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千利休は切腹を命ぜられました。

彼は、いつ武士になったのですか?

A 回答 (5件)

切腹が武士に対する刑罰として定着したのは江戸時代になってしばらくしてからのことで、それ以前は刑罰としての切腹は基本的には存在しません。

江戸時代の初め頃でも、まだ切腹は武士への刑罰として定着していません。例えば幕府の勘定奉行や老中を務めた大久保長安が亡くなった後に生前の不正蓄財が発覚して、家督を継いだ息子を初めとする一族郎党はその責めを負うことになりますが、切腹ではなく「御成敗」つまり斬罪にされています。

切腹は鎌倉時代に東国武士の間で発祥したようですが、同じ時代の西国武士たちの間にはなかった習慣で、平家の武将たちにしても壇ノ浦で身投げしていて、切腹などしていません。室町時代に入っても、武士への処罰は斬罪が基本であって、切腹を命じることなどありませんでした。それは当然の話で、主君が家来に切腹しろと命令しても、家臣が素直に言うことを聞くとは限らず、謀反を起こしたりする危険があったからです。ですから室町幕府の将軍が家来を処罰したい時には、たいてい謀殺しています。足利義教は守護に任じられた武将を次々と謀殺していましたが、赤松満祐を謀殺しようとしたときに逆に先手をとられて殺害されています。やがて下克上の時代に突入しますが、そういう時代には切腹刑を定着させることなど不可能だったのです。

江戸時代になってから切腹が武士にのみ許される刑罰となっていますが、なぜ武士にだけ許されるようになったかというと、武士は支配階級として、きちんと儒教道徳が身についていて、自分の出所進退を自分で決めることができる尊い存在であることが社会的に合意されていたからです。武士が不始末を犯した場合には、自ら腹を切って死ぬだけの倫理観があることが常識となって初めて切腹刑が成り立つのです。
一方、百姓や町人は、そういう道徳が身についていない哀れな被支配階級という観念が強くあったため、もしも百姓町人が悪いことをしても、彼らは善悪を弁えていないので、支配階級である武士、お上がその者を捕まえて「悪いことをしたのだ」と説諭して、首を切ってやらないといけない、自分で自分を処する能力がない存在だと思われていたのです。

戦国時代は、まだ下克上の時代の延長線上であって、信長が死んだ後に秀吉が政権を事実上簒奪しているわけですから、武士だからと言って道徳を守って主君の言うことを必ず守るという保証などありません。ですから、その時代に武士でもない利休が切腹を命じられたのは、自分の出所進退を自分で決めることができる高い道徳性・精神性を持っていると見なされたからです。
茶道によって多くの大名から慕われていた利休は、それだけの倫理観・道徳観を持っていると見なされたので、切腹刑を命じられたと言えます。同じ頃に秀吉の命によって京都所司代の前田玄以に捕らえられた盗賊の石川五右衛門は、そういう道徳とは無縁の存在と見なされたため、釜茹での刑に処されています。秀吉が利休に切腹を命じたのは、憎らしいとは思っていても、あくまで利休の精神性と道徳性を認めていたということでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
日本特有といわれている切腹には、歴史的な経緯があるのですね。
<その時代に武士でもない利休が切腹を命じられたのは、自分の出所進退を自分で決めることができる高い道徳性・精神性を持っていると見なされたからです。>ですね。

お礼日時:2023/06/30 12:24

商人ですが茶室を作ったのが原因でしょう。



茶室は密室で情報集めや、密談が出来るので戦略室の様相が出てきたからでしょう、お茶会と称して広く情報が集まるようになったので、かなりの戦略家になっていたはずです、徳川家康も特定の人を集めて密談をしているはずです。

茶室の中は流派といて特定のルールで動きますから、密談にはとても良いところです、そうすれば千利休もかなりの情報を持った戦略家だから秀吉も恐れたのでしょう。
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この回答へのお礼

何時、彼は武士に(武士待遇に)なったのでしょうか

お礼日時:2023/06/29 16:28

武士ではなく、茶人のまま。


茶人でも切腹を命ぜられたという。
ただ、実は作り話でその後も存命説もあるが、真偽は未詳。
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この回答へのお礼

何時、武士待遇になったのか?

お礼日時:2023/06/29 16:29

なっていません。



商人なのに切腹を命じられたのです。
茶人かつ戦争商人として武士とのかかわりが深かったので、切腹だったのでしょう。
死罪と断じた秀吉も磔や斬首は忍びなく、あえて武士扱いして切腹にしたのだと思います。

もし、斬首だったら茶人仲間の武士の強い反発を喰らったかもしれず、秀吉はそれを怖れた可能性もあります。
だから、「茶人なのに切腹」です。
当時としては「切腹」は名誉です。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<死罪と断じた秀吉も磔や斬首は忍びなく、あえて武士扱いして切腹>ですね。
秀吉も苦肉の策なのでしょうね。

お礼日時:2023/06/29 14:06

武士ではなく商人ですね。



だけど茶の湯を通じて、各大名に影響を与えるようになっていき、豊臣秀吉には邪魔な存在になった、と言うことだと思います。

切腹は武士だけのものでしたが、死の方法を士農工商の一番上の武士と同じ方法を命じることで、秀吉なりの千利休への敬意を表したのではないでしょうか。

邪魔ではあるけど、他の大名達への影響を考えると、切腹以外の方法は考えられなかったのだと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<秀吉なりの千利休への敬意を表した>のですね。
<切腹以外の方法は考えられなかった>のですね。

お礼日時:2023/06/29 14:08

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