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かなり凹んでいるので、誰か助言を、、。
哲学ではなく、心理学で質問したのは、科学的な
根拠も少しは期待しているのですが、いろんな意見も
聞きたいです。

運やタイミングといった物は、あるんでしょうか?
たまーに、あまり信じてもいないんですが、
「神様、その試練は、俺には重すぎます。」と思う時が
あります。
どうも、努力をし始めると、周りが不幸になるような
気がしてしまって、努力をするのがすこし怖いです。
因果関係が、あるはずがないんですが、過去の経験から
そう、体に染みついているような。

考えれば、小学校の頃新学期前後に、犬にかみつかれたり、
病気になったり、自転車でこけたりして、病院によく行って
ました。
ここまでは、新学期の不安や期待で、お銚子にのったんだと
思います。

ここから話が少し暗くなります。

専門学校で初めてできた彼女は、夏休みに失そう。
就職して1年、新しく彼女もできて、仕事もがんばる、と
思っていたやっさき、自動車事故で彼女が。
あ、病気のため大学受験を一年浪人してます。(笑
しばらく無職で友達に励まされ、契約社員になった矢先、その
友達がケンカで、あっけなく。
かなり凹みながらも、契約の1年を過ごした後、仕事を辞めて
半年。
今は、外に出るのが微妙にやなので、在宅で仕事をしています。
(ひっきーとかうつは、ボーダーラインですかねー。)

今、出かける時に、いつもはそんな事はないんですが、
たまたま個人的にイヤな事があって、出かけられません
でした。
で、「神様、このタイミングで、この試練は、キツすぎます。」
と思った訳です。

で、質問なんですが、
運やタイミングといった物は、あるんでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

「物語り」という角度から、ご質問にアプローチしてみたいと思います。



もしかすると「物語り」という書き方をしたことで、質問者さんはご不快を感じられたかもしれません。これはフィクションではない、すべて、自分の身に実際に起こったことだ、と。

けれどもひとは「物語り」という形でしか、いろいろなことに意味を与えることができないのです。

たとえば、こういう文章があるとします。

「1914年6月28日にボスニアの首都サラエボでセルビア人青年プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するという事件が起こった。この一発の銃弾が、四年間、三十二カ国を巻き込んだ、人類史上初の大戦となる第一次世界大戦開戦のの口火を切った」

わたしたちはこの文章を事実を「客観的に」記したもので、「物語り」と理解することはありません。それでいて、この発端とされるサラエボ事件に、なんとなく運命的なものを感じ、皇太子がサラエボを訪れなかったらどうなっていただろう、とか、プリンツィプがどうしてそんなことをしたんだろう、とか、さまざまなことを考えるわけですが、ここで確かなことは、1914年6月28日の時点では、この文章を語ることはできない、ということ。そうして、もうひとつは、この文章が語られうるのは、少なくとも戦争が終結した1918年以降のできごとである、ということ。

つまり、あるできごとは、それ以降に生じた別のできごとと関連づけられて、初めて意味を獲得する、ということです。
歴史的なできごとは、「物語り」として織りこまれるなかで、意味を持ち、またその物語りはたえず書き替えられ、更新されていっているのです。

たとえば、十数年ほど前なら「ボスニア」ではなく、「ユーゴスラビア」と記述されていただろうし、あるいは、開戦の直接的なきっかけとなるような、さらに重要な機密文書などがもしかしたら隠蔽されているかもしれない、そうして、それが将来的にあきらかになったとしたら、口火を切るできごとは、ほかの事件に取って代わられることでしょう(ケネディ狙撃事件などを考えたら、そのことはいっそうよくわかるかと思います)。

つまり、何が言いたいかというと、わたしたちは自分に起こったできごとを理解しようとするとき、「物語り」の形で理解している、ということ。そしてそれは、いかに過去起こったことであっても、そのできごとに意味を与えているのは、〈いま、ここ〉にいる自分である、ということなのです。

そうした意味で、過去の自分に起こったできごとは、「客観的事実」というかたちでは、存在しようがないのです。
質問者さんは、ご自身に起こったできごとを「不運な自分に起こった数々のできごと」という編集方針のもとに物語りとして紡いでいらっしゃいます。そうして、つぎに何かが起こったとしても、おそらくは「ほらみたことか、やっぱり自分は運が悪いんだ」という脈絡で、そのできごとに意味を与え、その織物のなかにまたひとつ組み込んでいかれるのでしょう。

「年老いた両親のもとに生まれ、後妻だった母親は、こんな歳で子どもを産むのははずかしい、と、生後すぐに他家にもらわれる。もらわれた古道具屋の店先で、小さいザルに入れられて晒されていたこともある。その後、別の家にもらわれ、そこで養子となるが、そこでもいざこざがおこり、養育費二百円で、生家に買い戻されるが、後々、未払い分の養育費を求めて、養家の人間がつきまとうようになる。勉強はできたので、有名大学に進学し、公費留学もするが、留学先で強度の神経衰弱になり、帰国する」

これ、だれの話かわかりますか?
夏目漱石です。たとえ実在の人物であっても、別の物語を紡いでいくこと、たとえば「悲惨な幼少期」という編集方針のもと、織り上げていこうと思えば可能なのです。「事実」など、いくらでも見つかるのです。

たかだか五十年ほどしか生きていない織田信長、その彼についての歴史小説が、今日に至るまで書き継がれているのも、そしておそらくこれからも書き継がれていくのだろうけれど、それはさまざまなひとが、彼をめぐるできごとを読み込み、自分なりに意味を与え、編集し、物語を紡ぐからこそ、なのです。

客観的なできごとというものは、存在しないのです。
過去のできごとというのは、どのようなできごとであれ、〈いま、ここ〉の自分につながっている。
過去のできごとにたえず意味をあたえ、書きこみ、更新していっている〈いま、ここ〉の自分がいるのです。

哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、『汝の症候を楽しめ』(筑摩書房)という本の中で、こんな内容のことを言っています。
『千一夜物語』のなかに、砂漠で道に迷った主人公は、まったく偶然に洞窟に入る。そこには老賢者が三人いて、主人公が入ってきたために目覚めた三人はこう言うのです。
「とうとうやってきたな。三百年間、おまえのことを待っていたのだ」。
運命が主人公を砂漠の洞窟に導いたのか?

そうではない、とジジェクはいいます。
その場所にいる人は誰であろうと(メッセージの)受取人なのだ、と。
まったくの偶然によって、受取人に指定され、受取人となった人物は「受取人としての自分」の物語りを、過去をさかのぼって紡ぐ。そうして、自分がその場所にいることを「偶然」ではなく、「必然」あるいは、「運命」と読み込んでいくのです。

わたしたちの身の回りには、実にさまざまなことが起こります。わたしたちはそのできごとを読み込み、なんとか意味を与えようと、別のできごととのつながりを求め、意味づけ、物語りに紡いでいきます。
そうして、その織物は決して終わることはないのです。

〈いま、ここ〉に生きているわたしたちは、瞬間、瞬間で変わっています。それに応じて、過去のできごとも、本来ならその意味を、たえず更新し、解釈し直されているはずなのです。

それができないのはなぜか。
紡ぎ手がその物語りに満足し、変更を求めていないからではないのでしょうか。
「運の悪い不幸な自分」の物語りから抜け出すことができるかどうか、は、「運命」ではなく、その物語りの主体がどう生きていくか、ということに関わっているのではないのでしょうか。

このわたしの「物語り」は、質問者さんの「物語り」に届いたでしょうか。
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あたしにゃ~哲学とかそういうむつかしいことはわかりませんが・・(byこ○平 笑)単純な回答を少々。


私の例を上げましょうか。
・大学受験、努力した。自信はあった。でも、得意の国語の時間で「トイレ」に負け、結局それが尾を引いたのか?1年浪人したのに滑り止めしか受からず。
・やっと入学した大学では実習はきちんとやったのに単位がとれず、目指していた資格の受験すら出来なかった。
・就職も出来ず、いろいろな職を転々。気が付けば借金大王になり、友人も失う。
・そんな中契約社員として入社した今の会社ではなぜか認められ、正社員にこそなっていないが、管理職を任されている。ついでに、同じ会社で知り合った彼女と来年結婚も決まった。

ちなみに私、まだ20代です(爆笑)
自らまいた種で自爆しているケースも私の場合多々ありますが、往々にしてこんなもんです。
私の好きな本の中のせりふの中(といっても漫画ですので、出典は勘弁してください)にこんな言葉があります。
「努力したものが全て報われるとは限らない。しかし、成功するものは全て努力しており、その成果は必ず、拳に現れる」(スイマセン、ボクシングの漫画なんです・・笑)
本当にその通りだと思いますよ?努力しないやつは結局それなりの結果しか出ないんですよ。
運って、人生の中で(ラッキーも、アンラッキーも)あるとは思います。でもその運を生かせるかどうかは日々自分がどれだけ努力しているか、じゃないかな?
努力を見ている人は、きっといます。大切なのは、あきらめないこと。腐らないこと。そして、自分を信じること。今を大切に生きること。
悪いことは悪いこととして受け止めてください。凹むのもいいでしょう。でも、凹んだ中から何かを得られるのは日々「大切に」生きてる人だけじゃないでしょうか?
抽象的でスイマセン。参考になれば幸いです。
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sogoodさん、こんばんわ。



お気持ち良くわかります。
タイミング悪いなと思う事は僕もかなりあります。
自分が嫌だなって思った事が本当に起きたり。
運が悪くて困ってるんですと、人に話しても何故か信じてくれませんよね。それは運悪いね!と同調するよりも、僕の考え方の方を指摘される事が多いですね。
不幸な出来事を大きな事と小さな事に分けるとして、大きな事は何かを学べる試練で、
小さな事は考え方をプラスに変えるチャンスかなと思ってます。どんな事にも学べる事はあるんじゃないでしょうか。試練が来た時は辛いけど、学ぼうという姿勢になってみたり、座禅みたいな事したりすれば、少しはその時の痛みは軽減されると思います。
不幸は幸せになるためにあって、人間を強くする元なのかなと思っちゃったりしてます。
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この回答へのお礼

小さな事は考え方をプラスですかー。
やっぱりそこに行き着くんですかねー。

お礼日時:2005/05/04 14:07

再度、すみません。



>宣教師の人に、左頬をぶたれたら、右頬を・・・、
を実行したら、怒られたとか。
どうなんですかねー。

おそらく、僕も、sogoodさんも、その宣教師さんも、
修行中の身なのだと思います。
聖人や天徳の方は除いて、
修行が済んだ人は、この地球上には生まれてこないはずです。

キリストさんは、
僕たち修行中の身である地球人には
レベルの高すぎる課題を垂れられたものだと思います。
せめて、
「左頬をぶたれたら、痛みを味わい、
 その分少しだけあなたの業が解消されたのだから、
 それ以上は今度また・・、ということにして、
 右頬をぶたれる前に逃げるのもしかたないよ。
 逃げなさい。」
 ぐらいでよかったと思います!?

人のある一生において味わうべき苦痛の総量というものは、
予定されています。

この右頬を差し出すというのは、
難行苦行を自ら進んで行い、
業を早く解消しようとするのと同じ事と思います。
逆に、苦しみから逃避することを常とすると、
人生の晩年に重く、大きくのしかかってくるわけです。
ですから、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」、
ということなのです。


>壁を回避できたと思ったら、登った先は、さらに大きな
壁でした。もうしばらくは、前にも後ろにも壁があり、
どうやって抜け出すのがいいか、思案中に疲れて寝っ
転がってる感じです。

僕も今までの人生を振り返り、同じことを感じます。
きっと、背中に背負っている業の重荷を減らし、
さらなる人間的な進化のために、
僕たちの前に立ちはだかる壁は、
乗り越えても、乗り越えても、
修行中の間(業のある間)は、現れてくるのでしょう。
それが今生で終わるか、次生に持ち越すか・・・。

寝転がってるのもたいへんいいと思います。
疲労回復には「時間」というエネルギーがいります。
回復したら、また壁に立ち向かいましょう。

乗り越えられない壁は与えられない。

しかし、
僕の場合はもう、壁を感じることを意識的にやめにしました。
壁を意識するとマイナス思考になるから・・・。
一種の諦めかも知れませんが、
もう先のこと、壁のことを考えるのはやめて、
「精神的その日暮らし」「今を生きる」
に徹することにしました。

休養を取り、疲労回復したら、
ただ、淡々と、事務的に、
目の前にある現実に対処することに徹する。
与えられたことは、何でも受け入れてみる。

やってみると、けっこう苦しいことでも、
苦しく思わなくなります。
与えられた苦しみの内容は人それぞれ違うと思いますが、
今、現在こんな心境です。
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この回答へのお礼

「精神的その日暮らし」「今を生きる」ですかー。
フランス人だかの考え方ですねー。
そういうのに宗旨替えしてもいいですねー。

お礼日時:2005/05/04 14:02

>運やタイミングといった物は、あるんでしょうか?



数えた事がないんでわかりませんが、地球に60億の人間が住んでいて、その一人一人の日常や思いを一々考えて運やタイミングを与えてくれると思いますか。

ヒトは宇宙から見れば、偶然できた水溜りに偶々湧いた大腸菌の様なモノだと思います。その大腸菌が「僕は運が悪いのかな・・・」と悩んでいる様な事だと思います。

そして、本当に、その大腸菌を救ってくれる神様がいると思いますか、あるとすれば偶々干ばつや洪水で大腸菌を死滅させる自然の摂理だと思います。
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この回答へのお礼

数学の世界に、有意と言う言葉があります。
頭がよくなる薬を投与して、偶然が重なって結果がいいのか、それとも薬によるものか、を判定するものなんです
が、運でもその有意って事があるのかなー、とかぼん
やりと考えます。
回答を書いてくださった、方々は違うかもしれませんが、
奇跡は信憑性があるように語られるのに、奇跡的に運が
ない人は、その人のせいだ、もしくは偶然とイメージ
されるのが、ちょっとしゃくです。
ほ乳類からじゃなく、アリから進化してれば、目的のために
命を落としたとしても、何にも思わなかったんでしょうねー。

お礼日時:2005/04/30 21:20

この文章でははっきりかけませんが



・起こった理由は?
あなたの確認不足ですか?
情報量が少なかったからですか?
ほかの事に気をとられていたからでしょうか?
嫌なことばかり目を向けていると本当に病気になります。

そしてもうひとつ未来はわからないということ
もし出て行けば事故にあっていたかもしれません
何もなくて良かったですね。

この回答への補足

同情してほしい、、、ような書き方ですが、実は
わりと客観的に書いています。^^;
質問が800文字だったため、いろいろ省いたのが、
失敗でした。

どちらかと言うと、サイコロの目が4しかでないん
ですが、運、偶然ですか?
って、相談に近いんです。
”4”は、演技が悪いから印象に残るんだよ。とか、
確率的には、十分あるねー。とか。
身の上を書いたのは、こういった実例があるんですが、
どうでしょうか?と、あげただけなんです。
(質問最中に、感情の紆余曲折はありましたが、当初の
意図はそうでした。)
最初の質問だったので、変な方向に力んでしまいました。

補足日時:2005/04/30 20:32
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この回答へのお礼

・起こった理由は?
というのが分かりませんが、双方の事故に関しては
全然関係のない所で起きてます。

サスペンス劇場等で、「一緒にそうなってれば」、と
いう気持ちも少し分かりました。

お礼日時:2005/04/30 21:33

sogoodさん、こんにちは。



とても信じられない!、と思われるかもしれませんが・・・、
述べてみたいと思います。

僕たちは「偶然」ということばをよく使いますが、
どんな些細な物事であっても、
この世に偶然というものは一切無く、
全て「必然」であり、原因結果の法則により、
起こるべくして、起こっております。
全て、自己の意識の力により、自己への現象として表れてきます。
現象は、その人に固有のもので、ひとりひとり皆違います。

「sogoodさんに」起こってくる現象の全ては、
過去にsogoodさんが意識(顕在意識・潜在意識、等)
したことが原因となり、
一定時間経過し、
様々に変化し、組み合わされ、きっかけ(縁)を得て、
形を変えて表出したことなのです。

人を介して、物を介して、様々に表現されます。
ですから、自分に起こってくることは、
全て自己に責任があり、自己が招いたことなのです。
他人や物は表現のためのきっかけや媒体なのです。
そんな馬鹿な!と思われるかも知れませんが、
これが、個々の人間の心の進化のための
宇宙間の不変の法則なのです。

現象として現れた結果が自分にとって悪ければ、
過去のどんな心が原因であるかを反省し、
それに気づけば次からその心を起こさないようにします。
そうすると、そのイヤなことは起こらなくなります。
ここに、人間の心の進化向上があるわけです。

結果が自分にとって悪い場合、
とかく他人のせいと思いがちですが、
「他人のせい」は有り得ないのです。
他人はその姿、形、行為で
自己のかつて出した想念の結果を表現してくれているわけです。
ですから、
イヤなことを言ったり、したりしてくれる人も
恩人であるわけです。

この世は僕たちの認識できる次元を超えて、
個々人の成長をサポートする「愛」のシステムで成り立っております。
その人に乗り越えられない試練は決して与えられません。
例えば、
ある人にとって許容範囲を超えた恐怖や苦痛となる場合は、
「気絶」させてもらえるのです。

その人の心の進化(気づき)のために、
物事は、
必要な時に、必要な分量だけ、ベストタイミングで
現象化しているのです。
そして、原因が解消されます。

自分に起こってくること全ては善悪の判断を超えて
何らかの学びであると知り、
感謝で受け止め、自己に反省することを繰り返すと、
今まで気づかなかったことに気づく、という連続になり、
すばらしい人生を歩むことが出来ると思います。

この回答への補足

>全て自己に責任があり、自己が招いたことなのです。
で、
『お前の親族を殺したとしても、
 そんな事が言えるのかよ。』
・・・、って、小説かなにかで読んだ気がします。
でも、この場合もしそうなったとして、多少なりとも
関わってしまったので、ニュースで見た人は、『そんな
返信することなかったのに。(ある意味自業自得ね。)』と
思われるかもしれませんねー。

他意はないんですが。^^;

宣教師の人に、左頬をぶたれたら、右頬を・・・、
を実行したら、怒られたとか。
どうなんですかねー。

補足日時:2005/04/30 18:40
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この回答へのお礼

彼女の件は、友達の助言もあり、乗り越えたつもり
だったんですが、その矢先その友達も、となると、。
壁を回避できたと思ったら、登った先は、さらに大きな
壁でした。もうしばらくは、前にも後ろにも壁があり、
どうやって抜け出すのがいいか、思案中に疲れて寝っ
転がってる感じです。

お礼日時:2005/04/30 21:26

職歴&学歴&仕事ナシ&彼女ナシのヒッキーです。

この事実をどうとるかは、その人次第ですよね?

>「努力をすれば、報われる。」と思ってました
努力とは何か?と聞けば、やはり人それぞれの観念があるんでしょうね。例えば、「苦しい修行をしたら悟れる」と思う人がいたりする。これをシフトしたら、「努力をすれば報われる」と思う考え方と似てると思います。sogoodさんはそう思われているようなので、敢えて批判することを書きますね。僕はそうは思わないんだな。寝ていても悟れると思う。仕事を無理して働きまくって出世して結局身体を壊してしまう人もいる。それでもその仕事をやりたくて身体を壊してしまったのなら、そこには無念はあるかもしれないけど後悔はないはず。やりたい仕事があるんだからポジティブだと思います。ただ、やりたくない仕事を無理して努力して、その結果身体を壊してしまえば、それは後悔に陥ると思います。今までの努力はなんだったんだよと。その理由は、アウトプットするだけでインプットがないからそうなるんです。つまりやりがいや生きがいの問題です。同じ仕事にしても、やりたい仕事をやっている人だったら、毎回やりがいを感じてそれがインプットとなる。でもやりたくない仕事だったら、インプットされるのはやりがいではなく報酬や結果のデータや名声になります。それを得るまえに倒れてしまったら、それは努力が報われないと思うことになると僕は思ってます。ちょっと伝わりにくいかな。つまり、瞬間瞬間に生きがいを持っていれば、常に得るものがあればそれだけで満たされると思ってます。

>外&人混みが苦手
僕は、外は好きだけど都会は苦手です。人が多いし空気悪いし。

>福知山線の事故ですが、
>電車が以上に速いのを知りつつ、何も言わなかった
>乗客が悪かった。と言う事なのでしょうか?
乗客は車掌さんに文句は言っていたらしいですよ。
僕の考えだと、「何も言わなかった乗客が悪い」じゃないです。それじゃあ、責任転嫁に過ぎず同じことの繰り返しです。責任転嫁はその時はいいんですが、結局、そこから何も学ばないから、後々また同じ不幸を繰り返しちゃうところが酷だと思います。原因や責任を他に押し付けるから、くさいものにはフタをして誤魔化すのと同じ心理っす。
でも、大切な人の死ほど辛いものはありません。先週、大切な人がいきなり亡くなり呆然となりました。でもその人が言っていたことを思い出し、今はポジティブです。その人からいろいろと学びました。もう生死観を超えています。考え方や人生観を変えたら軽くなりますよ。僕は無宗教ですが、宗教はそういう役割があると思ってます。

例えば、仏教だと輪廻やカルマなどでその亡くなった人たちは前世で同じ罪を犯したから不幸になるんだ、みたいな考え方ですよね。(個人的には異議あるんですが)それぐらい「でかいスケール」で考えれば、人なんていつ死ぬかわからない存在だし、誰でも死ぬ運命だろうし、その点平等だなと思ってます。(もしそこで違和感を感じるようであれば、時間の長さに価値があると思いこんでいるからです。逆に僕は時間の長さに本質的な価値はないと思ってます)僕がいつも言ってることは、結局考え方次第で、かなり心持ち軽くなります。また強くなります。いろいろと自分で固定概念を持っていて、それに執着するから不幸になってるんじゃんと気づくことが結構あります。


>こう書いては問題かもしれませんが、質問する事で
>気持ちの再整理をしたかったのかもしれません
賢明なことですよ。人は人に話すだけで半分は解決しているようなものです。

>男なんですが、顔に傷も残りましたし
僕が高校生のとき絡まれてボコボコにされて病院のお世話になりました。顔ぐちゃぐちゃで今も変わりません。それまで男前でモテモテだったのにそれ以降、女子の態度が変わりましたね。今は成人して大人なのでさほど気にしてはいませんが。ボクサーやレスラーの人とか顔歪んでる人多いし。ビートたけしだってそうだし。今は、男は顔じゃねえと思っています。

>存在しなくても、言葉はあると思いますよ
哲学っすね。これまた人それぞれ考え方が違いますね。ここでいう存在とは、人が認識することは観念的には存在するという意味だと思います。


No.7の方の、「起きたこと、そのとき考えたこと、などをメモしておきます。文章に書き移すとおおずと客観的視点でみられます」これ、僕もやってます。かなりお勧めですよ。あと「「日記」風に、他者や自己に対しての主観を挙げていくのですが、現実とのズレを修正していくものです。」これも僕やってます。blogに毎日思ったことなど書いてます。これも効果絶大ですね。


で、僕の回答ですが、運やタイミングは言葉にしている時点で、観念的に存在してると僕は思ってます。タイミングなんて人間の心臓がリズムを打っている限り、あり続けると思うし、運があるとかないとかじゃなくって、説明がつかない、奇跡的なシンクロニシティがバシバシ起こって、それを論理的に説明できないから運という言葉を使っているだけです、僕の場合。例えば奇跡的な経験とか恋愛なんて、ホント言葉で表すことができません。あまり、理屈だけにこだわらないほうがいいと思ってます。意識ばかりにしばられて、無意識を忘れているのが現代人の特徴かなとも思ってます。だから「神様、このタイミングで、この試練は、キツすぎます。」と思うのであれば、それは神様が休めと言っているのかもしれません。社会人だとそんなこと言ってられないよと思われるかと思いますが、しかし全ての人間が労働しているわけでない時点で、人間として必然的なことじゃないわけであって、そういうときは休めばいいわけです。働かない時があるから働くという概念があるわけだし。もちろん社会存在は必然的だとは思いますが。

でも「でかいスケール」で考えたら、そうやって悩んで乗り越えて人間成長していくわけだし、これもまた、神様からの贈り物ですよね。ここで出会えたのも仏教的に言えば何かの縁でしょうし。

こんなアドバイスじゃ解決できないかな?何か聞きたいことがありましたら、出来る範囲で答えたいと思います。

この回答への補足

>乗客は車掌さんに文句は言っていたらしいですよ。
言い足りなかったのでは?

と、は私は思っていませんが、そう書いたのは、別の
質問者のsameidさん(の意図ではないかもしれません)が、
福知山線の事故をあげて、その後に『トラブルの原因は
常に自分自身にある』と書かれていたので、そう思った
だけです。
運転手は大人なので、そこには最低限の信頼関係が
あると思います。
『トラブルの原因は常に自分自身にある』は、その信頼
関係を無視していますし、ちょっと自分の中で責めていた
書き方だったので、ちょっと再ショックでした。
事故にあわれた方の気持ちを考えると、sameidさんの
回答を軽く流せばよかったのですが、ストレスがたまると
精神年齢がさがるので、ついむきになってしまいました。

補足日時:2005/04/30 20:42
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この回答へのお礼

「努力をすれば報われる」は、俺にとっての信仰ですねー。
信仰が不幸を伴って崩れたので、意味を見失いました。

あ、一応。
HP持ってます。宣伝はダメっぽいので、書きませんが、
プチうつ日記みたいな物を書いてます。

まぁ、そんあ感じで。

お礼日時:2005/04/30 21:45

はじめまして。



>運やタイミングといった物は、あるんでしょうか?
あります。
存在するから、”運”や”タイミング”という
単語があるのでは・・。(笑)

なんかの本で読んだのですが、不幸の原因を
追求出来れば、自然と幸運を選択する様に
なるそうです。
不幸な自分を満喫してはいけないとの事。

「お腹が減った」という不幸を感じた際、
原因は、手元に食料が無い事です。
「お金が無い」や「コンビニが近く無い」は
現状を見ているだけで、原因ではありません。
不幸を満喫してるだけです。

試練や不幸は隠れた幸運の目印なんかも
しれませんね。
結論ですが、運がいい人って、要領がいい人って
事じゃないですかね。
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この回答へのお礼

>存在するから、単語があるのでは・・。(笑)
は、存在しなくても、言葉はあると思いますよ。
と、この辺は言葉遊びになると、思うので。

要領がいい人は、犬にはかまれませんし、チャリンコも
病気にもならなかったでしょう。
受験も回避出来た、、、かな?
問題は、過去の間違った因果関係の認識と、過去が
うまく整理出来ていない事と、何度か再確認はしている
んですが、やはり、たまに分からなくなります。
いろんな意見が聞けたのは、私にとって財産になったと
思います。

お礼日時:2005/04/28 23:08

こんにちは。



既に出ている回答とは別の視点で答えたいと思います。
運とは偶然と結果論という話です。

53枚のトランプがあります。ここからカードを引きます。
全部で5回引いたところ、全て「スペードのA」でした。
マジックでも何でもなく、偶然に5回とも「スペードのA」。
これに何らかの運を感じるというのが、心理的な効果でしょう。
5回とも全く違うカードを引く確率…
つまり「スペードJ、ハート5、クラブ2、クラブ8、ハート3」でも
「スペード2、ハート9、スペード7、クラブ5、スペードK」でも
その他の組み合わせであっても、個々の出る確率は
スペードのAを5連続ひくのと同じ確率なわけです。
この時点で、たまたま起きた事を特別視してしまう事になります。
さらに、「スペードのA」自体に良い意味、悪い意味を持たせるかで、
その印象も幸運、不運へと変わっていきます。
(つまり、価値感によっても変わるということ。)
これは、別に5回連続同じカードをひかなくても起きます。
例えば、ポーカーでいうストレートやフラッシュの様な状態になれば、
それだけで「運」という考えが働いてきますね。

質問者さんのケースに、これを当てはめてみると、
不運というカードを連続してひいてしまったにすぎないと考えられます。
でも、実は「不運」というくくりはありますけど、
その度合いはそれぞれ違うでしょうし、
途中に小さいながらも「幸運」のカードにも巡りあっていると思います。
ただ、それに気がつかなかったか、不幸に気をとられているだけで…。



少し突き放した話になってしまって申し訳ないです。
「人間万事、塞翁が馬」って言葉もあるように、
その事が幸運か不運かは、後になってしかわかりません。
一見、不幸に見える出来事でも、
実はその不幸が、更なる不幸へ進まなかった証かもしれません。
一見、幸運に見える出来事が、身の破滅の序章になる事もあるんです。

今まで、質問者さんが体験した不幸は、
今後の幸せに繋がる出来事だったという可能性もあるんですよ。
犬に噛み付かれた事だって、そうなんです。
(風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話になりそうですが)
究極的には、その人が人生終る瞬間にだけ、
その出来事が幸運か不運かを判定できるのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

可逆な事はある程度、納得できますが、不可逆に
なると、かなりつらいです。
現に大学受験の事は、専門学校を卒業して数年後、
今まで、すっかり忘れてました。

不運の先引きの話は、20代で引くのと、年配に
なって引くのでは、意味合いが違うと思うんですが。
犬はまぁ、男なんですが、顔に傷も残りましたし、
からかわれたりもしました。
これが、50才で犬にかまれて顔に傷では、対応も
違ってくると思います。
子供は正直ですからねー。(さほど気にはしてないけど。)

お礼日時:2005/04/28 22:58

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