉え・解釈されますでしょうか?
★ 牧師が言うには「疫病が流行る時には人類の堕落を示唆している場合がある」と述べておられました。
★ 神が考えを変え「第三の滅び」を行うことが果たしてあるのでしょうか?
☆ 最後の問いは 分かりません。予言はない状態になり預言者の時代でもなくなったのだと見ます。

いわゆる神義論(弁神論)になるかと思います。善と悪とを知る木から採って食べたあとでは 人間はよからぬことを考えたり悪事をおこなったりするようになっています。

原罪も罪も赦されますが 自然本性にさからう悪行はその報いがただちにすっかり消えるわけではないはずです。しあわせな人は 母斑(しみ・そばかすのたぐい)だけで済むかも知れないし そうでない場合には 後遺症とそれの遺伝すらも起きるかと思われます。

後遺症が アダムとエワ以来癒されたりなお残ったりというふうに推移しているものと思われます。疫病もその一環であると見られます。



☆☆ 聖書と翻訳
★ 私も翻訳には拘りません。・・・
☆ うけたまわりました。

お礼日時:2021/01/29 22:10

お礼を頂きありがとうございます。

m(..)m

>なぜって 《人間イエスが 同時に神の子でありみづからも神である》という命題は 《神である》ことが 感性や知性を超えた霊性の問題であるからです。
それだから 信じるのですが ですが信じるのであって《思考において真であると認識する》こととは 別なんです。人知を超えた場ないしチカラとして 霊性があります。(事実としての認識を得させてくれるかも知れないですが)。

あぁ・・・・なるほど。私の聖書理解に欠けていた視点はまさに「霊性」という視点でした。いわゆる「プネウマ」ってやつですかね? 
気づかせて頂きありがとうございます!
だから私の聖書理解は浅かったままでした・・・・

>☆ ええっと。ノアの洪水のあとでしたっけ?

たしか、そうです。神が人類を滅ぼした後に人間は元々悪い生き物だと諦めるというか、受け入れるのです。人間の悪を。そして、滅ぼすことはしないと。

>いわゆる神義論(弁神論)になるかと思います。善と悪とを知る木から採って食べたあとでは 人間はよからぬことを考えたり悪事をおこなったりするようになっています。

はい。仰る通りです。

>後遺症が アダムとエワ以来癒されたりなお残ったりというふうに推移しているものと思われます。疫病もその一環であると見られます。

やはり今回のコロナは神の怒りが関係しているのでしょうか?
それとも、あくまでキリスト教的解釈では?という限定付きですかね?
無神論者に言わせれば「何を言っているんだ?」ということになりましょうが・・・・
    • good
    • 1
この回答へのお礼

☆☆ 《神である》ことが 感性や知性を超えた霊性の問題である
★ まさに「霊性」という視点でした。いわゆる「プネウマ」ってやつですかね? 
☆ そうですね。ルーアハまたスピリトゥスは――アブラ〔ハ〕ムやモーセらにはあたかも直接に〔その知性に〕ハタラキカケをおこなったようですが―― 絶対性と相対世界とは 基本的に絶対の隔たりがあります。

霊性と知性(&感性)とのあいだのこの隔たりと しかも同時にそこにけっきょく神からの〔得も言われぬ〕ハタラキカケがあるとされるのだと思います。

すべては神からの一方的な動きなんだと捉えます。人間が信じるのは そこであり しかもこの信じるも 神から――聖霊のハタラキとして――あたえられるものと理解します。

知性や感性は 霊性に対して手も足も出ないものと思います。人間の知性や感性があたかもモノを言うのは 背後からのハタラキカケによるのだと。

律法はモーセに倫理規範たる知性としてあたえられ めぐみとまことは イエスから来たと言います。《まこと》は 自律のための理念(教育係)を超えた真理であり道であると考えられ いのちが 知性・感性をふくめた自然本性のチカラとしての《めぐみ》ではないかと。

ひとは 三つのペルソナの一体性に類似した自然本性の存在であると。父と子と聖霊にあっては 地上の奇跡がそのまま事実として成っているのでしょう。われわれは これを分有すると言いますか 類似性において把握すると言いますか。・・・

その上で 奇跡について神はわれわれに:
☆☆ (事実としての認識を得させてくれるかも知れないですが)。
☆ とまで言いおよびました。


ちなみに モーセは 顔と顔を合わせて神と話をしたと書いてあります。どう捉えましょうか?



★ あぁ・・・・なるほど。
気づかせて頂きありがとうございます!
☆ いえいえ。どう致しまして。今回言わずもがなの屋上屋を架してしまいました。わたし自身 きちっと明らかに表現しておきたかったのです。モーセの《見神(?)》の問題もあります。



☆☆ 神義論(弁神論)
★ やはり今回のコロナは神の怒りが関係しているのでしょうか?
☆ これは――神義論の基礎の上で あとは―― 信教良心の自由〔および自己表現の自由〕にもとづき主観内での思わくが自由に持たれるものと思います。多様性もありましょう。

お礼日時:2021/01/30 05:50

補足をありがとうございます。



>牧師氏の指摘のごとく《人類の堕落を示唆する》ものか。
神から贈られたメールであると採ってよいと思いますが その解釈は わたしにとって むつかしいです。ヒラメキが得られていません。(解釈が ひとつに限られるとしなくてもよいでしょうし)。どう考えられますか?

今回のコロナが非常に危険度の高いウイルス・疫病であることが次第にわかりつつある状況にあります。ワクチンができても変異種が次々と出現してきております。

私はあまり深く考えるのが不得手であるので、シンプルに、キリスト教信者にとっては「人類の堕落に対しての神の怒り」であると。

無神論者もしくは他宗教者にとっては「何をわけのわからないことを言っているのだ?バカバカしい」と。「実際、死者数は他の要因で死亡する方が深刻で、コロナの死者数は大したことないだろ!」と、考えるのでは?と思っておる次第です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

☆☆(№6お礼欄) これ(コロナ問題)は――神義論の基礎の上で あとは―― 信教良心の自由〔および自己表現の自由〕にもとづき主観内での思わくが自由に持たれるものと思います。多様性もありましょう。

☆ と煮え切らないことを書いてしまいました。
   

そうですね。わたしの心の中では 《神の声》として具体的に何を見直しどのような・個人としてのまたは社会にとってのあゆみが必要になるのかと考えます。

弱さにおいては ふつうの生活に戻るのは これからどのくらいかかるのだろうかとか。



いまのところ わたしとしては次の提案になります。
【Q:世界の和解への三点セット】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11506437.html

☆ 資本主義と絡みますが 指導階層であるお二階さんの行き過ぎた自由。

神論――哲学史としての形而上学問題――として 普遍神はどうか。

あらゆるいぢめ・ハラスメント問題。


☆ 具体的には ずばり中国共産党問題ではないでしょうか? 連帯責任なのだと思われます。半島の人びとのウソつきなるエートスも 問題です。

手の届かないところで イスラームという存在。
・・・


ジジェクですとかボードリヤールなど 関連する主題や提案がありましたら おしえてくださいませ。

お礼日時:2021/01/30 06:09

詳しいお礼を、解説を頂きありがとうございます。

m(..)m
非常に貴重な論を聴き、やはりブラジェ先生の深い聖書理解に驚かされます。

ただ、霊性と言われても(それが自分に欠けていた視点であると気が付いても)霊性とはなんぞや?と、いまいち実感としてピンと来ません。
真に理解できていない自分がおります。

神、イエス・キリスト、そして聖霊と、この中で一番理解が困難なのが聖霊です。自分にとっては。聖書には「聖霊を罵倒する者は絶対に許されない」とありますが。

>ちなみに モーセは 顔と顔を合わせて神と話をしたと書いてあります。どう捉えましょうか?

個人的には受け入れます。一般的には「神を見た者は死ぬ」とありますが、ヤコブも夜中に謎の人物と格闘し勝ったあと「おまえは神に勝った男だからこれからはイスラエルと名乗れ」と創成期にありますよね。
そういった例外的な存在を個人的には認め受け入れたいと思います。

非常に勉強させて頂きました。教会の聖職者とはまた一味違う教えであると思います。やはり先輩・先生から教え・指導を頂く対話というものは重要で大切なものなのですねえ。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 霊性とはなんぞや?
☆ アートマン(霊我)やブッダター(仏性)と同じく 思考・人知を超えたところです。
  
  信じる:霊性:非思考の庭・・・・【非経験の場】
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  考える:知性:思考の緑野・・・・【経験世界】
  感じる:感性:感性の原野・・・・ 同上


☆ 認識にとってどうであるか。

  霊性:非知: incomprehensible incomprehensiblity
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  知性&感性:可知(既知か未知)
        不可知(知り得ないと証明された未知)


★ 神、イエス・キリスト、そして聖霊と、この中で一番理解が困難なのが聖霊です。自分にとっては。聖書には「聖霊を罵倒する者は絶対に許されない」とありますが。
☆ この聖句は わたしにはよく分かりません。三つの位格のすべては 認識にとって《非知》です。

神が 不可知だという説は 間違いかまたはあいまいな表現です。《知り得ないと証明された》ということは 人間の知性がそこまでは及んでいますから。

非知は 人知を超えています。(したがって 人によっては 非知なる神の声を聞くことがある。その可能性が否定され得ません)。


☆☆ モーセは 顔と顔を合わせて神と話をしたと書いてあります。
★ 個人的には受け入れます。
☆ そうですか。

★ 一般的には「神を見た者は死ぬ」とありますが、ヤコブも夜中に謎の人物と格闘し勝ったあと「おまえは神に勝った男だからこれからはイスラエルと名乗れ」と創成期にありますよね。
そういった例外的な存在を個人的には認め受け入れたいと思います。
☆ たぶん《非知》だとすれば その可能性が《例外》なのではなく その体験を持つのが稀だということなのだと思います。誰でも神を見ることが出来るかも知れません。

見たら 世間の思考=生活の様式からは《死んでいる》かもです。
▲ (ガラテア書 5:24 ) キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
☆ だから はたらかなくなったとは見ませんが。

★ 教会の聖職者とはまた一味違う
☆ ぜひともご批判を――教会の先生方からとともに――たまわりたく。

お礼日時:2021/01/30 09:31

>あらゆるいぢめ・ハラスメント問題。



いじめとかハラスメントはよくないことは確かですが、なくなることはないと思います。個人個人の人間性に拠るものでありますし、人間(=動物)としての「本能」的な差別・偏見は実際多様にあるからです。逃げるが価値と個人的には考えます。

>ジジェクですとかボードリヤールなど 関連する主題や提案がありましたら おしえてくださいませ。

ジジェクはラカン派マルクス主義者であるので、神など(いわゆる観念論)とはほど遠いです。そして、ボードリヤールも文章が非常に難解で、理解もできませんでしたが、神学とは(私が読んだ著作の限りでは)関連性はなく、主に現代社会のシミュラークル(ってわかりますかね?)の問題をテーマとしております。わかりやすく言うとコピー品が更なるコピー品を作る(それが現代社会)と。乱暴すぎる言い方ですが・・・・

そして、ジジェクは現在はコロナをテーマとしております。ボードリヤールは「芸術の終焉」(優れた写真家でもあった)を最後にすでに亡くなっておられます。

基本的にポストモダンの思想家は神をテーマとしないようです。ドゥルーズ・ガタリの共著でも「金が神に取って代わった」という論だったと思います。

正直に申しましてポスト構造主義の思想家にどれほどの価値があるのか疑問に思います。

ただ、柄谷と宮台がキリスト教へと接近していったという話を聞いたことがあり、これは興味深いなと感じております。

いろいろとためになる説・論を頂き、誠に毎回ながら感謝申し上げます。
m(..)m
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ いじめとかハラスメントはよくないことは確かですが、なくなることはないと思います。
☆ 早めに芽を摘み 大事に到らないことが 目標でしょうか。待ったなしでシガラミに巻き込まれることがあると思われますから。


★ ジジェクはラカン派マルクス主義者であるので、神など(いわゆる観念論)とはほど遠いです。
★ ジジェクは現在はコロナをテーマとしております。
☆ そうですか。唯物論――そして無神論も――は 形而上学だと理解しています。その点 唯心論的な観念論と その出で立ちはそれほど違わないとは思うのですが。


★ ボードリヤールも文章が非常に難解で・・・主に現代社会のシミュラークル(ってわかりますかね?)の問題をテーマとしております。
☆ そうですか。これは なお推測をおしすすめることもはばかられますね。よく知らないわたしには。


★ 基本的にポストモダンの思想家は神をテーマとしないようです。ドゥルーズ・ガタリの共著でも「金が神に取って代わった」という論だったと思います。
☆ 『アンチ・オイディプス』で手を焼きました。


★ 正直に申しましてポスト構造主義の思想家にどれほどの価値があるのか疑問に思います。
☆ あっ。そうなんですか。J.クリステヴァを割り合い多く読んだのですが ざんねんながら 多くが残っていません。分からなかったのですね。


★ ただ、柄谷と宮台がキリスト教へと接近していったという話を聞いたことがあり、これは興味深いなと感じております。
☆ 橋爪大三郎がクリスチャンで 大澤真幸も積極的に取り上げているのを読んでいます。

柄谷はそう言えば 最近では何でしたか 国連に代わる何とかの構想を言っていたように思うのですが 間遠くなっています。

宮台は youtube でときどき話を聞くことがあります。世界の思想をよくこなしているんですね。

お礼日時:2021/01/30 09:34

まあ、正直に告白しますが、私は20年前学生でゼミの担当教官と自主ゼミのサークルの二つに所属しておりましたが、専門のゼミの教官からは得るものがなく、興味もなく、ギデンズの「親密性の変容」を読まされておりましたが、フィードバックがどうとか、再帰性がどうとかという意味もわからないほどの劣等生でした・・・・



そして、もっとも影響を受けたのが自主ゼミの教官でした。その教官は無名の学者ですが、学生から不思議なカリスマ性があり、その教官の好きな著書を駅ビルの本屋で買い求めておりました。

ちなみに教官が好きでしたのはケネス・ガーゲン、ラカン、ボードリヤール、浅田彰、柄谷行人といったポストモダンの思想家で、まだ青臭かった私は何の役にも立たないとはわからずに必死で読みましたが、さっぱり理解ができず。
これはポストモダンの思想家全員に当てはまる点と思いますが、文章が難解過ぎるのです。「つねにすでに」とか。

それで、ボロアパートに引きこもってニルヴァーナとかテクノとかを流しながら小説を主に読んでおりました。村上春樹、チャールズ・ブコウスキー、三島由紀夫などを。特に好きであったのがブコウスキーのおバカ小説で、日本で出版されている彼の著作は詩集、自伝も含めてすべて買い求めました。子供時代は父から虐待されていたそうですね・・・・

なので、私は哲学、社会学の勉学をほとんどしておらず、思考も訓練されていないのです。これが正直なところです・・・・ですので、ポストモダン思想の著作の一行たりとも20年経過した現在では頭の中に残っておらず、私からブラジェ先生に教えられることは何もありません。哲学を避けるのも、そういう私のコンプレックスからだと思います。頭の出来が良くないのです・・・・正直。

ただ、宮台先生が「まったり革命」を出版し、人生相談本などの大衆向けは読んでおりました。当時、宮台先生はテレクラ社会学で有名でしたね。しかし、博士論文はとんでもなく高度で難解な滅茶苦茶頭の良い人として有名でした。
そんな宮台先生、柄谷先生が私が聖書を日課として読むようになった後に、キリスト教へと接近していったというのをネットで知りました。そこら辺が興味がありました。あの女性遍歴の激しかった宮台先生がなぜ?と・・・・

いまはただ、毎日の生活を家族全員健康で喧嘩をせず仲良く、一日一日をトラブルもなく平穏無事に過ごせることが幸せという感じです。それには聖書が適していたというわけです。

生き方の問題になり、哲学の話題からは遠ざかりますし、賛否両論あるかと思いますが、「井の中の蛙が大海へ出て行ったら死ぬから井戸の中で満足していた方が幸せ」という考えです。この考えには批判も多いですが・・・・これが本音です。ある意味、自分のスペックの限界と低さを自覚しているということでもあります。

長々と、また自分語りをしてしまいましたが、これが実情なのです・・・・

ただ、聖書の理解を深めるために、ブラジェ先生が神学について語られ、誰もコメントをしていない状況であるのなら隙を見て、お邪魔をし、教えを乞いたいと考えているのです。

大変、申し訳ありません・・・・
もし、邪魔だな、相手にする価値もない、不快などを感じられていらっしゃるようでしたが、どうぞ、ご遠慮なく言って下さませ。
なるべく、ブラジェ先生の神学・哲学の邪魔はしたくないので。m(..)m
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ ゼミの担当教官と自主ゼミのサークルの二つに所属しておりましたが、専門のゼミの教官からは得るものがなく
☆ なるほど。(そういうこともありますね)


★ そして、もっとも影響を受けたのが自主ゼミの教官でした。
★ ちなみに教官が好きでしたのはケネス・ガーゲン、ラカン、ボードリヤール、浅田彰、柄谷行人といったポストモダンの思想家で・・・さっぱり理解ができず。
★ これはポストモダンの思想家全員に当てはまる点と思いますが、文章が難解過ぎるのです。「つねにすでに」とか。
☆ E.レヴィナスなどは 超越性の問題なんかで親近感がありました。のですが・・・。


★ それで、ボロアパートに引きこもってニルヴァーナとかテクノとかを流しながら小説を主に読んでおりました。
☆ そうですか。経験合理性を――わきまえつつ しかも――超えて自由な想像力による創作の世界のほうが しょうに合うといったところなのでしょうか。

★ チャールズ・ブコウスキー
☆ ざんねんながら 無知です。とほほ。

文体と言いますか 世の中の歩き方としてのご自分のエートスについて ずいぶんと分かりました。

★ そんな宮台先生、柄谷先生が・・・キリスト教へと接近していったというのをネットで知りました。
☆ この辺の事情は知りませんでした。おいおい分かるようになるかも知れません。


★ 毎日の生活
☆ が いちばんだとわたしも思います。そのために信仰があるのだと見ます。日から日へふかまっていけば その上ないと思います。




★ 生き方の問題になり、・・・「井の中の蛙が大海へ出て行ったら死ぬから井戸の中で満足していた方が幸せ」という考えです。
☆ 知らないでいるほうが しあわせであるという説ですね。これは 自然にまかせればよいと思います。文学の方面へ行ったり あるいはひょっとして哲学に足を踏み入れるかも知れません。(聖書の解釈は 哲学のほうが 一般性のある説明かとは思います)。

つづく

お礼日時:2021/01/30 10:02

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!