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大伴氏は、平安時代にはなぜ謀反を起こす人が多かったのでしょうか?

A 回答 (3件)

新参者の藤原氏が政治の実権を取りつつ有って、古参の大伴氏の力が


徐々に削がれて行ったからでしょう。
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明らかに、濡れ衣です。



すべて日本書紀が伝える話なので、日本書紀を見ていきましょう。

①「4県割譲」は、継体天皇時代の西暦512年の記事。
百済へ派遣した穂積臣が帰国して百済王の割譲要請を伝え、大連大伴金村がそれを支持して決定。その決定を伝える使者とされた大連物部アラカ火が出発しようとするちょうどとき、アラカ火の妻が、過去の歴史をひもといて諌めたので、アラカ火は仮病を使って別人に代わってもらった、という話です。
その後に、次の安閑天皇になる皇太子が「聞いてなかった」とか、穂積は百済から賄賂をもらったという噂がある、という記事が続きますが、金村を批判する文はありません。

②磐井乱は15年後、継体時代の西暦527年のこと。アラカ火が戦功をあげますが、金村についての功罪記事はありません。

③金村の失脚と読める記事は、継体の後、安閑、宣化が順に即位し没したあと、欽明天皇が即位直後の西暦540年のこと。
天皇が新羅との戦争の可否について問うと、物部アラカ火が慎重論を唱え、その際に、4県割譲の結果、新羅戦は困難になったと指摘したため、金村が責任を感じて自ら蟄居した、とする記事です。天皇は金村を慰撫しています。


さて、これを冷めた目で見ると、
物部アラカ火が、20年以上も前の、自分が責任回避した難題をひきあいに、ライバル大伴金村のせいにした可能性が大だとは思いませんか?
そもそも、ヤマト王権はこの時期半島での影響力が相当減退しているので、百済の4県割譲の要望を拒否するのムリだったと考えるべきです。半島での劣勢を過去の割譲のせいにした、と読むほうが真相に近いでしょう。

この時代は、皇位継承者不在のあと、継体による王権復活の過程です。
継体後は、彼が畿内を制する前からの子である安閑・宣化、そして、大和王権血筋の姫との間に生まれた欽明、という具合に、天皇がめまぐるしく変わり、薨去や即位の年にも乱れがある謎多い時代です。
日本書紀の継体紀・欽明紀は、百済人が書いたとしか思えないような半島関連記事が大半を占める異様さです。蘇我氏の登場もこの時期で、宣化時代に突然登場した蘇我氏は、欽明以後最有力の豪族に変貌していきます。

「金村の失脚」というよりは、大伴氏が王権の変容とともに実権を失っていく過程、と考えると理解しやすくなります。
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政争に敗れたので「謀叛人」の汚名を着せられたのです。

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