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維新が成功して明治政府が出来た時に江戸城で働いていた侍は明治政府の公務員にそのままなったという事はあるのでしょうか?
明治政府の高官は維新志士で固められているのは知っているのですが、明治政府が出来たばかりの頃は江戸幕府で働いていた侍がそのまま起用されたんじゃないかという自説を唱えている方がおられるのですがこの自説は正しいのでしょうか?詳しい方宜しく御願いします。

A 回答 (4件)

 こんばんは。



 日本史で「士族の商法(しぞくのしょうほう)」と言うのを習ったのを覚えておられませんか?

 明治政府は土族の職業政策の一つとして農業や商業につくことを進めました。しかし,それにより士族が従事した商工業は不慣れのためか多くが失敗に終わってしまったんですね。そのため武士が始めた商売を「士族の商法」と呼んだんです。
 彼らは士族という特権は得たが,長年の武士の生活から,自ら働いて生活を維持する方法を知らなかったんですね。俸禄(幕府等からの給料ですね)が廃止されたとき秩録処分で全禄公債をもらったんです。これを元手として,事業か商売を始めたが,不慣れでもうけの計算もできないばかりか,お客に頭を下げることも知らないで威張ってばかりいたので失敗して無一文となる者が多かったんですね。

 と言うことで,そのまま公務員に起用されたわけではないですよ。

この回答への補足

えーと、質問の仕方が悪かったようで…。ききたかったのは一般の武士(旗本など含む)の事ではなくてあくまで"江戸幕府の中枢で働いていた大名じゃない一般の武士"つまり江戸幕府時代の公務員のことです。これらの人材は基本的に政治や公務について知っていてるので一応即戦力になる。また、逆に志士側にはこれらの実務についていた者がいたとしても少ない。従って明治政府発足時についてのみそのまま起用した。これが真実かどうかが知りたいんです。もし、違うならその根拠とかがわかるとさらに良いのですが…。

補足日時:2005/02/17 02:21
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/19 13:53

さまざまですよ。



維新政府は人材不足でしたから、旧幕の人でも有能なら
登用されたし、、、没落する人も出たし、、

さまざまです

この回答への補足

たしかに名前までは覚えていませんが旧幕府から登用された人がいたことまでは知っています。しかし、全体的に見て何パーセントぐらいが旧幕の人材を含んでいたのか知りたいんです。わかりますでしょうか?さすがに何調べたらわかるのかも検討つかなかったのでこちちらに質問させて頂きました。

補足日時:2005/02/17 02:30
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/19 13:53

 NO.2さんの言われるように本当に様々だと思います。

基本は有能なら新政府の公務員として残るということでしょうが、新政府の主要メンバーである薩長土肥の地方でも武士の失業が起こっており、東京の高官の縁故を頼りに上京してくる者も多数いたようですし。

 また、特殊な例ですが500以上の会社を成功させ、「日本経済の父」と呼ばれた渋沢栄一のような人もいます。

 しかし、こうして江戸時代から引き続いて公務員になた人も、法律が整備され公務員試験が実施されるに従って順次交代させられていきました。但し、旧武士階級は、知識階級でもあったので、教育機関が整備されるまでの初期の頃の試験合格は、旧武士によって占められていたようです。

 ただ、警官などは地域に密着した存在ですから幕府の役人がしばらくはそのままなったのではないでしょうか。半村良氏の小説にちょんまげを付けた警官や警察署長が東京警察署と看板のかかった建物で働く本があったと思います。(記憶違いでしたらごめんなさい)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/19 13:52

徳川将軍家は明治維新により駿河70万石の大名に転落します。


その為全ての幕臣を以前の禄で養うことは出来ず、牧野が原を開墾し、お茶を作るようになります。
これが静岡茶が有名になったきっかけですが、幕臣のうち知行地のあるものは旧知行地の庄屋を頼っていったり、そういった伝もないものはこうして農業で生活の糧を得ておりました。
そもそも江戸時代の封建制は、戦国時代の員数をそのまま平和な時代に持ち越したため、本来一人でやる仕事を数人がやり、それでも人が余るということで、矛盾に満ちたものです。
維新というのはこうした矛盾を清算することも目的のひとつで、一人の人間が適正な仕事をしてそれに見合う収入が得られるようになり、職を得られた人間は豊な生活が出来るようになった反面、多くの武士が職を失い、士族という身分と秩禄処分による一時金を金禄公債証書として貰って世間に放り出された訳ですから、大変です。
静岡でお茶を作っていた旧幕臣たちも生活は苦しかったのですが、教育には比較的関心が深く、彼らの息子の代になると官吏として出仕する者も少なくなかったようです。
維新の時点でどれくらいの武士が失業したか分かりませんが、官吏となれたのは2割程度ではないでしょうか?
諸藩でも面倒見のよい殿様は開拓などの事業を起こして旧家臣を救った方もいますが、そのままという方も多かったと。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/19 13:51

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