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あんな土人生活で満足してた時代が1万年も続いたなんて、恥ずかしすぎるわ。
その頃ヨーロッパや中国大陸では、革新的な文明や都市国家が成立、成熟していったというのに…

A 回答 (5件)

まぁ縄文時代といっても、より栄えていたらしい東北あたりというのは、後の蝦夷や津軽、今のアイヌの人々の先祖様であって、ヤマト民族の先

祖様は西のほうで原始人生活を送っていたことでしょうw
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日本の縄文土器の最も古いものは約1万6千年前、世界最古級です。

つまり、当時の日本列島は最先端地域だったということです。

ヨーロッパについては、現代の私達が「進んだヨーロッパ」とみなしている地域は、昔は辺境だったのです。文明は中東あたりで起こったのがだんだん北上していったのです。あれだけの広さをひとつながりとみなす解像度で語っちゃうなら、日本列島も中国の一部になってしまいます。
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中国大陸はともかく、欧州の事は認識が違いますね。


多分、地中海を中心としたオリエントと勘違いしてるのでしょう。

ジュリアス・シーザがガリア(今のフランス)征服に向かったのは、
紀元前50年頃です、その頃の欧州は欧州の森に住む、未開な野蛮人です。
鉄が伝わって鉄器製品が出来るまで世界中、似たり寄ったりの生活です。
その中で日本は山や海の幸に恵まれて、食生活は豊でした。
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それでは革新的なミケーネ文明は、どうしてたった数百年で滅亡してしまったのだろう。

私は縄文時代が1万年も続いたのは世界史に類例がない幸福な時代だったと考えているのだけど。

(70) 突如消滅した古代文明!ミケーネ文明が滅びた理由と歴史について解説!【ゆっくり解説】【世界史】 - YouTube
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縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡が青森県の「三内丸山遺跡」です。

直径約1メートルの栗の柱が6本、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることである。これはその当時既に測量の技術が存在していたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術を持っていたことを示すものである。特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されているので、「縄文尺」とも言うべき長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられる。
 長さ32メートル、幅10メートルもの大型竪穴建物跡も発見されており、大型竪穴建物が10棟以上、約780軒にもおよぶ建物跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されています。
 遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かった。多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる。
 翡翠や日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85 …
https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/636561.html
 縄文時代には、既に定住して巨大な建物を造り、植物を栽培して食べていたのです。
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