初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

疑問なのですが、江戸時代は300藩あった中で、それぞれの藩の優劣・序列というのは公的、或いは暗黙に存在したのでしょうか?
幕府の武士が偉そうにしてたのは想像付きますが、それ以外でも100万石加賀藩などの雄藩の武士は弱小藩の武士より威張ってたりとか上から目線だったりしたのでしょうか?
大名家の序列というより、その藩とそこに仕える武士たちの力関係について気になりました。
教えて下さい。

質問者からの補足コメント

  • 皆さま、ご回答いただき誠にありがとうございました。

      補足日時:2024/03/31 15:39

A 回答 (8件)

> 大名家の序列というより、その藩とそこに仕える武士たちの力関係について気になりました。



たぶん、公式にも、暗黙にも、個人個人の侍の相互の単純明快な上下ポジション認識は、難しいのだと思います。
一つの縦系列の中で純粋に縦系列の線上ならば、上下がハッキリしていたと思いますが、階層で分岐し始めると、複数に分かれてしまった相互での互いの上下は不明確になります。つまり、例えば、一つの藩の中で、侍が2千人いた場合、その2千人の相互上下を明確にするの難しい、暗黙であっても、容易には上下が分からないことは多々あるということです。知行・扶持の高の大小で上下が決まるのでもないし、年齢で上下が決まるのでも、先祖を辿るので決まるのでもない、どうにも決まらないというのが、実態でしょう。
ある年の4月にある藩の中で、藩主の門閥の12家と、比較的家格の高い12家と24家があって、家長のような者の他に各家に元服を済ませた家長の男の子で(長男次男三男)合計4人の男いると96人の侍がいることになります。もはや全員を一列に上下の順で並べることはできっこないないです。
仙台藩の侍についての研究も参考になります。
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j …

https://dl.ndl.go.jp/pid/780468/1/5
「疑問なのですが、江戸時代は300藩あった」の回答画像8
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御三家、紀伊、尾張、水戸がビック3、続くのが徳川と血縁がある親藩。

次が信頼の厚い譜代。外様が底辺で、石高が多くても、出費が多くて厳しい。
その中での最下位が、蝦夷の松前藩。米が出来ないので、石高0というので。
他に支藩というのがあって、本藩のおまけみたいなもの。例えば、長州藩の支藩の岩国藩。城はあるけと、参勤交代は免除という微妙な立ち位置。
1万石以上が大名家ですが、格式並みの出費があるので、9000石レベルの旗本より生活が厳しく軽く見られてたようです。
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他の方々が詳細は回答していますが、明確な区別どころか差別がありましたよ。


大きくは天下分け目の関ケ原の合戦で、徳川方か豊臣方に味方した大名により区別されました。
しかし、260年も続いた江戸幕府時代では外様大名とされていた薩摩の島津斉彬は幕府の重鎮にまで返り咲いています。
一方で家臣たちの中には、上士下士と言われる貧富の差が明確に続いています。

土佐の坂本龍馬は、元々土佐の支配者であった長曾我部氏の家臣です。
関川原の合戦後、豊臣方に着いた長曾我部は改易され、秀吉の家臣?であった名古屋出身の山之内一豊が土佐の藩主となりました。
土佐藩では山之内一豊が連れて行った主に愛知県出身の家臣達が上士となり、元々の長曾我部の家臣たちは下士と言う扱いになっています。

坂本龍馬の実家は質屋のような副業をしていたので比較的裕福でした。
しかし、三菱の創業者の岩崎弥太郎は、半分、乞食の様な生活をしています。

明治維新は、正に、そう言う差別の中から生まれた下士達の強烈なエネルギーからの反乱・革命と言えるでしょう。
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江戸幕府は、親藩、譜代、外様のように将軍家との関係で大名の格を決めていた事はよく知られていますが、実際の格はこれだけではなく、目に見える待遇で公然と差が存在しました。

 理由は2つあり、1つは将軍家を頂点とする身分制のピラミッドを築く事で秩序を維持し、いつまでも徳川家を崇めるように仕向けていくためでした。

そして、もう1つは300もの大名を細かくランク分けして身分差をつける事で大名を対立させ、協力して幕府に叛そむくのを阻止しようとした為です。 細かいランク付けは煩雑な儀式と非効率を伴いますが、それが大名を統治する基本なので幕末に至るまで、これらのランク付けが大きく見直される事はありませんでした。

大名というと皆んな城を持っているイメージですが、実際に城を持っているのは、全大名の半分程度でした。

大名には以下の種類がありました。

1.国持大名(国主):国持と国持格あわせて20家。 特徴は1ヵ国以上、もしくは1ヵ国に相当する領地を有する大名

2.国持格大名(1ヵ国は有しないが国持大名に準じる格付けがなされた大名)

3.城持大名:128家。 幕府公認の城を持った大名

4.城持格大名:16家。城は持たないが、城持ち大名に準じる格付けがなされた大名

5.城なし大名(1万石以上):111家。 築城を認められず陣屋に住んだ城を持たない大名。

一応、石高が3万石以上になると築城の権限を保有するのですが、実際には幕府に願い出ても許可が下りない事が多かったようです。

ただ、城は私たちが考えている以上にメンテナンス費用が嵩かさみ、3万石以下の大名の財力では城を築いても維持・管理が出来ないので、一概に理不尽な格差とは言えない部分もあります。

ただ、陣屋住まいの大名の中には天守閣や櫓やぐらを持たないだけで高い石垣を巡らし濠まで構えた堅牢な陣屋を築いてプライドを満たす人もいました。

江戸城に登城して将軍にお目見えする事になる大名ですが、彼らが将軍に挨拶する為の待機場所も大名のレベルにより違いがありました。 上位になるほどに将軍に近くなっています。 例えば、相良藩の藩主であった田沼意次は、有力譜代大名が詰める溜之間にいました。元々、田沼意次は紀州藩の足軽を父としていた人物であり破格の出世でしたが、徳川家重の死によって没落し5番目の雁之間に落されています。

江戸時代の大名は江戸城内の服装においても違いがありました。特に正月の2日目まではランクによって服装が厳格に決められていました。 着ているものが違うというのは、現在でも大きな格差を感じさせますが、身分制社会の当時は猶更の事だったでしょう。 ただ、正月の間中、ずっと服装が違うというのでは下位大名に劣等感を与えると考えたのか、単純に着なれない直垂や狩衣が面倒になるのか、正月の3日目からは将軍から大名、幕臣まで熨斗目になりました。

現在でも私達は、騒がしい周りを静かにさせる時に、人差し指を口元に当ててしーっ!と言ったりしますが、これは「警蹕(けいひつ)」と言い江戸城で将軍にお目見えする時に「静粛に」という意味で使われる儀礼行為でした。

この警蹕は、江戸城内の御坊主が担当していましたが、廊下でもこの警蹕や、もう少しランクが低い咳払せきはらいが発せられる事がありました。

ただ廊下において警蹕を受けられるのは、将軍、徳川御三家、御三卿、老中、若年寄、将軍側近の御側衆のみで、次の咳払いは越前松平家、溜之間詰めの井伊家などの有力な譜代大名、それに国持ちと呼ばれた18の外様大名だけでした。 それ以下の大名は、警蹕も咳払いも掛けられないという区別をされました。

大名達は屋敷の広さでも差をつけられました。 元々、江戸の土地を大盤振る舞いしていた幕府ですが、大名だけでざっと300人もいて、さらにそれらの大名が江戸に、上屋敷、中屋敷、下屋敷を構えるのですぐに土地が足りなくなり、石高に応じて坪数に差をつけたのです。 具体的には、以下の通りです。

石高       坪数
10万石~15万石 7000坪
8万石~9万石 6500坪
6万石~7万石 5500坪
5万石~6万石 5000坪
4万石~5万石 4500坪
3万石~4万石 3500坪
2万石~3万石 2700坪
1万石~2万石 2500坪

このように国持ち大名と、ようやく大名と認められる1万石の大名では屋敷の面積も3倍弱の格差がありました。

ただ、1万石クラスでも2500坪なので、それは現代の感覚から見れば広大な屋敷ですね。

大名は、これに加え屋敷の門構えでも石高によってランクがありました。例えば、10万石の大名が長屋から独立した門を構え、屋根に鬼瓦も置いた入母屋いりもや造りだったのに対し、5万石以下の大名は長屋を改造した門しか許されず、屋根も片庇(かたひさし)の出格子(でごうし)になるなどグレードダウンします。 これにより門構えを見れば、屋敷の大名の石高が大体想像がついたのです。

江戸時代の大名は決して将軍の下に横並びではなく、そこからも細かく身分の序列が分れ、少なくとも江戸にいる間は、どっちが上でどっちが下というランクに従わないといけない窮屈な部分があったのです。 そうでなくても国許では一番偉い人である大名ですから、江戸では、複雑で厳格な身分の格差に、さぞかしプライドが傷つく事が多かったでしょうね。
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暗黙では無く歴然とした格差を付け、幕府は大名達を支配して居ました。


#3回答に有る「大名格差」を読まれたら詳細に解ります。
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まず、「親藩・譜代・外様」という大きな区別がありました。


https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id …
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id …

家格・禄高・官位などに応じて、ありとあらゆる場面で序列や格差がありました。

『大名格差』(安藤優一郎 著、彩図社)
https://www.saiz.co.jp/saizhtml/bookisbn.php?i=9 …


将軍家の家来(旗本や御家人)の序列、各藩内の藩士の序列なども厳しく定められていました。
藩主に直接会える「御目得以上」とそれ以外「御目得以下」の区別なども。
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将軍家との血縁の親疎、官位官職、石高など複雑な要素で大名家の序列は決まっています。

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存在します。



徳川家康の時代からの家来が大名になったのが一番偉い。

次は途中から家康に着いた大名。

と言う風に決まっていると聞いた事があります。
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