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後鳥羽上皇は、なぜ鎌倉との戦争に勝てると思い込んでしまったのですか?誰か上皇の暴走を止めれる人は、朝廷にはいなかったのですか?

A 回答 (6件)

結果を知っている後世の人間からすれば「なんで負けるのに」と思いますが、当時はまだまだ朝廷の権威と威光は絶対的なものでしたから。


上級武士は都の下級貴族で、地方武士はさらにその下の国府に勤務する現地採用の役人です。
今だって、国が定めた法律を、地方自治体が拒絶するなんて考えられないでしょう?当時もそんな認識だったんですよ。
実際に、御家人も含む畿内の武士は朝廷にも仕えているのがほとんどですし、御家人を含む地方の武士でも有力な武士は皇族や有力貴族と主従関係を結んでいる者がほとんど。
さらに鎌倉は、実朝が横死し、幼児の三寅が後継となったばかりで動揺がかなり激しい時期でした。だから後鳥羽は幕府そのものではなく義時個人の追討令を出して、御家人たちも乗りやすいようにしたのです。
この時点で、後鳥羽がすぐに追討軍を鎌倉に派遣していれば、軍勢は膨れ上がって勝っていたと思われます。
勝利を確信していた後鳥羽が軍事行動に出るのがあまりにも遅かったので、各地で宮方が終結できないうちに各個撃破され、機を見るに敏な武士たちは次々に幕府方に付いてしまったのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/12/16 17:56

土御門上皇は後鳥羽と順徳を止めたが、2人は聴かずに強引強行。



負けた後配流を幕府はためらうが、両天皇流されれば、自分(土御門)も志願して阿波に行く。

後鳥羽は過去に朝廷が院宣で勝てる例あったので、今度もいけると思い込んで実行。でも見通し甘く敗れる。
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暴走か暴走ではないのか、と言うことよりも、「尊成(たかひら・たかなり)=後鳥羽上皇」は、他人の意見に耳を貸して、自分の思考を考え直すような習慣をもっていないでしょう。


どのようなことに対しても、自分の考えを推し進めることしか考えないし、それに抵抗するものは排除してきた人です。
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鎌倉幕府の支配領域は、坂東の地が主で、平家の跡地の薩摩を貰った


島津くらいで、西国には、及んでは居ません。
朝廷と戦えば、朝敵の逆賊になりますから、勝てると思うでしょう。
暴走とは言えないでしょう。

領地の経営を任された、旨味を知った坂東武者は、一丸となるし、
領地の経営の話を聞いた、西国の武将が、公家から武家の支配へとの、
世の流れを察知すれば、鎌倉に付くのは、成り行きでしょう。

かくして、僅かな手勢で鎌倉を出発した、北条泰時が甲斐に着いた
時は3万になり、瀬田の大橋で朝廷軍と対峙した時は、19万人以上の
大軍勢になっていて勝負有です。
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当時の日本の情勢、天皇の権威と権力の強さから見れば「勝ててもおかしくなかった」からです。



後鳥羽上皇と幕府の戦争になった承久の乱は1221年、その後後醍醐天皇は1333年に建武の新政という天皇親政を実現しています。

もし後鳥羽上皇自身が戦争に出て指揮を執り、従った武家などにちゃんとした利益を約束していれば、東国と西国が分断する可能性はあったにせよ、幕府に勝てる可能性は十分にあった、といえます。

>誰か上皇の暴走を止めれる人は、朝廷にはいなかったのですか?

当時の朝廷のほとんどの人たちが「幕府よりも朝廷の方が上」と思っていましたから「軍事的に負ける可能性があり、そうなると日本国が分断するからやめたほうがいい」という人は居たかもしれませんが、同じぐらい「幕府に勝てる」と思っていた人も多かったはずです。
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自分の権威に従う武士が多いと信じて疑わなかった。


現実に京に居た鎌倉幕府の御家人の中には後鳥羽上皇に従ったは者はいた。坂東武者たちにも正式な将軍不在の中では、上皇の命令に従わざるを得ないという考えも根強く、混乱していた。

後に、京に反逆の大軍を率いることになった北条泰時が、父義時に〈上皇自ら出陣してきたらどうするのか?〉と聞いたとき、義時は、即座に降伏しろと言っている。
現代的感覚では冗談にしか聞こえないが、おそらく、当時の日本人は冗談でなく、天皇は神聖にして侵すべからずというという存在だったのだろう。

失敗の原因は、後白河法皇時代に、源義経追討を名目にした鎌倉幕府の守護地頭を全国的に配置することを許してしまったことが背景にある。
そして、畿内や西国の武士たちが迷っているうちに、坂東武者たちが迅速に結束して京に攻め上ってきたことで、瞬く間に大勢が決してしまった。

上皇は、結局出陣しなかった。上皇が出陣したらどうなっていたか非常に興味深い。

しかし、義時は、血を忌み嫌う皇族・貴族が戦いの場に出ることはないと確信していたのだろう。
だから、義時は、クソ真面目な泰時に、上皇が戦いの場に出て来たら、降伏しろと言えたのではないかと思う。
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