1つだけ過去を変えられるとしたら?

理系・浪人生です。

教科書に、
マリア-テレジアの在位期間が1740-80、
その子ヨーゼフ2世の在位期間が1765-1790となっています。

ポーランド分割は、第一回が1772なのですが、ここで参加した3者は、ロシア-エカチェリーナ2世、プロイセン-フリードリヒ2世は分かるのですが、オーストリアは、資料集ではヨーゼフ2世となっています。

上記の在位期間からすると、マリア-テレジアはどうなっているのだろうか、と疑問に思っています。
マリア-テレジアがどういう役割を果たしていたのか、という点について、よろしくお願いします!!

A 回答 (2件)

マリアテレジアは、フランツの死後、息子ヨーゼフ2世と共同統治に入りますが、ヨーゼフとかなり確執が有りました。


マリアテレジアは、シュレジエンをフリードリーッヒ2世に奪われた恨みを生涯忘れず、反フリードリッヒ、反プロイセンを貫きましたが、ヨーゼフには、そのような考えは無く、オーストリアの強化のためには、プロイセンを見本に改革してゆきます。
マリアテレジアは、ヨーゼフが、フリードリッヒと親密になる事を嫌い、マリーアントワネットをフランスに嫁がせるのも、そうした考えからでした。
(ヨーゼフとフリードリッヒの会談の翌年マリーアントワネットの結婚となります)

マリアテレジアは、息子とフリードリッヒ達の行ったポーランド分割に反対で、批准の署名を拒否します。
しかし、息子と宰相による何日にもわたる説得で、しぶしぶ署名します。
このことから、ポーランド分割には、マリアテレジアは、参加していないとされています。

フリードリッヒは、シュレジエンを失った代わりとして、ポーランドの一部を与え、プロイセンへの敵意をそぐつもりだったのかもしれません。

であれば、マリアテレジアにすれば、ポーランド分割に乗るということは、シュレジエンを永久にあきらめるということになり、シュリジエン奪回に執念を燃やしたマリアテレジアが、簡単に納得できない事だったでしょう。

ポーランド分割後確執は深まり、マリアテレジアとヨーゼフは、同じ宮殿内に住みながら、顔をあわせる事なく、手紙でやり取りしました。
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この回答へのお礼

どうも有り難う御座います!!

教科書では決して扱われないと思われる内容を教えていただき、非常に面白く読ませていただきました。

親子の内部確執やシュレジェンの問題と絡めて考えると、幅が出てきて、人間的で面白いと思いました。

この問題について、忘れることは無いと思います!!

お礼日時:2005/04/23 20:40

これはマリア=テレジアの地位に関係があります。



つまりハプスブルク家の当主であり、神聖ローマ皇帝であったカール6世には男子が存在せず、ハプスブルク家領を分割せずに娘のマリア=テレジアに継がせようとしたことから起こってきたのです。つまりカール6世は1724年に「国事勅書」を出して、マリア=テレジアの相続権を認めさせますが、現実に1740年にカール6世が死ぬとオーストリア継承戦争(1740年~1748年)が起こったことはご存知でしょう。

さて、実はこの時、マリア=テレジアはハプスブルク家領を相続し、オーストリア大公という地位を得ますが「神聖ローマ皇帝」の地位は男にしか認められないのでロートリンゲン侯である夫のフランツ1世が1745年に皇帝となります。この後マリア=テレジアの息子であるヨーゼフが神聖ローマ皇帝の地位を1765年に受け継ぎ、母親であるマリア=テレジアと共同統治を行うことになります。

つまり、ハプスブルク家の実権はマリア=テレジアが握っているわけです。夫のフランツ1世は政治にはあまり関心が無かったこと、息子のヨーゼフに対しては母親という立場から政治の実権を渡さなかったことが判ります。

最後にマリア=テレジアの地位は神聖ローマ皇帝妃(夫が死ぬまで)・オーストリア大公・ハンガリー王・ボヘミア王などということになります(「など」というのはその他に比較的小さい領地を沢山所有していたことからすべては書き切れません)。
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この回答へのお礼

どうもありがとう御座います!!

共同統治だった、ということも勉強になりましたが、オーストリア継承戦争の原因についても、教科書よりも詳しく分かり、感謝いたします。

センターにもこの辺りはよく出てくるようなので、しっかりと覚えておきます!

お礼日時:2005/04/23 20:36

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