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1、私自身の価値ある人生とは『多くの人々に奉仕できるように、それを追い求めつづけること』

2、私自身の楽しい人生とは『自分自身の願望を満たすために、それを追い求めつづけること』


正直に語らせて頂きます。どうか聞いてください、宜しくお願い致します。


同じように受け取られるかもしれませんが、自分の心の中では決定的に違うんです。
自分自身の心は、両方とも『価値あり』と思っています。しかし、私自身が真に価値ありと感じるのは1番なんです『楽しくないかもしれない、大変かもしれない、しかし、理想だ』と感じます。それでも、自分だけのことを考えると2だと感じます。自分の気持ちがよくわからないです・・・自分のほんとうの気持ちはどっちなんだろうと考えてしまいます。

『両方追い求めろよ』と言われるかもしれませんが、なぜか物凄く拒否反応がでて、とても出来そうにないと思ってしまうんです。

『人生は楽しむためにある』こういうことをよく聞きますので、やはり2なのか?と思ってしまう時もありますが、1では『真の充実感、いきがいを感じられるはずだ』と思ってしまいます。

どう考えればいいでしょうか?

なにか助言を宜しくお願い致します

A 回答 (28件中1~10件)

人生は100年たらず生きた後に死んで終わる1回限りの儚いもの、という考えに近い人は、


2番の方の心が大きいと思います。

人間は自己の心(魂)の進化のために、地上物質界と霊界を交互に往復して、
今は地上物質界で肉体体験学習中である、と気づきつつある人は、
1番の方の心が大きいと思います。
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2をやってみればいいんじゃないでしょうか。


自分だけのために生きても楽しいですが。

虚しくなります。

多くの人々の為になることはたぶん理想と思っているだけで、悩むのであれば自分の為に生きたいと思っていると思います。自分を捨ててもいいと思っている人はすでに行動にしているでしょう。

多くの人々の為に奉仕して自分を捨てるのは一番難しいです。

1は1+2より難しいと思います。

自分が楽しくなかったら皆を幸せになんて出来ないとも思います。

自分が楽しくするのだって立派な社会奉仕なんですよ?

いっぱい働いていっぱい所得税を納めて、いっぱいお金を使っていっぱい消費税を納めて。

ものすごい奉仕だと思いますよ。

そもそも人の価値感なんて人それぞれです。完璧に人に奉仕することなんて出来ません。

良かれと思ったことが裏目に出たりします。

1をするにしても2をするにしてもあなたは幸せでありたいんでしょ?

幸せは自由を手に入れることだと思いますよ。理想通りに出来るということです。

経済に自由で、時間に自由で、身体が自由で、愛する人や一緒に酒を飲む仲間(一緒に過ごす仲間)がいれば幸せだと僕は感じます。

仲間とつきあうには自由はなくなるだろうと思うかもしれませんが

仲間がいなければ幸せはなりたたないと思います。

1も2も両方なければ幸せはなりたたないんです。残念ながら。

でも、だからこそ追い求め続けられるのではないでしょうか。
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こんにちは


楽しい人生とはどんな人生なのでしょうか。
願望を満たすのが楽しい人生なら、それが得られなければ楽しくない人生になりますね。
それならばどんなことがあっても楽しいと言える方が特な人生なのでは?
大変なことが、楽しくないと言えるでしょうか。
今回の地震で多くの方が犠牲に遭われました。
人生は、いつ何が起こるか分からない。
生きている間をどう生きるのかが大切だということを、尊い命をかけて教えて頂いたような気がします。
pcbcさんも考えて、納得のいく答えを見つけて下さい。
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私もすごく共感しました。


真剣に生きていればみんな同じような事で悩むと思います。
私も以前悩みました。

でもふと、両方を半分半分ならどうだろう・・・?
って思ってから心が軽くなりました。

100%の力で「両方追う求める」のは私の器量では無理だと思うんです。
聖人でもないし、かといって自己中にも生きられない。

半分は自分の楽しみのために、半分は他人に奉仕するのために。
他人に奉仕する方が、充実感と喜びは大きいですが、自分のために
楽しむことも「自分の人生を生きる」意味で大きな事だと思います。

そして自分が楽しんで心が満たされれば、他人にも優しくしようと
思える気がします。

半分でなくても、その人の器の大きさやその時の環境・気持ちに
よって70%になったり、99%になったりするのではないでしょうか。

もし全ての人がおおらかに半分半分の気持ちで生きられれば、
素敵な世界になれる気がします。
なのでまずは自分から・・・と思っています。

拒否反応がでるのは、質問者さんの「願望」が「他人に害を及ぼす」
ような事なのでしょうか?
失礼ですが、ちょっとその部分が心配だったので・・・。
そうでないなら自分に正直でいいと思います。

そして他人に奉仕するのは、「多くの人々」に対してでなく
「少しの人々」でもいいと思います。
お互い頑張りましょう。
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私は今日の日記に書きました。


明日、名古屋地方裁判所民事第2(2部)破産係に
弁護士と家内の3人で、
10時30分出頭。債務者の前で一礼!
自宅と土地も銀行が担保で、
押さえられこの自宅もあと1ヶ月で…。
手続き中に親父が死んだので
自己破産申請はこれからする。 って…。
※添付画像が削除されました。
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生きていて、相手からちょっかいを出され、無性に腹が立ったことがあります。

次の日に自分が困っていると相手は助けてくれました。

前の日は、許せないぐらい怒っていた
次の日は、意外といいやつだなと思った。

自分の気持ちは常日頃変るものです。常日頃、変る気持ち持って何が最も価値があるかなんて答えは出せません。

気持ち、それは感情です。
怒りに満ちている時に、相手を思いやる気持ち何かもてません。

私自身、過去に病院に入院したことがあり、そこの看護師さん方は天使のような人たちでした。生きている人生の中でこんな人がいただろうかと思いました。仕事として頭で動くのではなく、意識として動いている気がしました。その時、1のように「多くの人々に奉仕」して生きようと思いました。

病院を退院して数ヶ月、そんな気持ちはなくなりました。日々の生活でストレスが溜まり、そんなことを思う気持ちなどありませんでした。腹が立つ奴は憎い、駄目な人間に奉仕しても駄目な人間が図にのる、そして、自分の感情次第で傷つける他人にそこまでする気など起きない。そういう風に思いました。


かつての聖人や偉人は、自分の気持ちが変らなかったのだと思います。変らないからこそ、自分の信念を貫けた、死線ギリギリでも恐れることなくやり続けたのだと思います。

普通かどうかは解りませんが、相手に優しくて他の人にも優しくしようと思う反面、攻撃されたら復讐する。そういう人間がいます。

ここからは、ちょっと宗教の話になってしまいますが、私自身、とある宗教に入っています。その宗教をし続けてまだ、未熟ですが、自分の心に1があります。2の気持ちもありますが、1を最も大切にしたいと思うようになりました。
 人に攻撃されて腹が立ちますが、争いごととはしたいくないと思うようになりました。自分が成長して何とか相手と上手くやれるようになりたいと思うようになりました。傷つけ合うよりも、相手と楽しく過ごした方が僕の中では100倍ぐらい良いですから。


人は、精神的強さがあります。人は敗色が濃くなると早々に降伏してしまう人、見込みがなければ初めから諦めてしまう人、見込みがなくても、いろいろ動き回って希望を見つけようとする人、敗色が濃くなっても、最後の最後まで勝利の策を見つけようと試みる人、
 人に脅されてパニックを起こす人、人に脅されても冷静でいられる人

聖人、偉人は、変らない気持ちを持った、それは、外の恐怖や不安に動じなく変らない気持ちを持ったらからだと思います。


私は、とある宗教の修行をしていて悟ったことがあります。
悟るとは、理解することではない。理解し、感ずることであると。

感じないことは確信しきれない。

頭で考えることが駄目なことだと思いません。ただ、日常生活の中で教えを感じることができた時、疑いが晴れ、悟ることができるのだと思います。

そして、人間は、完璧ではなく未熟であるということです。あれこれ考え、あれこれ研究し、あれこれ努力してもなかなか完璧になることができません。

完璧ではなく、未熟ということは、今だ聞かず見ず、知らずの教えあり、今だ感じずの教えをあり。
聞いた、見た、知った、でも感じない。感じないものとをどれほど説明されても信じることができるだろうか。
相手は嘘を言っているのかもしれない。故に信じることなどできない。

だが、信じて行動を起こさなければ感じることはできない。半信半疑で充分、まずは行動をすること、次に学ぶこと、そして最後に悟ること

>どう考えればいいでしょうか?
一言でいうなら、これからの人生の中に答えが隠されているかもしれません。

以上、参考になれば幸いです。
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1.が「利他」で2.が「自利」ですね。


「善いことをしたい」、「徳知(大人)を身につけたい」等はすべて「自利」から来ています。「自利」とは我欲です。程度はあれど「利他」を目指している「自利」はいまだ我欲なのです。ボランティアに携わると披ボランティアの人から無理難題をふっかけられ「自分は思いやりを持って接しいるのに判ってくれない」と披ボランティアの人をさげすむ人がいますが、これは誤りで「利他」を得たいがためにボランティア行為をしているということ、自分のためにボランティア行為の相手をしてもらっていることを理解できない、自分でそのことを認知していない偽善者な愚か者だと言うわけです。
人は「利他」に進むと自己を損耗してしまいます。生物的に相容れないものです。また、自分の欲求・願望というものが「利他」を否定します。自分の欲求・願望が「利他」に興味を持つと「利他」の否定度は下がりますが、前述の生物的に相容れないものであるためと「利他」が難解・高度であるために躊躇します。偉人の場合は「善いことをしたい」、「これは善いこと」と思ってあることをしているわけではありません。心の命ずるままに、あるいは何かを「信じて」働いています。そこに「自利」はありませんし、ある種の知恵が働きかけているので身を滅ぼす稚拙な行為や他者の奸計に振り回されることも少ないです。ただし暗殺され得ることは避けられないようです。
普通の人間はいくら善意的に考えようが、行おうが「自分勝手な生き物」です。繰り返すことになりますが、「善いことをしたい」という我欲(「自利」)が働きかけているからです。この我欲はなかなか自分から離れてはくれません。そのことは無理だと思ったほうが無難です。せっかく「自利」が「利他」に目覚めたのだからないがしろにしたくは無いとお思いでしたら、「善いことをしたい」という衝動にしたがって、よく考え、考えるだけではなく行動に移す、これを繰り返していけば「自利」が「利他」に近づきます。なぜなら行動が強力に自己を変化させるからです。しかし、「自利」が「利他」に近づくだけではやはり「自利」のままですし、反面、「自利」(我欲)を強力にしてしまう恐れも充分にあります。精神異常になる方法を教えておきましょう。それは反省しないことです。反省をしなければ精神異常に必ずなれます。
謙虚に、常に学ぶ姿勢を失わずに励んでいくことは難しい。「利他」を目指すのなら背伸びをしてはいけません。背伸びは今後の人生の破綻を呼びます。転生輪廻を信じるなら、今生は「利他」への昇華をあきらめ、学びの時と覚悟するのがいいかもしれません。転生輪廻を信じないのならあきらめることです。人生の破綻よりましですから。

あなたも偉人も「利他」と「自利」を両方、追い求めています。どちらかが多い、少ないかの違いだけだと思います。あなたの課題は、常に新鮮です。
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完全に利他的な人になるのはとても難しいことだと思います。

もっと言えばそんな人はいないのではないかと考えます。
また、「利他的に生きていくべきだ!」、と考えてばかりいる人が時々出すエゴはなぜか醜く感じてしまいます。

一方で、自己中心主義を徹底的に追求するならば、その中に「他人のために何かをしてあげたい」という欲求もあると思います。

いわゆる哲学とかで言う自己超越意識というのは人間には備わっているので、本当に他人の利にならないことのみを追求して生涯を終える人は少ないのではないのでしょうか?
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楽しい人生には価値があります。




それは、価値ある人生と言えます。
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No4と同一人物です(すみません。

IDを一度捨ててしまいました)。
お礼をきちんと書いていらっしゃるので、質問者様がどういう所で悩んでおられるのかだいぶ分かってきました。人間は動物であるけど、ただそれだけでなく理性もある。欲望と理性。善行と悪行の狭間で悩むというのは永遠のテーマだと思います。

質問者様は、欲望のために生きる事は汚い事なのではないかと言っていますが、そんな事はないと思います。他の人に迷惑をかけない範囲であれば、好きなように自分の欲を満たしていけばよいと思います。

で、やはり余程の欲深でない限りは、ある所で、自分の欲だけ満たしていても仕方がない、もっと徳の高い人間になりたい、と思い始めると思います。
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