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皆さんお時間いただけませんか?
今、大河ドラマを見てて思ったのですが、戦国時代の武士は、兜を被ることで頭皮が蒸れるのを嫌って、チョンマゲの髪型にしていたと聞きます。ところが、大河ドラマの武士は髪を茶筅のように結ってはいますが、おでこより上が剃り上がって(月代)いません。ドラマであるがゆえなのか、ドラマのような髪型をしていた武士もいたのでしょうか?
また、職人や町人はどんな髪型をしていたのでしょうか?戦国時代の武士や職人・町人の髪型に詳しい方、教えてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

まず時代劇の考証は曖昧という事(江戸時代といっても長いので髷も流行があったのですがどれも同じになってますよね。

)、それと戦国時代というのは室町時代から続く一時期ですから、そこだけ切り取るのは難しいという事をふまえて下さい。
参考URLのように古くは庶民でも烏帽子をかぶっていました。この場合頭のてっぺんに髪をまとめる髷の形でしたが、時代を経て烏帽子を略すようになります。といってもいきなり皆がかぶらなくなった訳ではないので戦国時代でも様々な層で被っていたと思いますが。庶民でいうと萎烏帽子ですね。
かぶらない場合の髪型は自然に後ろで纏めるものになったと思います。
そこからいわゆるチョンマゲに進化していくのですが、月代は鎌倉時代などの早い段階で存在していたようですね。武士に流行した理由として兜を被る際の要因は大きいと思いますが、ぶっちゃけハゲの人が開き直ってスッキリしてしまったというのもあったのでは、と考えてます。
とすると戦国物の時代劇でことごとく月代を見かけないのは少しおかしいと言えますね。何故か織田信長に多い気がします。
ちなみに月代が武士以外にも流行したのは江戸時代以降だそうで、一般の大衆の月代姿は少なかったと思います。

参考URL:http://members3.jcom.home.ne.jp/pehota02/equipme …
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この回答へのお礼

参考になりました。有難うございました。

お礼日時:2007/05/05 11:49

身分制度と服装や髪型の研究が進んでいるのは、江戸時代です。


江戸時代では、身分制度を明確にするために、服装や髪型に関して口うるさく法令を出していました。出しているが故に、あるいは法令に反して罰則を受けていた人がいる故にそれが、文章として歴史資料が残っている。残っているが故に研究ができるという側面があります。

以下は、想像ですが

戦国時代では、武士も商人も農民も明確な線引きがありません。明確な線引きがないのですから、その身分に伴う服装や髪型に明確な線引きが存在し得ません。

上級武士では典型的な外見があったのか?という予想もできますが、身分制を外見と同様に明確化する「名前」に関しても、中央権力による統一的な命名法、つまり○○の守を名乗って良いという公式な許可があったわけでなく、勝手に名乗っていたところを見ると、外見も勝手にしていたように思います。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2007/05/05 11:50

手元の資料によりますと、「巻立茶筅」というものが、ありますが、月代は剃っています。


私も、このサイトを始めてから、髪型に興味が出たので、まだ、勉強中なのですが、茶筅だけでも、マナー違反なのに、月代を剃っていないのは、更にマナーを逸することになると思います。
髪型について、まとまったサイトは、発見できていませんが、ふざけた髪型をしている者に切腹を申し付けた殿様もいるとのことですから、かぶくのも命がけだったと思います。
町民と、武士のちょんまげで、一目で、違いがわかるものは、襟足の上がたぼと言って、ふくらんでいるか、否かです。
総髪の上に茶筅は、ドラマ用だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/05 11:50

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Q戦国時代の服装

戦国時代~安土桃山時代の服飾に触れている資料を探しています。武士だけでなく、女性、庶民や僧侶などまで網羅しているものはないでしょうか

Aベストアンサー

やっぱり、このサイトじゃないでしょうか・・・
有名なので、もうご存知かも知れませんが・・・

http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000100

Q武士の髪型について!

去年の大河ドラマ「北条時宗」では、武士の髪型が剃っていない髪型でした。今年の「利家とまつ」の現在においてもまだ、剃っていないようです。いつ頃から誰が始めたのかご存じの方!教えてください。ちょんまげ・元服

Aベストアンサー

 
  手元に参照するものがないので、記憶で記します。まず、月代を綺麗に剃り、後ろから、結った髷の端を前に向けてまっすぐに垂らすというか、頭の上に置く、時代劇でよく見る髪型は、あれは江戸時代の武士階級の正装に伴う髪型であったのです。
 
  実用的には、月代(さかやき)というものは、鎌倉時代辺りから、職業的軍人としての武士階級が成立するにつれ、彼らは、農民兵と違い、常時、戦闘を念頭して日常生活を送っていたので、兜(立派なものも粗末なものも含め)を被る機会が日常的に多く、兜は、クッションを頭頂部に当てていたとはいえ、長時間被っていると、頭が蒸れて来るので、その対策のため、頭の兜が当たる部分の髪を剃って、蒸れないよう工夫したのが起源です。従って、月代を実用的に使っていたのは、戦国時代の武士だとも言えます。
 
  江戸時代の武士の月代は、一種の正装またはファッションとしてあるので、実はああいう風に髪を剃ってしまうと、別の問題も起こるし、髪結いが難しくなるということもあります(戦国やそれ以前の武士が、ああいう綺麗な月代でなかったのは、あれは手間がかかるからです。太平の世ならこそ、武士は、ああいう髪型に悠長に時間をかけることができたのだとも言えます)。
 
  髪型の要素として、月代だけではなく、実は「まげ」の形というか、必要性が関係してきます。まげというのは、江戸時代の町人のまげは、ほぼ完全にファッションですし、武士のまげもファッションです。それ以前、戦国・室町にも庶民がまげをしていたら、それも実はファッションです。
 
  ファッションだというのは、「まげ」には、元々実用目的があったからです。日本古代(といっても、6世紀以降を考えますが)には、中国を真似て官位制を置き、それぞれの制服を定めました。その時、中国では、「冠」が、位などを表す重要な飾りというか、衣装の一部だったのです。正装する時には、位のある者は、それに応じた冠を日本でも被ったのです。また、正装の時の冠以外にも、日常的にも烏帽子を平安貴族などは被っていました。
 
  「まげ」というのは、この冠や烏帽子を落ちないように止める働きを持っていたのです。まげで髪の塊を造り、その上に冠なり烏帽子を被り、「簪・かんざし」という長い棒で、冠・烏帽子を、そのなかのまげと結ばれるように、貫通して通して、こうして、少々動き回ったり、頭を下げたりしても、冠や烏帽子が落ちないようにしていたのです。
 
  何の話だったか忘れましたが、葵祭りの勅使の一人か、または名誉ある随行者として馬に乗って進んでいた老貴族が、ふとしたおりに冠が地に落ち、つるぱげの頭が露呈されたので、沿道の人々が大笑いしたという話がありましたが、老貴族は悠然と馬から降り、冠をまた被ってから、わしの頭には髪がない故、冠が落ちるのは理の当然、何の恥ずべきこともない云々と、大音声で説教したら、人々が、もっとも思い、恐縮したという話があったと思います。
 
  こういうことからいえば、江戸時代の武士のまげは、こういう冠を止めるためには、実用的に役に立たないまげだということが分かります。また、戦国までの武将や武士は、頭に何か被っている者がいましたが、江戸時代には、そういう風習はなくなりました。これは、日常的に烏帽子などを被るには、あの髪型・まげでは、無理があるからだとも言えます。(冠ではなく、色々な種類の笠を頭に被っていますが、笠は兜の展開したようなもので、顎で紐で結べばよいのです。烏帽子や冠は、紐で止めても形から不安定なのです)。
 
  こういうことから、庶民・町人のまげは、完全にファッションだと分かるでしょう。また、実戦が重要であった戦国時代は、江戸時代の武士の月代やまげのような面倒で非実用的なものは、排除したというか、発想外だったということにもなります。
 
  話が逸れますが、これと似ているのは、「刀」で、「刀は武士の魂」だなど言い出したのは、太平の江戸時代になってからで、それまでは、刀は実用の武器の一つだったのです。日本刀というのは、刃こぼれや、折れたりすることや、何人か人を斬ると、血油で切れなくなるとか、実戦的には、あまり役に立つ武器ではなかったのです。実際に合戦に参加するときは、あるかぎりの刀を持って行ったとか、刀はいざという時に使い、実際は棍棒などで闘ったというのもあります。
 
  優れた日本刀は、高級装飾品、工芸品、また宝物だったのです。実用の刀は、少々切れなくとも、折れず丈夫で、相手をぶち倒して、それを刺し殺せればよいというようなものでした。
 

 
  手元に参照するものがないので、記憶で記します。まず、月代を綺麗に剃り、後ろから、結った髷の端を前に向けてまっすぐに垂らすというか、頭の上に置く、時代劇でよく見る髪型は、あれは江戸時代の武士階級の正装に伴う髪型であったのです。
 
  実用的には、月代(さかやき)というものは、鎌倉時代辺りから、職業的軍人としての武士階級が成立するにつれ、彼らは、農民兵と違い、常時、戦闘を念頭して日常生活を送っていたので、兜(立派なものも粗末なものも含め)を被る機会が日常的に多く、兜...続きを読む

Q戦国時代、武将が髪をザンバラにしている時

「功名が辻」を見ていると(読んでもだけど)秀吉の子が他界した時に、悲しみのあまり元取り(字はあってないかも)を切り落とし、諸侯もそれにならわざるを得なかった、という場面があります。

その頭髪を大童としてましたが、合戦の時なども髪をざんばら(というのか結んでない状態)にしている場面がありました。

当時の武将は、合戦の時にもチョンマゲを切り落としたりしたのでしょうか?
だとしたら何故かしら?

Aベストアンサー

もとどりは「髻」という字をあてます。

http://www.cosmo.ne.jp/~barber/kamigata.html

こちらの美容学校のイラストで判ります。

武士が兜を被る場合、源平の時代は髻に烏帽子を被り、その上に兜を被っていました。
太平記の頃は、烏帽子に鉢巻を巻いて、兜。
そのため、髻を外に出す必要があり、古い兜には天井部に5センチほどの孔が開いているものもありますけど、これですと前傾姿勢をとると、矢で射抜かれるリスクや、組討で孔に手を入れて引き寄せ、首を落とされるということもあって、段々孔が小さくなり、秀吉の頃には大童にして被ったようです。

尚、ちょんまげは「丁髷」と書いて、髷が結えない老人の髪型になります。
現在では、髷の総称としていますけど、本来は

http://www.cosmo.ne.jp/~barber/tyonmage.html

Q戦国時代の髪型

皆さんお時間いただけませんか?
戦国時代の武士は、兜を被ることから頭皮の蒸れを嫌って、ちょんまげ姿がほとんどだそうですが、村人や職人さんはどんな髪型だったのでしょうか?僧は丸坊主みたいですが・・・
教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

江戸時代まで、特別に決まった髪形はありませんでした。
僧侶・神主は宗教上の決まった髪型があったようですが・・・。
(ツルツル頭も髪型の一種)

江戸幕府は、廃絶大名・浪人・旧秀吉派閥からの武装蜂起・幕府転覆を警戒するため「顔を髪で隠す事を禁止」しました。
逆に言うと「ちょんまげでなくても、顔を隠さなければ」どんな髪型でも大丈夫だったのです。
公家に対しても、同様の命令が出ています。
ただ、ぼうぼうの髪は不衛生・暑苦しいと嫌われるので次第に(武士の)「ちょんまげ」が庶民にも標準となりました。
今でも、独特の髪型をしているとヒンシュクをかいますよね。
町人・農民は、武家を真似るのを嫌ったので「野郎髷」「町人髷」という「ちょんまげ」が普通だったようです。
江戸元禄時代、女性用髪型は2000種も存在したようですよ。

武家では「髪型を指定」していた藩もあります。
髪型を見れば「○○藩家臣」と解ったようです。

余談ですが、現在は「お相撲さん」でない人が「ちょんまげ」をすると罰せられます。明治政府の「断髪令」が生きているのですよ。

江戸時代まで、特別に決まった髪形はありませんでした。
僧侶・神主は宗教上の決まった髪型があったようですが・・・。
(ツルツル頭も髪型の一種)

江戸幕府は、廃絶大名・浪人・旧秀吉派閥からの武装蜂起・幕府転覆を警戒するため「顔を髪で隠す事を禁止」しました。
逆に言うと「ちょんまげでなくても、顔を隠さなければ」どんな髪型でも大丈夫だったのです。
公家に対しても、同様の命令が出ています。
ただ、ぼうぼうの髪は不衛生・暑苦しいと嫌われるので次第に(武士の)「ちょんまげ」が庶民にも...続きを読む

Q戦国時代おさげ、江戸時代日本髪

なぜ戦国時代の女性は髪形がおさげで江戸時代の女性は日本髪なのですか?

Aベストアンサー

NO1.です。

追伸: 

江戸時代女性の髪形を大きく変えるきっかけとなったのは、
慶応8年(1603)に出雲阿国(いずものおくに)が京都の四条河原で、杭を数本地面に討ちつけ、筵(むしろ)をかけただけの粗末な小屋で、阿国が茶屋へ通う伊達男に扮し、夫の(夫ではない、という説もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が茶屋の女将に扮しての踊りを交えた寸劇を披露しました。
この男女の入れ替わり、つまり、「性倒錯」が有名になり、連日「大入り満員」だったとか。
これを当時の京の人たちは「傾く(かぶく)=常識外れ、突拍子もない」と呼び、これが、しだいに「かぶき」と呼ばれるようになり、現代の「歌舞伎」の漢字があてはめられました。

この時に阿国が結った「髷」が「若衆髷(わかしゅまげ)」として有名になり、京から大坂、そして、江戸でも女性の間で大流行しました。

やがて、「島田髷」などが出現し、寛永年間(1624~)頃には「兵庫髷」という、頭の上で「輪」を一つ作ったような髪形が流行。
元禄年間(1688~)頃には「元禄島田髷」が流行。
明和年間(1764~)頃には、浮世絵に出てくるような「春信風島田髷(はるのぶふうしまだまげ)」が流行。
江戸時代後期~明治初期頃には、芝居の「お染久松」でお染が結った「おそめ髷」などが流行しました。

>>なぜ戦国時代の女性は髪形がおさげで江戸時代の女性は日本髪なのですか?

戦国時代は、戦に明け暮れており、ファッションの流行はなく、ただ単に髪を伸ばしていましたが、江戸時代に入ると「安定した生活」ができるようになり、また、金銭の流通も盛んになり、ファッションにも「余裕」ができて、色々な髪型が流行しました。

NO1.です。

追伸: 

江戸時代女性の髪形を大きく変えるきっかけとなったのは、
慶応8年(1603)に出雲阿国(いずものおくに)が京都の四条河原で、杭を数本地面に討ちつけ、筵(むしろ)をかけただけの粗末な小屋で、阿国が茶屋へ通う伊達男に扮し、夫の(夫ではない、という説もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が茶屋の女将に扮しての踊りを交えた寸劇を披露しました。
この男女の入れ替わり、つまり、「性倒錯」が有名になり、連日「大入り満員」だったとか。
これを当時の京の人...続きを読む

Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む

Q昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

日本と外国で、それぞれ答えて頂ければありがたいです。

文化的な道具がないと、散髪も爪切りも大変だったと思います。

現在の鋏のような器具があったのでしょうか。それとも、石とか竹などの他の道具をつかっていたのでしょうか。

教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

Wikipedia(NO2の方のサイト)にもあるように、
外国では、
紀元前1000年ごろの古代ギリシアのものとされるはさみが発見されており、古代から使われていたと考えられている。
と、ありますね。

日本では、
6世紀に中国を通して伝わったと考えられており、この時代の古墳からの出土例もある。量産されるようになったのは江戸時代からといわれる。
と、あります。

散髪について、
「はさみ」も昔は「量産」されておらず、大変「貴重品」でした。そこで、江戸時代頃までは、女性は、極端に言うと一生髪を切りませんでした。お市の方の肖像画のように、髪をたらしていました。
しかし、江戸時代頃からは、「はさみ」も量産されるようになり、女性も多少は「はさみ」で髪形を整えました。

また、男性は、月代(さかやき)を剃るのには、武士は「毛抜き」や「短刀」などで整えました。庶民はもっぱら「毛抜き」でした。「毛抜き」はちょっと痛そう・・・でしたが、我慢したのでしょうね。
なお、「かみそり」で月代を整えたのは、一説には織田信長が最初とも言われています。

そうした時代以前は「露頭(ろとう)」と呼ばれる「石器?」も使われたようです。
「路頭に迷う」とは漢字が違いますので、お間違えのないように・・・。

「かみそり」は神聖な物という考え方があり、お坊さんでは、かなり早くから使用していたようです。
ただし、現代の「かみそり」もそうですが、最初の切れ味は良いのですが、だんだんと切れ味の悪くなり、「研ぐ」という技術もありましたが、鍛冶屋などは、そんな小さな物は相手にしなかったため、無理やり「こそげる」ようにして剃髪していました。「痛そう」・・・。

また、仏門に入る時にも髪を切ったり、剃ったりしますが、この儀式はお坊さんが行いましたので、「かみそり」を使用しました。

爪切りについて、
「はさみ」も使用されましたが、江戸時代中期までは「はさみ」は高級品であったため、武士やその家族は主に「短刀」で切りました。
庶民は小型の「ノミ」で切っていました。
今でも中国で露天商に「爪切り」の商売がありますが、やはり、「ノミ」でこそげるやり方をしている、とも聞きました。

ことわざに、
「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」
と言いますが、
あれは「夜の、行灯(あんどん)などの明かりしかない暗い中で小刀で爪を削っていると、思わぬ怪我をして(細菌が入り)、親より先に死んでしまうので、親の死に目には会えない」と言われたようです。

大正時代頃からは「ニッパ」が登場したようです。
http://www.suwada.co.jp/aboutus/tsumekiri-history.html

現代のような「折りたたみ式」は、昭和の発明品です。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

Wikipedia(NO2の方のサイト)にもあるように、
外国では、
紀元前1000年ごろの古代ギリシアのものとされるはさみが発見されており、古代から使われていたと考えられている。
と、ありますね。

日本では、
6世紀に中国を通して伝わったと考えられており、この時代の古墳からの出土例もある。量産されるようになったのは江戸時代からといわれる。
と、あります。

散髪について、
「はさ...続きを読む

Q戦国時代の人々の名前について

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。

ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか?

また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。
小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。
(苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています)
(また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います)

苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。
小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。

質問がわかりづらいかも知れませんが、
1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。
2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。
(農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。)
3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。
(農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など)
の3つ教えてください。
よろしくお願いします。

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は...続きを読む

Aベストアンサー

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分の人たち、名主クラスです。

次に中大夫・平大夫・五郎大夫など大夫が付く人が10名・・・中介・江介・三郎介など介の付く人が6名、「大夫」や「介」は古代の令制の官位の呼び方ですが、すでにこの時代には農民が、一定の年齢に達した時、幼名から改名する際に使用していたようです。

新検校・惣別当・安寿など名の付く人が3名・・・「検校」や「別当」「安寿」などは、ご存知のように本来、寺院や荘園・官庁の役職名ですが、やはりこの時代ではすでに農民のレベルでも名乗っています。

次に、かい丸・牛丸と「丸」の付く人が2名・・・「丸」は本来、幼名に使用する文字ですが、牛飼いなどの運搬業に携わる人は、成人しても使用していたそうです。

平細工・孫太郎細工と「細工」と付く人が2名・・・彼らは手工業の職人だったと思われます。

残り24名は、この時代の農民の一般的な名前と言える物・・・藤内・源内・中江・孫太郎・孫二郎・彦二郎・平二郎・藤二郎・弥二郎・中三郎・惣四郎・孫五郎など、この中の「彦」や「孫」や「弥」は全国的に使用されている最も一般的な文字です。
「平」「源」「藤」「中」は貴族の姓を名前に取り入れています。
その後につく二郎や三郎というのは、お察しの通り、大抵は出生順の「○郎」と付けたようです。
彼らは、小百姓層の人たちです。

以上、先にも書かせていただいたように、これらの名前はすべて、中世の惣村の農民の名前・・・一揆の起請文の署名です。
女性の名がないのは、一揆の場合の署名は、一家の家長が代表して行う事が多かったためだと思われます。

長々と書いてしまいましたが、少しは参考になりますでしょうか?

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分...続きを読む

Q戦国時代の武士の髪型?

 昨年のNHK大河ドラマ、功名が辻を見ていて気付いたのですが、信長の舘ひろしさん、一豊の上川さん、秀吉の柄本さん、登場初期の若かりし頃は、髪型がすべて頭髪が生えている状態(志村けんの殿様ヘアースタイル)で、髷を結っておられました。
 やがて年齢を重ね、立身して行くにつれ、前頭部、頭頂部の頭髪を剃った形で髷を結っていました。
 これは何か、当時の決まり事があってのことでしょうか?それとも、ただ、年を取ったからなのでしょうか?
 またタイトルとは異なりますが、落飾(出家)したねね、千代はドラマでは頭巾?を取った後、若干、髪を残していました。
 女性の場合、落飾(出家)した場合、男性のように丸坊主にはならないのでしょうか?丸坊主だから、尼さん用の白い布の頭巾をかぶっているものとばかり思っていました。女性の場合は昔でも、若干の髪を残していたのでしょうか?
 

Aベストアンサー

こんにちは。
記憶なので自信ないですが、確か、武士が頭頂部を剃るのは、兜をかぶる時の都合から来たものだったと思います。

本来の正装?では、頭には揉み烏帽子という柔らかい袋みたいな物をかぶって髪の毛を収めて、額で鉢巻のように烏帽子の紐を巻いて縛ったはずです。
今で言えば一番近いのは、剣道で面をかぶる時に手ぬぐいを頭に巻くのがよく似てると思います。

しかし時代が進むにつれて揉み烏帽子を省略していきなり兜をかぶるようになったので前頭部~頭頂部の髪が邪魔になり、剃るようになったのだったと思います。

女性の出家ですが、本来は頭をツルツルにするのではなく、耳の少し下で揃えて切るのを「尼そぎ(あまそぎ)」と言って、これが出家の作法でした。
なので、今のショートカットの女性はみんな昔なら尼さんという事になります。(笑)

頭に頭巾をかぶる作法があるみたいなので、その下は特に厳重な規定はなかったようですが、ツルツルにしちゃう人も割といたようです。
このあたりは流派(宗派)にもよるかもしれません。

Q室町時代の元結や髪紐について

多くの庶民は元結を使用していたようであると言うのはいくつか読んだのですが、そうすると「髪紐」も水引のことを指すのでしょうか。
「紐」とあるだけにこの場合はそれらしい細い麻縄のようなものを指すのかと思っていたのですがどうだったのでしょう。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。

奈良、平安、室町時代は、あまり得意分野ではなかったので、お答えの様子を見ていましたが、誰も回答がないようですので・・・浅学ながら・・・。

>>そうすると「髪紐」も水引のことを指すのでしょうか。

基本的には、古くは「麻の紐」を使ったことでは「共通点」はありますし、平安時代の稚児が「髪紐(元結・もとゆい、といいます)」を蝶々結びにしたことから、「水引」とも呼ばれました。

元結:
古くは、麻の細い紐を使用していました。
やがて、平安時代に入ると、製紙の技術が盛んとなり、麻紐よりも白く目立つことから、「こより」へと趣向が変わっていきました。
しかし、この「こより」は、雨に当たったり、汗をかいたりすると、非常に「切れやすい」弱点を持っていました。
ただし、何本もより合わせたりして、強度を出す工夫などはされていました。
江戸時代に入り、信州飯田の「文七」という者が、「こより」に「水糊」をからませて腰を強くし、さらには、光沢を出すために少量の「油」を馴染ませた「紙紐」を考案しました。そして、販路を江戸に求めたところ、「文七元結」と呼ばれて、大変な評判となった・・・ということです。(文七元結資料館より)
なお、落語にも「文七元結」という噺がありますが、これとは全く別のものです。

水引:
聖徳太子が摂政をしていた頃まで遡る、と言われています。
小野妹子が遣隋使として中国(隋)に派遣され、その答礼として裴世清(はいせいせい)という者が我が国に訪れた時、隋の皇帝の国書と貢物を朝廷に届けました。その品々は、長い旅の安全祈願として、紅白の「麻糸」でくくられており、これが「水引」の起源とされています。
日本では、それ以後「くれない」と呼ばれて、献上品や贈答品に紅白の麻糸で結わえて贈られるようになりました。
やがて、「くれない」も光沢のある「こより」を使用するようになりました。
そして、和紙で作られた「こより」に「水糊」を加えて強度を持たせるようにしましたが、これも「文七」の創意工夫だとも言われています。この「水糊を引く」から、次第に「水引」と略されて呼ぶようになったとも言われています。
また、水糊を引いたこよりは、連歌を書く用紙を綴じるのにも用いられ、紅や黄などの色合いが、
「水の流れに秋の木の葉が散り落ちて、紅や黄の枯れ葉が水に引かれるように流れている」
と見えたことから「水引」と呼ばれるようになった・・・とも言われています。
室町時代よりやや古い「鎌倉時代」の頃には、武家の作法を記した「宗五大艸紙(そうごだいそうし)」に、
「薄紙をたたみ重ねて進物を包み、それに金銀の水引をかけた」
と、記述されており、「水引」がだんだん「派手」になってきたことを窺(うかが)わせます。

こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。

奈良、平安、室町時代は、あまり得意分野ではなかったので、お答えの様子を見ていましたが、誰も回答がないようですので・・・浅学ながら・・・。

>>そうすると「髪紐」も水引のことを指すのでしょうか。

基本的には、古くは「麻の紐」を使ったことでは「共通点」はありますし、平安時代の稚児が「髪紐(元結・もとゆい、といいます)」を蝶々結びにしたことから、「水引」とも呼ばれました。

元結:
古くは、麻の細い紐を使用していました。
やがて...続きを読む


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