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朝鮮半島の全羅道で前方後円墳が見つかりますが、あれは朝鮮半島南部がヤマト朝廷の勢力圏であった証拠でしょうか?

A 回答 (9件)

文化っていうのは、それぞれの地域社会で独自に発展することが多いです。


中には、他地域から移植?してきたという文化もあるのでしょうから、独自に発展した文化の一部なのか、他地域から移植してきた文化の一部なのか、はたまた両者の混合でできあがった文化なのかを見極めるのは難しいし、個々の事実の検証を積み上げていかないと、なんともいえないでしょう。

ところで、日本の前方後円墳という遺跡の一部として、纒向型前方後円墳も含めるようにしてしまうと、日本の前方後円墳の起源や系譜そのものが不明になります。 
また朝鮮全羅道の前方後円墳とされるものも、現状では起源や系譜が不詳らしいです。

ところで、(ところでばかりで済みません)隼人という名で後日ヤマトの勢力に服従することになった民族・地域は、4世紀までは別勢力として存在していて、5世紀に一応ヤマトが支配しても、7世紀までは反乱もできたようですから、それなりの文化圏をもっていたのでしょう。 そして、このヤマトの支配の時期と、鹿児島地方の前方後円墳の出現のタイミングがあっていることから、詳しいことは別なのでしょうが、ヤマトの勢力の何らかの影響があったことが想像されます。

全羅道の前方後円墳とされるものは、(朝鮮半島の三国時代のやや後半)5世紀後半から6世紀前半のものだそうで、5世紀後半には、倭王武を「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に加号したということだから、ちょうど時期的にはヤマトが朝鮮南部に影響力を及ぼした時期と重なります。

一体 「何をもって前方後円墳と見なすのか」も問題の重要なポイントでしょうが、仮に、日本列島では4世紀には前方後円墳が造られはじめ、そのころ4、5世紀にヤマト政権・王権が出来た可能性が可能性が高いということも考える必要があるのでしょう。
ハッキリとはしないものの、ヤマトの進出や影響力が及ぼされたと思われる時期と場所に前方後円墳とされるものが出現し、やがて消えていくという悔過をみれば、ヤマトの影響の下で生まれたものとみても良いのでしょう。

どのみちどこでも前方後円墳は造られなくなるのですから、なくなる理由を薄葬令に求めるのは不適当で、そのような造営構築物そのものに社会的価値を見いだせなくなるという流れなのでしょう。

とすれば、全羅道で前方後円墳が造営されたのは、朝鮮半島南部にもヤマトの影響が一時及ぼした結果なのだと思っても、大きな誤りはないでしょう。

権力って、威を張る、勢力や強大さを誇示しようとするものだから、威勢があって大国宋にさえもそれなりに認められるところのやり方を、自分の勢力誇示に使おうと現地の在地有力者が取り入れて、前方後円墳をこさえたという理解も、「朝鮮半島南部にもヤマトの影響が一時及ぼした」という一部です。 ヤマトの支配下、勢力下とは限らないです。 
宋書倭国伝から読み解くことが出来るのは、ヤマトが朝鮮半島に勢力を伸ばすために宋の権威付けを強く望んでいたということです。 実際に手中に収めることが出来ていたということではないとのです。 もちろん、侵攻し一時的に占領することは出来ていたのでしょうが、その進駐勢力そのものが大きな墳墓を造営誇示までしていたと考えるのは、行き過ぎのように思います。 何しろ、朝鮮半島南部の前方後円墳をヤマトの進駐勢力が造営したものと考えるには副葬品がしっくりしなさすぎでしょう。 たぶん、現地の有力者が造営したものなのでしょう。
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白村江の戦いの前は日本と交流あったから、


その前に日本人関係の人々を葬る墓に
前方後円墳が用いられた可能性はあるでしょう。
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勢力圏であったという確証があるわけではない。

今のところは百済が日本文化に強い影響を受けていたという状況証拠という感じでしょうか。

当時は、中国は漢帝国~三国時代~晋帝国が崩壊して小国に分裂しており半島に対する影響力が非常に弱い時代だった。

そしてその頃は、日本書紀によれば、鉄の産地だった半島南部の中央の任那地方に日本の利権があったことは間違いない。
また百済と新羅は人口が少ない小国で、北の高句麗、南の日本という人口が多い大国に挟まれていた。

そういう状況で、百済は、海路で遼東半島や山東半島の中国方面諸国とも通じていたほか、南は日本とも仲良くすることで、北の高句麗や東の新羅と対抗する道を選んでいた。

つまり、百済は、日本の任那鉄資源の利権確保の手伝いや、日本への中国文化の橋渡し役を担っていただけでなく、日本特産の硬玉・勾玉などの高級装飾品などの日本文化を輸入・導入しており、その中に前方後円墳という単なる墳墓ではなく、玄室がある円墳の前に方墳という祭祀を行うステージがあるという壮大な日本の墳墓形式もあったということなのだろう。

全羅道の前方後円墳は、日本の百済駐在高級官吏の墳墓という可能性もあり、百済豪族が日本の見栄えの良い前方後円墳を好んで造った可能性もあり、その両方が混在していた可能性もある。
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朝鮮半島南部には、ヤマト朝廷の事実上の属国であった任那が存在していました。


そのため、朝鮮半島には日本式の古墳が存在しています。
広開土王碑や隋書・宋書の記載からも明らかな歴史的事実です。
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朝鮮半島の旧都大田(テジョン)近郊には、古墳群が有り、最近の研究


では、その様に考えられています韓国の正しい歴史では当然、否定して
ますが。
日本人との混血度をDNAレベルで調べれば話が進むのですが、韓国は
調査を拒否してます。
神功皇后の朝鮮征伐は古事記の話だけでは無いと思っていますが。
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実のところよくわかりません。



後漢書東夷伝には奴国の朝貢について次のような記述があります。
「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」

奴国というのは今の九州博多あたりというのが定説となっています。この文をそのまま解釈すれば「奴国」は「倭国」の「極南」としています。でもおかしいですよね。奴国はむしろ「倭国」の「極北」としても良いはずです。

ですので当時の倭国は日本列島だけではなく、朝鮮半島の一部と日本列島の一部を含む海洋国家だったのではないか、なんて妄想をしています。

もしそうならば、前方後円墳が朝鮮半島にあるのも理解できますし、朝鮮半島の権益確保のためにたびたび大軍をだしていたというのも納得できます。

もっともこれは私の思いつきであって、真実である保証はないですけれどね。
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その通りです。


例えば日本にも米国人の墓がありますが、これは日本が米国に支配されたことの証です。また日本の墓に多くの梵語が見られますが、これも梵語の国に日本が支配された確たる証拠です。
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全羅道で後円墳があるのは、知りませんが。


(全羅道に、そんな力のある武将は居たのかね?)

663年白村江の戦いがあるまでは、たしかに中国との交流のために、駐屯地はあった。
 あそこから、黄海渡りで中国に。
 直接中国に渡ると、難破が多かった。


白村江の戦い後に、日本人の1人の武将は、新羅の王に見込まれ、王の娘に婿入した。
以後、その武将の子孫が新羅を継ぐ。

その王(日本人武将)のために、前方後円墳は作られる。
10年ほど前より、確か2回の調査が行われた。日韓の考古学者による、合同調査だ。
忘れたが、5年ほど前に、新聞にも報道された。
確か、私のmicrosofte onenoteには、その記事の記録があると思う。探せるかどうかは分からないが。

全羅道にあるのなら、それを真似たものだろう。
日本人武将の前方後円墳ができるまでは、朝鮮にはないとされる。
朝鮮は、普通は丸い小山、お椀型だろう。
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。。

。YES!。。。
彼らに古墳を作る技術は無いからね。
あと、事実を知られないために放置し、盗掘もあるといいます。
彼らには、不都合な現実です。
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