No.7ベストアンサー
- 回答日時:
補足拝見しました。
>征韓論と日清戦争は関係ない、ということでしょうか?
はい。
時系列的に見ても全く関係ありません。
戦後、日本の大陸進出を反省するにあたって、この時の征韓論を
当時から日本が大陸進出を企てた証拠としているというものです。
実際に当時において征韓論があれだけ盛んに言われていたなら、
江華島事件で千載一遇の機会として再燃するか、
日清戦争以前に壬午軍乱などでもその機会はありました。
当時の資料では、明治天皇の差配で岩倉案が採用され
朝鮮側が高宗の対応で交渉の機会があったことうえに
日朝修好条規の締結で建白書は無くなりました。
・日清戦争について
これも日本が大陸進出を狙ったものとされますが、
そのような単純なものではありません。
簡単に言うと、朝鮮において清の影響力を排除して
独立国として正常にお付き合いするためです。
だから下関条約の第一条にそのことが決められています。
当時の朝鮮は清の属国として言いなりでした。
そのかわり、朝鮮の危機には派兵してもらえました。
清は属国にちょっかいを出す日本が面白くありません。
実際に朝鮮問題を担当していた袁世凱は日清戦争開戦前夜でも
日本は東方の一狭小国である。アジアの一部に在りながら、
小を以って大に事(つか)えることを思っていない。
(小国のくせに大国である清に従おうと思っていない)
それであるから中国から事毎に罪を問わんと欲して久しい
「9 明治27年6月19日から明治27年7月3日」
(アジ歴:B03030205500)P12
なんて、平気で言っていたくらいです。
一方で朝鮮も平気で条約無視や約束の反古をしていて
日本はたびたび迷惑をこうむりました。
現在の防穀令の説明では日本が悪いように書かれていますが、
そもそもの原因は日本への通告を怠ったこと。
甲申政変では日本を手本に改革を行おうとした金玉均を
日本は外交問題の関係で助けませんでしたが、
その後に金玉均が暗殺され、凌遅刑となったことで
日本の世論は沸騰していました。
そもそも壬午軍乱では、朝鮮は日本人を助けるどころか
日本の公館の保護要請を無視して花房公使に襲い掛かるという
これだけでも開戦の口実になることをしでかしています。
この壬午軍乱で済物浦条約が結ばれました。
これが甲午農民紛争で日本が出兵した口実の一つです。
・日清戦争後について
日清戦争後に日本の影響力が強大になったかというと
そんなことはなくて、三国干渉で日本が弱いと見た朝鮮は
日本を見捨ててロシアにすり寄ります。
いろいろあって、国王はロシアの公使館に亡命して
そこで政治を行いました、これが露館播遷です。
この時の中心人物の一人が李完用です。
その結果、ロシアは朝鮮の希望をほぼ聞いてくれず
慶運宮(ロシア公館のとなり)に還宮しますが、
その後もロシアの圧迫が強いので、加藤公使に
「もう一度播遷するなら英・米どちらがいい?」
「各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/2 明治30年9月27日
から明治31年7月23日」(アジ歴:B03050002900)
と聞くくらい、外国依存ですが日本だけという訳でなく
日本の支援をもらっては反故にすることを繰り返しました。
たとえば朝鮮最初の鉄道である京仁線は日本からの借款を得た直後に
約束を反故にして敷設権をアメリカ人に渡しました。
当時の資料も読まずに批判される方がいますが、
西郷を朝鮮に派遣する閣議決定が上奏されたものを
天皇陛下が岩倉の帰還を待って審議するようにと差し戻して
岩倉案と西郷案が上奏されたものを天皇陛下が判断したもの。
当然ですが、差し戻しの段階では岩倉の暗躍などありません。
これで「明治天皇は若造だから」判断してないといえますか?
ちなみに、最終的な判断については朝鮮事件(三)
(アジ歴:A03023621600)P11などにも出ています。
歴史の裏側は複雑ですが、少しは当時の資料を見ましょう。
No.6
- 回答日時:
№4回答者です。
補足コメントありがとうございます。
歴史にタラレバはありませんので、西郷さんが朝鮮と外交交渉したとしても、日清戦争への流れは変わらなかったかもしれませんが、私は変わっただろうと思っています。
その大きな理由は、彼が一度も外国に行っていないのに、その当時の列強各国の動きや東アジア各国の状況を見事に看破していたことでした。そうでなければ、明治維新の混乱期にあれだけの思い切った改革はできなかったと思います。
もうひとつは、西郷さんの好きな言葉「敬天愛人」です。この言葉は、当時の李氏朝鮮や清朝の人々にも受け入れられる感情だと思います。
なお、明治天皇の即位は16歳の時ですので、この時、世の中の事は何も知らない20歳そこそこの若造が判断できるはずはない。
西郷さんの直談判を阻止した最終決断が天皇だと言うのなら、太平洋戦争の開戦を決断したのは昭和天皇だったはずで、だとしたら、彼はA級戦犯として訴追され死刑にならなければならなかった・・・と思います。
No.5
- 回答日時:
簡単に説明すると、征韓論は(後で解説する)書契問題が発端。
当時の日本には朝鮮を支配下に置くという考えも力もありません。
日清戦争は朝鮮における清の影響を排除するのが目的。
ちなみに、日朝修好条規を締結してからは征韓論を唱える者は
ほぼいなくなりました。
・書契問題について
日本は鎖国時代に交易のあったのは幕府が直轄で行っていた
清・オランダが有名(これを通商国と言います)ですが、
朝鮮と琉球は各々対馬藩の宗氏と薩摩藩の島津氏によって
行われていました。(こちらは通信国と言います)
明治維新によって日本の外交も見直され、朝鮮は政府が
直接担当することになり、その旨を朝鮮に通知しました。
ところが、外交窓口であった釜山の草梁公館で東莱府使の
官吏が日本の正式文書の受け取りを拒否しました。
その理由が、天皇の皇の字は清が使うもので日本は使えない
天朝も不可などというものでした。
ところがこれらは江戸時代の朝鮮通信使にも使われており
その点を指摘すると担当の官吏は病気を理由に面会を拒否
という具合に7年間に何度も書き直しを要求されました。
それどころか、当時は日朝の遭難者がいれば救護して
相手国に送り届けるのが通例でしたが、朝鮮で遭難した
漁民が放置されたり、対馬との交易を制限していました。
この間、朝鮮側は中央政府への報告もしていませんでした。
あげくに草梁公館に門番兵宛の達示文として
無法の国、恥知らず、(和装から洋装になったことで)
衣服容貌とも日本人にあらず、(明治維新と言っても)
天下の笑うところなるを平然としている恥知らず」
という誹謗中傷が公式に行われたことが一般に知られて
朝鮮への対応で過激な意見が出るようになりました。
これが征韓論が激しく唱えられた理由です。
ちなみに、この内容はアジア歴史資料センターで
朝鮮始末(三)(レファレンスコード:A03023629100)P18
にて調べることができるので、興味があれば見てみてね。
朝鮮の官吏がこのような態度をとったのは、当時の朝鮮での
権力者であった大院君が尊王攘夷を唱えたから。
大院君は外戚の専横を嫌って政治力が無かった閔妃を
高宗の正妃にしました。しかし、閔妃自身が政治に介入し
閔氏が政治の権力を握ることで大院君は失脚します。
そして高宗による親政が行われて初めて日本への対応が
中央政府に知られることになりました。高宗は激怒して
我国、数百年来、礼を日本に失せず。今猶、然く思いしに、
豈図らんや、其信義に反する、已に数年に及べりと。
是、何等の事ぞや。
と言い、東莱府使鄭顕徳と訓導安俊卿は斬首刑とされました。
こちらは、朝鮮始末(一)(レファレンスコード:A03023629600)
P93くらいに書かれています。
日本側の対応としては、このように馬鹿にされた対応で
当時の建白書には「痛憤骨ニ至リ」「屈辱」「非常ノ無礼」
「朝鮮ノ傲慢無禮」などと唱えられ、朝鮮討つべしとの意見が
政府内でも交わされるなど征韓論が盛んになることで
西郷が直接乗り込む案が上程されましたが、明治天皇が
当時海外視察中の岩倉・大久保の意見を聞くことを採用され
岩倉らは帰国後に対話と圧力を唱えて西郷の案を退けました。
つまり、最終決断は明治天皇です。
この後は正式な交渉にあたっての服装などで何年も揉めていて
その間に江華島事件が起こって当時の朝鮮が全面的に非を認め
日朝修好条規が結ばれました。
No.4
- 回答日時:
私は真逆だと思います。
征韓論と言えば西郷隆盛ですが、あの時、西郷隆盛が岩倉具視と大久保利通に阻止されなければ、李氏朝鮮に直談判に行っていたはずです。
歴史にタラレバはないですが、もしもそうなっていたら歴史は大きく変わって、日清戦争は起きていなかったかもしれません。
征韓論は、岩倉具視&大久保利通の意を組んだ当時の歴史学者のでっちあげです。後世に生きる我々は、こういう単純なトリックにだまされたらダメダメ!
当時は李氏朝鮮だったのに、なんで征韓論なの?
大昔の天皇の記録に三韓征伐を引用して、征韓論をでっち上げているのですが、大昔の三韓は朝鮮半島の南側のほんのちょこっとの範囲でした。朝鮮半島全てじゃないのはどう説明するのよ・・・と思います。
ここから推測できるのは、大昔の三韓征伐もウソッパチということがわかります。
娘の20年前の世界史の教科書の巻末の各国の歴史年表は、
1868年 明治維新
1875年 太陽暦を採用
1876年 日朝修好条規
たったこれだけです。
岩倉具視と大久保利通が、今は他国に関わるべきではなく富国強兵が大事と言って西郷が李氏朝鮮行くのを阻止しため、西郷が下野したのが1873年です。岩倉具視と大久保利通一派は、それから3年もたたないのに日朝修好条規を締結しています。ここに至る経緯がさらに面白い内容ですので、ご自身で調べられたらいかがでしょうか?
脱線してしまったので、もとに戻ります。
岩倉具視をトップとする一行が、本来の目的であった不平等条約の解消に向けた地ならしを早々に諦めて、約2年をかけて物見遊山の旅をしていたころ、留守政府はものすごいスピードで改革を進めます。
この頃、西郷はなにもしていません。この改革を進めたのは新しい時代を担う若い力でした。西郷は、若い者が日本の未来のためにこうやりたい、ああやりたい、というのを好きにさせていたように思います。この頃、庶民は新政府に対して不満だらけだったと思いますが、反乱や暴動が起きなかったのは西郷がトップいたからだと思います。
西郷が朝鮮に渡って直談判することを決断したのは、ここは若い者にはまかせられない、自分がやるしかない、と思ったからだと思います。
No.3
- 回答日時:
日清戦争(1894年-1895年)が勃発した背後には、当時の国際政治状況や地域の緊張が影響しています。
征韓論は、日本における対外政策の一環として、朝鮮半島への進出を主張する論議や動きであり、これが日清戦争に直接的に繋がったとは言えませんが、一因となった要素と言えます。以下に、日清戦争と征韓論の関係について説明します:
征韓論の背景:
征韓論は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本の政治や軍事リーダーシップの一部で、朝鮮半島を日本の影響下に置こうとする考えが存在しました。この背後には、朝鮮半島が当時、中国との影響力争いの舞台であり、また、日本にとって戦略的な位置にあったことが影響していました。
朝鮮半島の不安定性:
朝鮮半島は、清国(中国)とロシア帝国が影響力を持ち、その影響下で不安定な状況にありました。このような状況が日本にとっての懸念材料であり、朝鮮半島への進出を検討する要因となりました。
日清戦争の勃発:
日清戦争は、日本と清国(中国)との間で朝鮮半島における影響力を巡る対立が激化し、最終的に戦争に発展した結果です。この戦争は、日本と清国の間で領土や影響力を巡る争いを解決しようとする試みであり、日本が勝利し、影響力を拡大することに成功しました。
征韓論は日清戦争の背後にある要因の一つであり、日本が朝鮮半島への進出を考えるきっかけとなりましたが、日清戦争自体は、清国との対立が主要な要因であり、朝鮮半島がその舞台となったと言えます。戦争の結果、清国の敗北により、朝鮮半島の影響力は清国から日本に移りました。
No.2
- 回答日時:
今の日本人は平和ぼけしているので
安全保障という面から、国際関係を
考える事が苦手になっています。
半島が清国やロシアに占拠され、
軍隊が駐留するようになったら
日本の安全保障が脅かされます。
元寇は、半島経由で、日本を侵略
したのです。
だから征韓論なのです。
韓国を開国させ、清国、ロシアから
守らねばならない。
しかし、韓国には危機意識が無く
開国しない。
それで征韓論。
日清戦争はまさに朝鮮半島を巡る
戦いでした。
日露戦争もしかりです。
征韓論が日清戦争に繋がったんでしょうか?
↑
基本は同じです。
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