こんにちは。
私は趣味で小説を書いているのですが、ふと気になったので質問させてください。

帝と東宮を除く皇子・皇女はどこで暮らしているのでしょうか?
中務卿宮など役職を与えられている方は自分の邸で暮らしていると思うのですが、それ以外の方はどこで暮らしているのでしょうか?

漠然とした質問ですが、よろしくお願いします。
また宮中についての詳しいサイトがありましたら教えてください。

A 回答 (3件)

例えば


醍醐天皇皇女勤子・雅子両内親王は実母源周子の邸宅西宮に兄弟の源高明とともにすみ、夫の藤原師輔をむかえています。
一方同じ醍醐天皇皇女で皇后穏子の娘であった康子内親王は母后とともに梨壺にすみ、両親崩御後も弟の村上天皇の時代にもそのまますみ続け師輔を迎えています。
 
穏子は村上天皇の実母としてかなりの勢力を持っており、その穏子の唯一の娘として内裏内に住み続けていたと思います。また、穏子崩御後も一品宮・准三宮として後宮の主としていたので例外なのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
あまり例がないにせよ、皇女がいわゆる後宮で暮らすということはありえるのですね。
とても参考になりました。
また具体的に人名を挙げていただいたおかげで文献を調べるのに役に立ちました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/16 21:28

親王、内親王の待遇についてはさまざまなのですが、例えば皇女などは斎院・斎宮などに任命されることが多いので、賀茂や伊勢に赴いて潔斎し神に仕えることとなります。

また法親王はその名のとおり出家した親王であるので、寺院で過ごすこととなります。

資料を見ていると、やはり多くは母の里第で生活することが多いようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
斎宮や法親王は私も文献で読んだことがあります。
親王(内親王)宣下を受けただけの方はやはり母親の実家で暮らすみたいですね。
もっとも、そのような方は珍しいようですが…。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/17 17:18

年齢にもよるのでは?成人前は宮中、母親の元で養育される。


成人後は臣籍に下されるか(源氏とか)あるいは宮家として一家を構えるか。ただしこの場合もそのまま何代か経つとやはり源氏とか平氏とかになったりします。当然ながら成人後に宮中で暮らすのは天皇本人と東宮、それにその家族ぐらいではないでしょうか。あとは邸を与えられるんだと思います。源氏物語あたりからの憶測で史料を確かめてませんので自身は全くありませんが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
皇子(男宮)が元服前に後見人のもとで暮らす、または宮中の母親のもとで暮らすというのは聞いたことがあります。
ただ皇女(女宮)についての記述があまりなく…私の探し方が悪いだけなのでしょうが、裳着後はどこで暮らしているのかが分からなくて…。
先帝の皇女とかだと母親と一緒に内裏の外の邸で暮らしていると思うのですが、今上帝の皇女の場合はどうなるのでしょうか?
物語などを読んでいても登場するのは先帝の皇女だったり、今上帝の皇女であっても裳着と同時に降嫁だったりというストーリーが多いので、降嫁しない場合の皇女の暮らす場所というのが分からないんです。
お礼なのにお礼らしくなくて申し訳ありませんが、もしよければ回答を寄せていただければと思います。

お礼日時:2005/04/16 18:08

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Q江戸時代のギャル文化、平安時代のギャル文化

江戸時代と平安時代のギャル文化についてお尋ねします。
江戸時代や平安時代のギャルはどういった身なりでどういった言葉を話していたのでしょうか?
憶測ではなく、現在確認されている史実をもとに回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

江戸でしたら杉浦日向子さんの本が良いのではないでしょうか。
江戸自体というか、江戸の女子の話が主かもしれません。
田舎とは当然違いますし、上方も文化が違うかもしれないので。

ちらっとしか読んでいないのですが、たとえば。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%8F%E3%80%81%E3%82%84%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%8F%E3%80%81%E3%81%8A%E3%82%8D%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8A%E2%80%95%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%83%9A%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%80%8D-%E6%9D%89%E6%B5%A6-%E6%97%A5%E5%90%91%E5%AD%90/dp/4480816496/ref=sr_1_5?ie=UTF8&s=books&qid=1261958975&sr=1-5

江戸でしたら杉浦日向子さんの本が良いのではないでしょうか。
江戸自体というか、江戸の女子の話が主かもしれません。
田舎とは当然違いますし、上方も文化が違うかもしれないので。

ちらっとしか読んでいないのですが、たとえば。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%8F%E3%80%81%E3%82%84%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%8F%E3%80%81%E3%81%8A%E3%82%8D%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8A%E2%80%95%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%83%9A%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%80...続きを読む

Q大友皇子 十市皇女

の関係って、政略結婚のみだったんでしょうか?
武市皇子とは、大友皇子が生きている時から?
壬申の乱で、フナのお腹に密書を詰めた?
この ことについてどう思いますか?
教えて下さい。
また、考えるきっかけになった本等 ありましたら
教えて下さい(^0^)
因みに 大友皇子のこと好きですか?
好き・嫌いの理由も教えて もらえると嬉しいです♪
よろしくお願いします!!

Aベストアンサー

こんにちは。
歴史小説好きからの意見として書かしてもらいますね。

>大友皇子 十市皇女の関係って、政略結婚のみだったんでしょうか?
どうでしょうねえ。そんな大昔のこと、事実を知るのは難しいですけど、小説を読む限りだと政略結婚だったのではないか、と思います。
壬申の乱で十市皇女は父の大海人皇子に味方しているようですし(母の額田王の影響もあったと思いますが)。
あまり愛情があったという感じは受けませんでした。

>武市皇子とは、大友皇子が生きている時から?
昔「天上の虹」だったか(題名はうろ覚えなのでわかりませんが)里中満知子先生の漫画で3人の三角関係が描かれていましたね。
ただ、小説を読む限りでは三角関係を書いたものにまだ出会えていません。
大友皇子が亡くなってからはとても親しくしていたというのは読んだことはあります。

>壬申の乱で、フナのお腹に密書を詰めた?
この ことについてどう思いますか?
どうでしょう?(笑)
実際にやったことないし、出来ることなのかぜんぜんわからないです。

読んだ本は黒岩重吾さんのものが多いです。
「茜に燃ゆ」上下巻 中公文庫
「天の川の太陽」上下巻 中公文庫

>因みに 大友皇子のこと好きですか?
私はあまり好きじゃないかな。
本ではどうしても悪役なんですよね。
母が采女だったということで身分の低さを恥じるように一生懸命背伸びをしているようで。
人柄は悪くなさそうですけど。

他の方の回答、楽しみにしてます。

こんにちは。
歴史小説好きからの意見として書かしてもらいますね。

>大友皇子 十市皇女の関係って、政略結婚のみだったんでしょうか?
どうでしょうねえ。そんな大昔のこと、事実を知るのは難しいですけど、小説を読む限りだと政略結婚だったのではないか、と思います。
壬申の乱で十市皇女は父の大海人皇子に味方しているようですし(母の額田王の影響もあったと思いますが)。
あまり愛情があったという感じは受けませんでした。

>武市皇子とは、大友皇子が生きている時から?
昔「天上の虹」だ...続きを読む

Q平安時代の色について

平安時代の色について
平安時代、襲ね色目(かさねいろめ)が
生まれるぐらい染めの技術は
たかかったのですか?

Aベストアンサー

はい、相当高い技術があったと類推されています。私の手元に平安時代の古代法典『延喜式』(平安初期記述)に記載されている「紙の染色」について解説したものがあります。長くなりますが、転記します。
参考にして下さい。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
 染料は次の7種類で,染料の量,紙の枚数,前処理などを規定している.

(1)ベニバナ(紅花(くれない)).量は4大斤と書かれているので,2,400g.原紙200枚(1,800g)で,予めクチナシ(「支子」,普通「梔子」,「巵子」と書く)(600g)で下染めする.この場合,実を用い,無媒染では赤味のある黄色である.

(2)キハダ(黄檗).200枚の紙の染色用として1,800g, 藍の下染として1,200gで,総計3,000gである.

(3)クチナシ.紙200枚の染色用として3斗=25.5L.煮出しただけで奇麗な黄色が出る.

(4)浅(あさ)葡萄(えびの)汁.紙280.5枚の染色用として8.5L.紫黒色の実を利用して,椿の灰による媒染で酢によりpHを制御し,色を調整した.葡萄(えび)染(そめ)と呼称されている.椿灰は山灰ともいい,アルミイオンが多い.特に8-9月.そこで,用具は6月上旬発注とある.

(5)ハゼ.黄櫨,読みはハジ,単に櫨とも書く.中国の黄櫨と我が国のそれは種類が違う(57).紙用250枚用として1,200g.媒染剤により色は変わる.

(6)紫草.10小斤=2.64kgが120.5枚の紙の染色用である.染色は椿灰によるアルミ先媒染である.

(7)藍.単位が「囲」であるので,ここは藍草のことである.紙120枚を染めるが,その量は2囲(藁と同じとすれば10.4kg).我が国の現在の藍はタデ科のものであるが,古代はマメ科のものもあった(58)と考えられている.

 なお,染色助剤として酢(5.5L), 綿(49.5kg), 藁(16.2kg), 椿の灰(11.2L)である.椿の灰は8-9月の間枝や葉を切って燃やして造る.アルミニウムイオンを含む媒染剤である.藁も灰の利用,酢は灰のアルカリ分の中和用である.また,必要な道具として水桶2口,?(したみ)と称する「底が方形で上部が円形のザル」1口.燃料として薪が25.2kgである.

 紙の染色法には,漉き染め,浸し染め,引き染め,吹き染めの4種がある(59)が,分業であることを考えると,浸し染めと引き染めが採用されたのではなかろうか.
 以上のように,簡単ながら古代の代表的な染め紙の基本的な染色技法が具体的に明らかにされている.
(「科学史研究」よりhttp://wwwsoc.nii.ac.jp/jshs/kagakusikenkyu/index.html)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
 以上は、紙の染色ですが、絹衣の染色も植物の「ムラサキ」ひとつで紫色以外にも多様な色が作られていたと『日本古代紫草工房』の石川貴啓氏は述べておられ、実際一部再現されているようです。

参考URL:http://www.parco-art.com/web/logos/kodaimurasaki1002/index.php

はい、相当高い技術があったと類推されています。私の手元に平安時代の古代法典『延喜式』(平安初期記述)に記載されている「紙の染色」について解説したものがあります。長くなりますが、転記します。
参考にして下さい。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
 染料は次の7種類で,染料の量,紙の枚数,前処理などを規定している.

(1)ベニバナ(紅花(くれない)).量は4大斤と書かれているので,2,400g.原紙200枚(1,800g)で,予めクチナシ(「支子」,普通「梔子」,「巵子」と書く)(60...続きを読む

Q東宮の弟の宮について

皇太子を東宮と言うと弟の宮は何宮って言うのですか?秋篠宮としか言い様がないですか?

Aベストアンサー

現東宮の弟宮文仁親王は『秋篠宮さま』と呼ばれていますが、『秋篠宮』は結婚の際に新宮家を設けたのでつけられた名です。
結婚前は称号の『礼宮』から、『礼宮さま』と呼ばれていました。
称号は、ご誕生の際に、おなまえ、おしるしと共にそれぞれ決められます。
現東宮徳仁親王の称号は『浩宮』
清子内親王の称号は『紀宮』
愛子さまの称号は『敬宮』です。

現在は親王、内親王とも称号でお呼びするのが一般的なようです。
称号以外の呼び名だと、昔は、親王なら二の宮、三の宮、内親王は女一の宮、女二の宮と呼ばれていたのではないかと思います。

Q質問です!平安時代のことについて調べているのですが平安時代の風習で印象

質問です!平安時代のことについて調べているのですが平安時代の風習で印象に残っているものや
驚いたことって何ですか?是非教えてください!

Aベストアンサー

 女が家で待ち、有力な男が牛車に乗って「今日はこの子、明日はあの子」なんて時代・・・そのことは格別驚きもしませんが、そのときの風習がいまだに残っているのを知ったときですね。

 飲食業が入り口の両サイドに「盛り塩」をしているのはみたことがあるでしょうか?
あれは平安時代の女達が、自分の家の門口に塩を盛ると、牛車の牛がそれを舐めるそうです。
そうすると牛車はその場にとどまって動きません。男はその家に泊まるってことなんですね。

 これはなかなか子どもには説明できない色っぽい風習ですね。

Q穴補部皇子は、聖徳天皇阻止のため泊瀬部皇子を立てた

 聖徳太子が天皇になら(れ)なかった理由については、諸説あると思います。

 その一つに、
---
用明天皇と不仲であった穴補部皇子は、
厩戸皇子を次期天皇にさせまいと、泊瀬部皇子を立てた
---
というものがありました(出展を忘れてしまいました。)。
どういう意味でしょうか?

Aベストアンサー

私の理解では、穴穂部皇子を推す物部氏と、豊日大兄皇子を推す蘇我氏の対立の構図であり、穴穂部の弟の泊瀬部皇子は、まだこの段階では出る幕ではなかったのではないかと思われます。当時の朝廷において勢力の全くない泊瀬部を、よりによって同母兄の穴穂部が立てるなどとは奇想天外のことと思います。

穿った見方では、穴穂部皇子は対抗馬である彦人大兄皇子、額田部皇太后の生した竹田皇子、用明天皇の皇子厩戸とで争う図式の中で、蘇我との結びつきが強い厩戸を警戒していて、当面はより組しやすい竹田を立て、その母と結託しようとしたというのはあります。ですが、泊瀬部を立てても有利になるとは思えず、より存在感がある自身が出ることの方が自然であると思えるのです。穴穂部は蘇我の血縁とはいえその専横を憎んでおり、その弟崇峻天皇も即位後は蘇我を退けて大伴氏と結びましたから、蘇我が共通の敵であったという複雑な事情もあって、そのような説が立てられたのではないかと推測します。

さらに穿った見方では、推古天皇における聖徳太子、または舒明天皇における中大兄皇子の「権力の二重構造」のごとく、泊瀬部を即位させ自身は大兄として実権を握るということですが、当時は兄が弟に皇位を譲るのが自然の環境であったことからして、それは有り得ないことだと考えられます。実力も背景も無い泊瀬部には大兄も無理ですから、この兄弟が結託する理由がまるでわかりません。

泊瀬部皇子に光が当たるのは、用明天皇が崩御してからのことですが、それは、彦人も竹田も三輪氏という後ろ盾を失くしたからではないでしょうか。この時を境に、泊瀬部は蘇我に担がれて穴穂部と皇位継承争いをする節すら見られるので、ますます意味不明としか言い様がないのです。崇峻天皇は崇神でも崇仏でもなく、即位後は蘇我を嫌って崇神に傾いた可能性はありますが、要するにどこからも担がれやすく、しかも御しやすい天子であったということは間違いなさそうです。

私の理解では、穴穂部皇子を推す物部氏と、豊日大兄皇子を推す蘇我氏の対立の構図であり、穴穂部の弟の泊瀬部皇子は、まだこの段階では出る幕ではなかったのではないかと思われます。当時の朝廷において勢力の全くない泊瀬部を、よりによって同母兄の穴穂部が立てるなどとは奇想天外のことと思います。

穿った見方では、穴穂部皇子は対抗馬である彦人大兄皇子、額田部皇太后の生した竹田皇子、用明天皇の皇子厩戸とで争う図式の中で、蘇我との結びつきが強い厩戸を警戒していて、当面はより組しやすい竹田を立て...続きを読む

Q平安時代に死刑はなかった?

心理学者の河合隼雄さんがシェークスピアに関する対談のかなで、「平安時代には死刑がなかった」と言っておられます。驚きました。また、「平安時代の物語に殺人がひとつもない」ともおっしゃっておられます。これはそうなのでしょうか?

Aベストアンサー

確かに810年藤原仲成が薬子の乱で死刑になってから、1156年保元の乱で源為義らが斬首されるまでの346年間、死刑が執行されなかったとされています。

しかしこれは都での話で、地方では死刑が行われた例があります。例えば前九年の役では藤原経清が斬首されていますし、天慶の乱では藤原純友の子、重太丸(しげたまろ)が斬罪となっています。

このほか荘園内での処罰として死刑が行われることはあったようです。下記URLの下から1/3あたりの記事「2ちゃんねるの投稿より」に詳しく書かれています。

http://www.geocities.jp/aphros67/020800.htm

Q後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?

日本の歴史上、最も高いカリスマ性をもった天皇とは?
明治天皇?昭和天皇?
それとも、伝説上の天皇・神武?蘇我氏を打倒した天智?
様々な意見はあろうかと思いますが、後醍醐天皇は外せないでしょう。

後醍醐天皇に仕えた楠木正成・新田義貞は今なお忠臣として名高く
英雄とされています。
後醍醐天皇の行なった「建武の親政」は武士を軽視した政治でしたが、
武士を省みない君主であっても、彼に対して忠誠を誓うとは、
相当なカリスマだったのもしれません。
後醍醐天皇は他に例を見ない程の野心家の天皇であった事は間違いない
でしょうが、彼の性格・人物像が私にはいまひとつ見えてきません。

後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?
みなさんのご意見をよろしくお願いします。

Aベストアンサー

>後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?

明治維新から1945年8月15日までの評価は、賢帝。
1945年8月16日以降の評価は、愚帝。

質問者さまがご存知かどうか分かりませんが、後醍醐天皇は「中継ぎ天皇」として登場しました。
後二条天皇が24歳で病死すると、花園天皇が即位。
後宇多上皇は、後二条天皇の皇子である邦良親王(当時3歳)に皇位を譲る+尊治親王(後の後醍醐天皇)の子孫は皇位を継承しない事を条件に「尊治親王を皇太子としました。
ところが、尊治親王が後醍醐天皇として即位するや否や「天皇は、誰にも譲らん!」と約束を反故にしました。
後二条天皇の弟が、後醍醐天皇です。

利用価値がある者は徹底的に利用し、その勢力が強くなると徹底的に排除に向かいます。
鎌倉幕府打倒には足利一門の力が必要なので「自らの名前の一字『尊』を高氏に与え『足利尊氏』が誕生」
尊氏の勢力・人気が高まると「反尊氏の先鋒である新田義貞を利用して、尊氏討伐を命令」

「自己顕示欲の塊」が、今の大勢を占めているようです。
政治も、全くのデタラメだったようですね。
後醍醐天皇時代の、有名な二条川原落書。
「この頃都に流行るもの。夜討・強盗・某論旨・召人・早馬・から騒動・自由出家・生首・にわか大名・からいくさ・訴訟人・下克上する成出者・・・」
和歌山県下津町の某寺起請文。
「後醍醐天皇の建武の頃、天下大いに乱れ、国々に騒動起こり・・・陸には盗賊窃盗多く、民家に押し入り財宝略奪し、神社仏閣の扉を破り、霊宝を奪う・・・」
政治には、一切興味が無かったようですね。
今の政治家と、何かよく似ています。

>後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?

明治維新から1945年8月15日までの評価は、賢帝。
1945年8月16日以降の評価は、愚帝。

質問者さまがご存知かどうか分かりませんが、後醍醐天皇は「中継ぎ天皇」として登場しました。
後二条天皇が24歳で病死すると、花園天皇が即位。
後宇多上皇は、後二条天皇の皇子である邦良親王(当時3歳)に皇位を譲る+尊治親王(後の後醍醐天皇)の子孫は皇位を継承しない事を条件に「尊治親王を皇太子としました。
ところが、尊治親王が後醍醐天皇として即位す...続きを読む

Q平安時代っぽい音楽で、ぷわ~って感じの楽器を使う音楽を何と言いますか?

平安時代っぽい音楽で、ぷわ~って感じの楽器を使う音楽を何と言いますか?
あと、それで着物みたいな正装で肩に切れ目が入ってる服を着て踊るやつって何かジャンルがありますか?

ああ言った雰囲気のものが好きなんですけど、時代は平安時代の京の舞台から始まったものなんでしょうか…。気になります。

Aベストアンサー

> 平安時代っぽい音楽で、ぷわ~って感じの楽器を使う音楽を何と言いますか?
「ぷわ~っ」ならば、『笙(しょう)』だと思います。
『篳篥(ひちりき)』は、もう少し絞ったような音が出ますから。

音楽でしたら「東儀秀樹」さんを調べてみてください。

> それで着物みたいな正装で肩に切れ目が入ってる服を着て踊るやつって何かジャンルがありますか?
肩に切れ目が入っているのでしたら『水干(すいかん)』ではないかと。

こちらが『水干』ですが。
http://www.kimono-japan.co.jp/jidaiisyo/04.html

これを着て舞うのは、「白拍子」という職業の女性です。
ですから、「白拍子舞い」と言われています。

ですが、雅楽と白拍子舞いは全く別のものです。

雅楽をBGMに白拍子が舞う…というのは、ないです。

「白拍子」という言葉には、「BGMなし」という意味もあるんですが、一般的には「今様」という、当時の流行歌・曲をBGMにしたり、口ずさんだりしながら舞っていました。

> ああ言った雰囲気のものが好きなんですけど、時代は平安時代の京の舞台から始まったものなんでしょうか…。
「楽」や「舞い」は神様への「奉納」として行われたのが起源です。
ですから、神話にも出てきますよ。
有名なところでは、天照大神が岩戸に籠ってしまった時、出てきてもらうために、岩戸の前で歌ったり、踊ったり…というお話がありますでしょう?

平安時代には「舞台芸術」は成立していません。

宮中での貴族の「教養」であり、「遊び」でした。
鑑賞していたのではなく、自身が演奏していた訳です。

宮中では「庭」に「壇」が設えられて、そこで楽が演奏されたり、舞が舞われたりしていたようですが
> 平安時代の京の舞台から始まったもの
という言い方ですと、少しニュアンスが異なります。

> 平安時代っぽい音楽で、ぷわ~って感じの楽器を使う音楽を何と言いますか?
「ぷわ~っ」ならば、『笙(しょう)』だと思います。
『篳篥(ひちりき)』は、もう少し絞ったような音が出ますから。

音楽でしたら「東儀秀樹」さんを調べてみてください。

> それで着物みたいな正装で肩に切れ目が入ってる服を着て踊るやつって何かジャンルがありますか?
肩に切れ目が入っているのでしたら『水干(すいかん)』ではないかと。

こちらが『水干』ですが。
http://www.kimono-japan.co.jp/jidaiisyo/04.html

これ...続きを読む

Q「源氏物語」に『朱雀帝』と『冷泉帝』が出てくる件に関して。

「源氏物語」には『朱雀帝』と『冷泉帝』が出てきますが、
なぜ実在の天皇の追号が架空の人物に用いられているのでしょうか。

どちらも紫式部のちょっと前の時代の人ですよね。
天皇をネタにすることがタブーではなかったということでしょうか。

Aベストアンサー

当時は高貴の人を実名(諱イミナ)で呼ぶ事は非常にタブー視されていたので官職や住居で表すのが慣例でした。西宮左大臣(源高明)、河原左大臣(源融)等。
上皇(法皇)も後院(上皇御所)の名で呼ばれたり崩御後は元号や御陵の名でも呼ばれるのが通例でした。上皇(法皇)が1人の時は単に院と呼ばれることもありますが。例えば生前の呼称では宇多天皇は仁和寺・亭子院・中六条院・朱雀院を転々としていて、その時によって呼び名も変わっていますし、陽成天皇も冷泉院を御所としている時は冷泉院、陽成院を御所としている時は陽成院と呼ばれていました(貞信公記)
朱雀院も冷泉院も当時有名な後院でそこに住んでいる上皇(法皇)は皆朱雀・冷泉院と呼ばれたわけです。
つまり源氏物語の朱雀・冷泉院はあくまでリアリティーを持たせるために作者が有名な後院の名を用いて、そこにお住まいの上皇様と表現しているだけなので問題はありません。


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