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なぜ、清の光緒帝の近代化政策(変法運動)は、失敗に終わったのですか?

A 回答 (3件)

光緒帝の変法運動は日本の明治維新をモデルにしている。


その根本は、皇帝+議会のよる統治システムだ。帝政を維持しつつ近代化を行う洋務運動が、日清戦争の敗戦で実効性が期待できないことが明らかになったことから、光緒帝は近代化のポイントは議会制導入にあると理解したのだろう。
ただ、光緒帝が目指したのは、英国や日本型よりも、実質的に皇帝が強権を持っているドイツ型の皇帝+議会のシステムだったのではないかと思われる。
※天皇主権を憲法に明記しながら、実際には政策決定に天皇が関与しないという不思議な体制は諸外国には理解されない。

しかし、功罪は別にしても明治維新が近代化に成功したのは、徳川幕府を倒すという革命を成功させ、反対勢力を事実上無力化していたからだ。

であれば、光緒帝は、西太后などの保守勢力を一掃し、内政を安定させてから変法に着手すべきだった。
しかし、光緒帝は変法に着手し、その過程で西太后が最大の障害になることを知って西太后を排除するかのような動きをみせた。
そして老練な西太后に機先を制されて、逆にやられてしまった。そういうことだろう。

まあ、あの大きな国を変えることは、日本とは比較にならないエネルギーが必要なことだけは間違いなさそうだ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2021/08/12 21:25

中国は王朝国家です。


隋・唐・・・明・清のそれぞれの国の興りと滅亡には類似性を感じます。外圧か内圧化の違いはあると思いますが、時代の大きな変化に既存の体制が維持できなくなった時に滅び、そして混乱の時を経て変化に適応した王朝が生まれているのではないかと思います。

これから言えることは、現体制化では大きな変化に対応できないからではないかと思います。何故かと言うと、儒教の縛り、又は儒教の呪い、なのではないかと思います。

我々現代日本人は、明治維新の大転換はあたりまえで当然だと思っていますが、それは違うのではないかと思います。だから、バカな回答する連中がいるのです。我々は結果を知っていますが、それでも自分をその時代の混乱の真っただ中に置いてみろよ・・・と思います。

光緒帝の変法運動はヨーロッパの産業革命を基盤とする各種製造業の工業化と軍事力強化に対応した変化、すなわち富国強兵だと思いますが、当時の時代背景がわかる中国ドラマ「月に咲く花のごとく」の第66話 政治改革の余波にその時代の変法推進派の「若゛造」ぶりがわかります。そんな急激な変化には対応できないよな、失敗して当たり前だと思います。

そのことに気づくと、何故、日本では明治維新の改革が成功したのか?と言う疑問に突き当たります。変法よりすごいことをやっています。一例として、一夜にして太陰太陽暦から太陽暦へ変えています。その当時の混乱はものすごいだろうな?と思います。
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結局、西太后等との権力闘争に


破れたからです。

日本で言えば、薩長が幕府に
破れて、明治維新が出来なかった
ということになります。

なぜ、明治維新が成功し、変法運動は
失敗したのか。

明治維新は下級武士が興しました。
これに対し、変法運動は皇帝と一部の
インテリだけです。

地に足が着いていないので、
実力者袁世凱などに敵わなかったのでしょう。
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