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介錯なしだった場合、お預けの屋敷で折り目正しく過ごしていたというような、あるいは、ひそかに別れの宴を催したような記録があるようですが、そういうことになれたもんでしょうか?

A 回答 (5件)

すみません。

逆らうわけではありませんが、三島由紀夫切腹の時は、森田必勝が介錯を試み、うまく行かず、大男の古賀浩靖が刀を取って、やっと三島の首が落ちました。その森田必勝も腹に三島由紀夫が使った短刀をあて、介錯を受けて死んでいます。
三島の短刀による傷はへソの下四センチぐらいで、左から右へ十三センチも真一文字に切っていたそうです。深さは約五センチ。腸が傷口から外へ飛び出していたとか。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所。森田は腹に十センチの浅い傷があったが、出血はほとんどなかたっそうで、検死官は、森田はかすり傷程度で、三島由紀夫の割腹がいかにすごいものか、その決意をうかがわせる、と言っています。

同様に切腹した人に太平洋戦争終戦時の鈴木内閣で陸相だった阿南惟幾がいます。この時は義弟の竹下中佐と一献交わし、14日夜、風呂にはいって身を清めたあと、宮中クーデタのシンボルに阿南大将をかつごうとやってきた井田中佐の両中佐の前で切腹、介錯を拒んで15日に死亡しました。首相の鈴木貫太郎は「いい男だな」といい、外相の東郷茂徳は「真に国を思ふ誠忠の人」と言ったそうです。そういう感覚が、まだ残っていた時代の人の行動、言葉として、興味深いと思います。これ以後62年間、現役閣僚の自殺はありませんでした。

同様に当時切腹した団体に、伝統右翼の大東塾14名がいました。塾同人は23日に酒宴(と言っても、静かなもの)、24日に共同遺書に署名、この日に代々木警察署幹部がきて思い止まるよう説得するも拒否。25日午前1時に食事(粥、漬け物、缶詰、味噌汁)、そして午前4時に代々木練兵場の十九本欅のところで古式に則った(神式に従って供物を捧げる所からはじめる)切腹をしました。純日本式の集団自決としては空前絶後のものです。2人が介錯をしてまわり、最期に1人を介錯した塾生は自刀。あとから来た(切腹の瞬間は立ち会わない)塾生に、皆が立派だったと言い残したといいます。

脱線していますが、切腹というものが昭和20年までは、少なくとも立派とみなされた、そして三島由紀夫の時は、事件として扱われた、世相の変化の例としてお納めください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
三島の切腹については、介錯ありと聞いています。しかし、お話しによって、相当自分の肉体にダメージを与えてから、十分その忠義の証を示した後に、首を落とされたということのようですね。
はらわたを見せるということが「忠義」らしいです。ですので、腹を開いてそれを見せる、その後で死ぬというのが切腹の精神らしいです。

鈴木首相というのは、やはり軍人だったのですね。「いい男だ」のせりふは効きます。介錯を拒む陸軍大将って言うのは、壮絶なものであり、また「本物」という言葉では追いつかないようなとてつもない人物像が浮かび上がります。

お話しの右翼団体の、介錯人というのがきついですよね。最後に一人でやらなきゃならない。このことについてもっと考えなければいけないのではないでしょうか。

また、もちろん、世相の急激な変化というのを如実に感じます。戦後四半世紀で価値観が180度転回したというのは本当でしょうかね。

お礼日時:2008/11/22 09:00

こんばんは。


NO3.です。

>>やはり、介錯なしでも、平然と死んでいけるという自信があったのでしょうか。武市半平太のように。

四十七士のように、討ち入る、あるいは、血判書を作った時点から「絶対的に」「死」を覚悟していた者にとっては、「死」・・・とくに「切腹」は怖くはなかったのでしょう。
しかし、血判書を作った後でも「脱落者」が出ていますから、「全く怖くない」と言ったら、やはり、「恐怖」にかられた人もいたでしょうね。
大石内蔵助や主税、あるいは、「心酔」しきっていた人は別として、やはり、人間ですから四十七士の中にも「恐怖」にかられながら、その時を迎えた人もいたでしょうね。

また、赤穂浪士とは関係ありませんが、豊臣秀次などは、父秀吉から「切腹の命」を受けてから恐怖の日々を送り、2ケ月近くも「引き伸ばし」を行っています。そして、いざ「切腹」となった時には、実際には小刀で腹を刺せず、腹を刺す真似をした瞬間に介添え役が首を刎ねた・・・とも言われています。

戦後に起きた、三島由紀夫などは、介錯なしで自決しています。

現在は「切腹」は禁止されてはいますが、私は、やはり、「死」に対しては「恐れ」があります。それが、首吊りであっても、溺死などであっても。また、病死であれば、なるべく「苦しまない」で死んでいけたら・・・と、思っています。凡人の「浅はかさ」ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
恐怖と戦いながら、でしょうね。
介錯ありだとかなしだとか言う条件で討ち入ったわけでもないでしょうね。

お礼日時:2008/11/22 08:54

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>介錯なしだった場合、お預けの屋敷で折り目正しく過ごしていたというような、あるいは、ひそかに別れの宴を催したような記録があるようですが、そういうことになれたもんでしょうか?

(1)「切腹」は、介錯が無い場合は、非常な「苦痛」を伴い、戦国時代や江戸時代、あるいは、それ以前からも、「介錯人」を付けることが多くなっていました。
(2)壮絶な切腹の例としては、あくまでも「逸話」ですが、
★柴田勝家:
天正11年4月24日、秀吉の大軍に包囲された居城の北の庄城で切腹。享年は57才など諸説がある。これに先だつ21日、勝家は信長亡き後の雌雄を決する賤ケ岳の戦いで秀吉に大敗。わずか百騎ほどの手勢を従えただけで、北の庄に帰ってきた。秀吉の追撃は厳しく、23日には本城に迫った。勝家はもはやここまでと、一族郎党を呼び集め、別れの宴をした。そして妻のお市の方の三人の連れ子(茶々、お初、小督)を城から脱出させた。翌日の昼頃、秀吉が総攻撃を開始すると、勝頼は精鋭200人と天守閣に立て籠もり、果敢に防戦に務めた。この時、天守閣は旗指物で飾られていた。勝家は九重にした天守閣の最上階に上がり、包囲している秀吉の兵に「自分の切腹を見て、後々の参考にせよ」と呼びかけたという。勝家は天守閣に火を付けさせると、お市の方を刺し殺し、次いで側室などもすべて始末してから、自分も切腹して果てた。
★別所長治(べっしょながはる):
秀吉が三木城を攻略した時の作戦が「干殺し作戦」だった。城を包囲し、食糧の補給を断ってしまった。城中の食糧が尽きて、城兵は飢餓の為に動けなくなった。そこで、秀吉に「この私と兄弟、叔父が切腹するので、飢えた城兵の命だけは助けて欲しい」と申し出た。別れの宴ののち、長治は白装束に身を包み、4人の子を刺し殺した上で切腹し果てた。
★仁科盛信(にしなもりのぶ):
高遠城に籠城していた武田の勇将、仁科盛信らは、落城間近と知ると急いで酒盛りを始めた。その最中に仁科盛信は切腹した。この時、「酒の肴に」と言って自分の内臓を掴んで、差し出した。その直後に落城、武田氏も滅亡した。
★武市半平太:
武市半平太が選んだ切腹は三文字腹といわれる最も壮絶な方法で、横一文字に腹を3度切るのである。十文字斬りよりさらに過酷な方法で、いったん刀を抜いて再再度腹に突き立てるため、完結したものはいないといわれていた。
武市は切腹の君命に対し、「大殿さまの仁を得て、武士らしく死を賜る」と答え、この方法で己の武士道を完結させた。

などが挙げられますが、

(3)さて、赤穂浪士の切腹についてですが、
彼らは、死を常に意識して生きる“守死”を心のよりどころとし、死に時を見誤らず、いかに見事に死ぬかという一点を凝視した。こうして死は、武士にとって真価を問われる人生最大の関心事となりました。起つべきときに起ち、死ぬべきときに死ぬのが武士であり、死は決して不名誉なことでない。見事な死とはすなわち「切腹」である。幕末でも、多くの武士は切腹を名誉の死とし、死を恐れず、従容として割腹する心意気を武士道美学の究極とした。
(4)つまりは、赤穂浪士たちは、討ち入りをする時には、すでに、「死」を覚悟して臨んでいたと思いますので、それが「罪人」としての
「斬首刑」であろうと、「切腹」であろうと、甘んじて受け入れたと考えます。幕府の決定が「切腹」という「武士として死ねる」ことは「本望」以上の何ものでもなかったのではないでしょうか。
なぜなら、斬首は武士にとって惨めである。両脇を抱えられ、後ろから首筋を押さえつけられ無理やり首を前に突き出す格好をとらされ、首をおとされる。その後は衣類を剥がれ、甕の中に押し込められる。完膚なきまでに武士の威厳が剥奪されるという意味で、実に悲惨なものです。
(5)彼らは、まず初めに、幕府が浪士たちを一介の「素浪人」ではなく「武士として」それも、大名などと同じように扱われて細川、水野、松平、毛利の各家にお預けになった時点で、「誇り」と考えたのではないでしょうか。一介の素浪人であれば、町奉行所などへ引き渡されての「処刑待ち」になっていたでしょう。
(6)こうした、もろもろのことを推量すると、彼らは各家においても「心穏やかに」「粛々」と「死」を待ったのではないでしょうか。
(7)彼らを預かった細川、水野、松平、毛利の各家の記録で、特に、大石内蔵助を預かった「細川家記録」では、
「大石殿、食喰(しょくじき)につき、無用な接待を望まず、朝夕、一汁一菜を所望す」
と、あるように、各家では、赤穂びいきで、「豪勢な?」もてなしをしようとしたが「断られた」ようですね。
また、浪士の中で最年長の堀部金丸(弥兵衛)も、同じく、細川家にお預けとなっていましたが、
「このような馳走では、腹を召す時、刃(やいば)が通らぬわ」
と、言って皆を笑わせたような「逸話」もあります。
現代で言う「メタボリックシンドローム」になってしまうと言うことでしょうか。確かに、運動といえば、庭の散策くらいで、あとは、何も身体を動かすことがなかったので、毎日毎日、豪勢な食事では、どのような人間でも「メタボ」にならない方がおかしいのかも・・・。
(8)とにかく、彼らは、大名などと同じように扱われたことに対して、日々、「格式」を重んじて、「赤穂」という名を汚さないように、「軽率」な行動は一切しなかったようです。
ただし、碁盤や将棋盤などは貸し与えられ、それに興ずる者もいたようです。
(9)細川家の記録では、元禄16年(1704)2月3日、幕府より使者が来て「切腹」の命。2月4日夕刻より一人ひとりが「切腹」に臨むこととなりましたが、「切腹」の刻限が近い頃、大石が、「水杯(みずさかずき)」を所望。それに対して、細川家から中々用意がされず、「刻限も近い故、早々にご用意願いたい」との申し出があった。
ところが、細川家では、「死の恐怖」を少しでも「まぎらわせてやりたい」との思いがあったのか、せめてもの「最期の杯」として本物の「酒」の「燗」をしていたとか・・・。大石は「この期におよんでまでの数々のご配慮重々かたじけなく存ずるが、死に挑むは水杯が常道。素焼き(かわらけ)の杯で結構」と、応えたと言われています。
(10)あなたの言われる「ひそかに別れの宴を催したような記録」は、やはり細川家の記録で、2月3日夕膳に「何か」はわからないのですが、一汁一菜にもう一品が追加されたような記載も見られます。
これのことではないでしょうか。
お預けになった日から、最期まで「酒」は一切呑んだりはしていないようです。
また、「大石殿、主税殿(大石主税)と一度の交通ありて・・・」
という記載もあることから、「絶対に迷惑をかけてはならない」「酒を所望してはならない」など心得の書状を出したものと考えます。

(よもやま話)
(1)討ち入りをしたのは元禄15年(1703)12月14日夜となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。
(2)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。
(3)しかし、見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(一説には、内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、そして、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われたとも言われている。また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。
(4)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。
内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことが、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、「藩と藩の争い」なのだ、と訴えたのです。
評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
(5)直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。
しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。
そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。
この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けと裁定を下した。
(6)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。
(7)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しになっていた者たちも、全て、江戸へ帰っています。
(8)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。
(9)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。

あなたのお役に立てたでしょうか。
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この回答へのお礼

やはり、介錯なしでも、平然と死んでいけるという自信があったのでしょうか。武市半平太のように。

お礼日時:2008/11/19 16:28

質問がよく理解できませんが、



「切腹」の命令が出たら、介錯付きで・・決まり。
それ以外は切腹とは言わない。
武士の体面を貶めるなら、磔・獄門等他の手段がある。
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この回答へのお礼

新撰組の切腹などは、介錯なしでやらせたようです。というかそれが本来の姿ですよね。

お礼日時:2008/11/19 16:26

武士は子供の頃から切腹の仕方を教わります。


死についても教わるそうです。
ですので武士はいつでも死を受け入れることが出来ました。
覚悟が出来ているので怖くなかったそうです。

今の社会では考えにくいですね。
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この回答へのお礼

介錯なしでもでしょうか?
それはものすごい精神修養でしょうね。

お礼日時:2008/11/19 16:25

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