1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(かむなび>かんなび)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシ(偶像?)はなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。
2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。
3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。
4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。
5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?
○ 非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》
信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観
-------------------------
考える:《思考の緑野》:理性←→オシへとしての宗教
感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ
○ 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる
・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。
A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
無梵:空(シューニャター)・ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
/ マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
霊:われ(自然本性)
G. ユダヤイズム:霊霊一如
霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
霊:われ
H. イスラーム:霊霊一如
霊:アッラーフ(イラーハ=神)
霊:われ
I. タオイズム:道人一如
道:タオ
人:われ
6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~
(――または ロゴスの階層――)
(――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)
( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )
神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)
-----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------
神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)
-------------------------
インスピレーション=ロゴス(β):異言(シャリバリ)
:中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
インスピレーション=ロゴス(γ):預言
:本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
:概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に
もとづこうとする論理
* ~~~~~~~~~~~
・ロゴス:ことば
・スピリトゥス:霊。聖霊
・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)
・異言(シャリバリ):意味の分からないことば
・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。
〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕
・ラチオ( ratio ):理性
〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕
~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7. では 日本人の信仰のかたちは?
F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
霊:われ(自然本性)
神なる霊: 大いなる《なぞ》:生命性
-----------《依り代=補助線》-----------
われの内なる霊:非思考の庭(聖なる甘え / きよらかなおそれ)
-------------------
われ(自然本性):思考の緑野 / 感性の原野
8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。
☆ 以上を問います。
A 回答 (5件)
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No.5
- 回答日時:
>内側にも外側にも あたかもつねにメールを送って来ています。
この外側からくるメールとはいったい何のことを言っておられるのでしょうか?
外側と言うのは経験世界であり、さらにその外側についてはあるとかないとか言うことが出来ません。その、いわば外側の外側が、外側へのアプローチで明らかになると言う事は有り得るのでしょうか?そのような所からメールが来ると言うのは、かなり謎です。
☆☆ >内側にも外側にも あたかもつねにメールを送って来ています。
★ この外側からくるメールとはいったい何のことを言っておられるのでしょうか?
☆ まづこの話は 神とわれとのカカハリについてのタトヘとしての事例です。また いろんなあり方があり得るその一つのイメージです。
内側に贈られるメールは いわゆる直観ヒラメキです。インスピレーションです。
外側から来るメールとは 世界のあらゆるものごとや出来事をとおして わが主観に得られるやはりヒラメキです。
★ 外側と言うのは経験世界であり、さらにその外側についてはあるとかないとか言うことが出来ません。
☆ そうだと思います。
また 外側には 他者のことが入っています。あるいは要するに 人間関係です。
★ その、いわば外側の外側が、外側へのアプローチで明らかになると言う事は有り得るのでしょうか? そのような所からメールが来ると言うのは、かなり謎です。
☆ 外側は 経験世界です。が ただし 無限――可能無限――かも分かりません。
円周率は 少数点以下が限りなく数値として続きます。でも 全体としては 3と4とのあいだの数としておさまります。つまり 有限のあたいです。
こういう場合 有限・相対性の枠内での可能無限と言うようです。
メールが来るのは あくまで神からです。非経験の場ないしチカラからです。
☆ 相対性〔なる経験世界またはわれわれ人間〕が 絶対性に接しふくみ包まれると ショート回路のような発熱を起こすかもしれません。(よいタトヘでないかも分かりませんが)。
そのように 読み解くのがたいへんですが ヒラメキがメールのようにして送られて来ているかもと。
そして今あらたに言おうとしたことは 絶対性は 神として有る場合の《絶対有》だけではなく 神はない(《無い神が有る》)場合の《絶対無》としても考えられます。
経験世界の《有るか無いかや 原因と結果の関係》を超えているからには 《有る神》と《無い神》というふうに人間が忖度した表現物は 神にあって互いに同等です。
そういう意味での有神論(仏仏一如)と無神論(空と無我との一如)とは 互いにまったく同じことを表わします。
両者をつねに含む神という意味でそれは 《普遍神》と言います。普遍神は人には《有る神と無い神との重ね合わせの姿》です。
No.4
- 回答日時:
>☆ その《外側》は なお説明が必要かと思います。
外側に全一なるもの、神を観測することは難しいと思います。観測対象が全一性を持っていると、観測者との境界がなくなってしまいます。現代の観測行為が則る原理では、そこに観測する者と観測される者の二者が必ずあるでしょうから、その原理上では神を観測することは出来ないと思います。
それで、神を知るには観主体の内側を通じてしかありえないとなるのですが、内側を通じて知り得た神は共有することも又不可能です。
人が、自らの内側を通じて神を知り得た状態で、外なる世界の実在を確かめた時に、何か良い状態になるのではないか?という予想をしております。
外なる世界と言うのは、便宜的に言うところの、”被造物の世界”です。
つまり、仮に被造物の世界が生じた後に、神は隠れた、と言うことが出来ると思います。どこに隠れたのか?被造物の中、内側に隠れたのです。
>☆☆ その《外側》は なお説明が必要かと思います。
★ 外側に全一なるもの、神を観測することは難しいと思います。
☆ おそらく。
つまり 要は 外側とは 経験世界なのか それとも非経験の場ないしチカラなのかだと思います。
★ 観測対象が全一性を持っていると、観測者との境界がなくなってしまいます。
☆ 人知を超えた場としての全一性であるなら その場ないしチカラが――要するに神が―― 観測者たち人間を おおい包んでいるはずです。
絶対者の遍在とは そういうことになります。
人知としての内的全一性が 神の全一性を凌駕するわけには行きません。ぎゃくです。
★ 現代の観測行為が則る原理では、そこに観測する者と観測される者の二者が必ずあるでしょうから、その原理上では神を観測することは出来ないと思います。
☆ 人間と神とは 同じ次元にあるとは言えません。
★ それで、神を知るには観主体の内側を通じてしかありえないとなるのですが、内側を通じて知り得た神は共有することも又不可能です。
☆ 人知では無理でしょう。
ただし 絶対者の側からその霊性をつうじて 人びとが互いにその神観の基礎としては(中核としては) 共通であるという《非思考の庭(信仰の動態)》をあたえることは出来るかも。
★ 人が、自らの内側を通じて神を知り得た状態で、外なる世界の実在を確かめた時に、何か良い状態になるのではないか?という予想をしております。
☆ 信仰をあたえられこれを受け容れたなら その霊性としては人びとは互いに共通の基礎が出来たと ときには 感じるかも知れない。
《非思考の庭》としてはです。しかも《思考の緑野や感性の原野》では むつかしい。
神 神
↓ ↓ ・・・タ
↓ ↓ ・・・テ :非思考の庭
人――人――人・・・・ヨコの関係:思考の緑野・感性の原野
★ 外なる世界と言うのは、便宜的に言うところの、”被造物の世界”です。
☆ なら 経験世界です。神ではありません。
★ つまり、仮に被造物の世界が生じた後に、神は隠れた、と言うことが出来ると思います。どこに隠れたのか?被造物の中、内側に隠れたのです。
☆ もともと 非経験の場ないしチカラとして 経験世界を超えたところにあります。
内側にも外側にも あたかもつねにメールを送って来ています。
No.3
- 回答日時:
>☆ 私見では 神の全一性がわが内的全一性をおおいつつむ です。
絶対性と相対性とのカカハリですから。私の感じですと、内的全一性が、神の全一性に通じている、と言うような感じです。それはともあれ、神の全一性が内や外を超えているというのは、
つまり、内側から出発して、内外を超えると言うアプローチになると思います。
外側から出発して、所謂、現実感の元に、実在感や世界との一体感を持っているという状態がある。
相対性が認められるとき、そこには神の不在や現実感の無さ、或いは内側と外側の存在が認められる。
絶対性が認められるとき、そこには神の存在が認められる。
また、絶対性ではないが、現実感や実在感と言った世界との一体感が認められる場合、所謂普通の状態がある。
私の試みとしましては、神(全一なるもの)の存在を内的に知りつつ、外側において世界との一体感を獲得した時、何か良い状態になるのではないかと思っています。
>☆☆ 私見では 神の全一性がわが内的全一性をおおいつつむ です。絶対性と相対性とのカカハリですから。
★ 私の感じですと、内的全一性が、神の全一性に通じている、と言うような感じです。
☆ 人間から見た感じでしょうか。
★ それはともあれ、神の全一性が内や外を超えているというのは、
つまり、内側から出発して、内外を超えると言うアプローチになると思います。
外側から出発して、所謂、現実感の元に、実在感や世界との一体感を持っているという状態がある。
☆ 一つには 《われなる存在》が 内ですね。もう一つには 《世界ないし宇宙にいるわれ》が 内です。
宇宙の外は よく分からないですが その境界は なおまだ経験世界ですから おそらく〔外とは〕その延長でしょう。
つまり 《内と外なる世界》とは 経験世界であり 神はむろんこれを超えています。
★ 相対性が認められるとき、そこには神の不在や現実感の無さ、或いは内側と外側の存在が認められる。
☆ 人間ないし経験世界 ・・・ 神
---------------------
相対性 絶対性
自然・経験 超自然・超経験(⇒非経験)
可知(既知・未知)・不可知 非知
有限 無限
内と外 超越世界
有ると無い 有無を超えている
因果関係 因果律から自由な場ないしチカラ
善と悪 善悪の彼岸;至高の善
愛憎 愛憎を超えた愛
★ 絶対性が認められるとき、そこには神の存在が認められる。
★ また、絶対性ではないが、現実感や実在感と言った世界との一体感が認められる場合、所謂普通の状態がある。
★ 私の試みとしましては、神(全一なるもの)の存在を内的に知りつつ、外側において世界との一体感を獲得した時、何か良い状態になるのではないかと思っています。
☆ その《外側》は なお説明が必要かと思います。
神とわれとのカカハリについてのイメージいろいろ
・ 神がわれをおおいつつむ
・ 神の指がわが手の指にまさに触れなんとしている
・ 神の霊性がニュートリノのごとくわれに降り注いでいる
・ 神は世の中の出来事をとおしていつもメールを送って来る
・・・
No.2
- 回答日時:
解釈してくださりありがとうございます。
>われわれ人間は 言わば神の生命性を《分有》している〔のみ〕と。
そもそも、全一に対して個たる”私”は、全一を識知、ないし意識するときは、内的全一性、すなわち分有された神の生命性を通してでしか知ることが出来ません。実は、例えば視覚や触覚などを通して見る外なる世界、星々と大地、人々からなる世界に神の全一性、存在を覚知することは出来ません。しかしながら、一体感、世界との一体感は感じることが出来る。そこには名詞としての神や、その特質である全一性なる言語化された感覚は出てこないのですが、一体感はある。これを身体感覚的一体感と仮に呼称しましょう。
その身体感覚的一体感を、我と世界の均しい状態というならば、所謂、現在におけるこの普通一般の感覚は、内的全一性を通して感覚する神の全一性(啓示や神秘体験、ある種の悟り)と、外側・内側の関係にあると思います。
この、知らない故に限界をはかり知ることが出来ない外なる世界における身体としての我と、知る事ゆえに無限界であることが知られる内なる世界におけるアートマン。
梵我一如と言うところは、上述の内なる世界の話であると私は受け取ったのですが如何でしょうか。
そして、本当の和解とは、梵我の和解でもなく、私(身体)と世界の均しい事でもなく、この、内と外の和解ではないのか?
と、思ったのですが如何でしょうか。
☆☆ >われわれ人間は 言わば神の生命性を《分有》している〔のみ〕と。
☆ この《分有》という概念 これもけっこう説明がむつかしいのではあるのですが。
★ そもそも、全一に対して個たる”私”は、全一を識知、ないし意識するときは、内的全一性、すなわち分有された神の生命性を通してでしか知ることが出来ません。
☆ そのとおりに捉えています。
人間たるわれは その内的全一性の中に捉えた世界について――直観ヒラメキをとおしてヒントを得つつ――知性にて認識します。
知性認識――科学・思想――は いかんせん内的全一性と言えども 限りある相対的な内容です。
★ 実は、例えば視覚や触覚などを通して見る外なる世界、星々と大地、人々からなる世界に神の全一性、存在を覚知することは出来ません。
☆ ざんねんながら そうなはずです。
★ しかしながら、一体感、世界との一体感は感じることが出来る。
☆ ええ。主観真実です。
主観真実としての神観と呼んでいます。
特殊絶対性とも言いかえていますし またこの神観をそれなりに体系化した場合は 神学となります。
(哲学が神について思索するのは 神論です。つまり 形而上学です)。
★ そこには名詞としての神や、その特質である全一性なる言語化された感覚は出てこないのですが、一体感はある。これを身体感覚的一体感と仮に呼称しましょう。
☆ はい。感性の原野をも通じての神観です。
★ その身体感覚的一体感を、我と世界の均しい状態というならば、所謂、現在におけるこの普通一般の感覚は、内的全一性を通して感覚する神の全一性(啓示や神秘体験、ある種の悟り)と、外側・内側の関係にあると思います。
☆ 私見では 神の全一性がわが内的全一性をおおいつつむ です。絶対性と相対性とのカカハリですから。
《内と外》は まだ相対性の次元だと思います。《内と外なる世界を超えている》のが 神体験であると。
★ この、知らない故に限界をはかり知ることが出来ない外なる世界における身体としての我と、知る事ゆえに無限界であることが知られる内なる世界におけるアートマン。
☆ 感覚としてありえますが いかんせん そこまでだとは思います。
つづく
No.1
- 回答日時:
別質問のお礼に参りました^_^
ピンポン調に何回も解答はできないかもしれませんが、よろしくお願いします。
ちとタイトルの、日本固有の話というわけでは無いのですが。
神が全一であるというのは良いのですが、ここで少しだけ難しいことを述べたいと思います。
神は、一致 とも言えるのではないでしょうか。
例を抜き出すと、
アートマンとブラフマンは一致している。
この時、アートマンを自己主体とすれば、ブラフマンは何か?これは神のことであるから全一である。
自己主体と全一とが一致すると言うことは、自己主体の内的全一が意識されるということであり、内的全一とブラフマンと言う全一が均しくなる故、自己と世界との和解が成る。
ちょっとじゃないですね、めちゃめちゃ分かりにくい言い回しになってしまった。
実在感のある時、自分と世界は一致している。
ブラジュロンさん風に言うと、和解している。
自分と世界が均しい時、実在感がある。
全一なるものは買うであるが、ここに自己と世界の二者がある故に、現像する。
うーん、まだ全然ダメですね、表現出来ません。
物思いと現実の境目を語るのは難しい。
ご回答をありがとうございます。
そちらのご質問は つらつら考えるに むつかしい。《ユニークさ》を理論化するのは とても難しい。――という中間報告です。
さて:
★ 神が全一であるというのは良いのですが、ここで少しだけ難しいことを述べたいと思います。
☆ はい。
★ 神は、一致 とも言えるのではないでしょうか。
☆ ん?
★ 例を抜き出すと、
アートマンとブラフマンは一致している。
☆ あぁ。それは 《一如》のことですね。そして 《神と 人なるわれとのカカハリは 霊性(生命性)をつうじて 言わば一体である》といった意味の《一致》ですね。
★ この時、アートマンを自己主体とすれば、ブラフマンは何か?これは神のことであるから全一である。
☆ アートマンは――ブッダター(仏性)と同じだと見ているのですが―― 思考や感性を超えているからには 言ってみれば《自己主体を超えた自己主体》でしょうか。
★ 自己主体と全一とが一致すると言うことは、自己主体の内的全一が意識されるということであり、内的全一とブラフマンと言う全一が均しくなる故、自己と世界との和解が成る。
☆ ふむ。げんみつに行かねばなりませんね。
神の全一性=(霊性)=超自己主体
------------↓-------------
自己主体=(思考・感性)=世界
↓
《内的全一性》
☆ といった感じでしょうか。
つまり:
★ 自己と世界との和解が成る。
☆ のは 経験相対的で有限の《わたし(自己主体)》においてであって・しかもそれは 《アートマン(超自己主体)》のハタラキによっていると思われるけれど 《神の全一性》そのものとして――人間のわれに――実現するわけではない。
われわれ人間は 言わば神の生命性を《分有》している〔のみ〕と。
どうでしょうか?
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№2お礼欄つづき
★ 梵我一如と言うところは、上述の内なる世界の話であると私は受け取ったのですが如何でしょうか。
☆ つまり《非思考の庭(超自己主体)》においてそう成っているというのが 私見です。
自己主体(自然本性)プラス α として――つまり仏性が宿るとも言うようにして・さらにまた《良心》がそうだと思われるようにして――成り立ち はたらいてくれている。良心は われわれにヤマシサ反応を起こさせます。
★ そして、本当の和解とは、梵我の和解でもなく、私(身体)と世界の均しい事でもなく、この、内と外の和解ではないのか?
☆ 神(生命性)におおい包まれた(または わが心の窓をノックするものが現われた)とき これを無条件で無根拠にてわが心に受け容れる――これが 信じるです―― その状態を〔和解なら和解と〕言うと思うのですが その内実は なかなか言葉では表現しがたいものと思っています。
よかったら 参照してください。いづれか一つくらいで。
【Q:神は 有ると無いとの重ね合わせ状態で 人間にあらわれる】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12874677.html
【Q:神すなわち普遍神は《〈有る神〉と〈無い神〉との重ね合わせの姿》だという命題への批判をつのります】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13078103.html
他の方の疑問質問です。
【Q:有るものと無いものとの重ね合わせは、どのような現象が現れるのですか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12876589.html
【Q:哲学における「重ねあわせ」とは何か、例を挙げて説明してください。】
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