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満州国建国時、アメリカの中国における権益は大したことなかったんですか?

質問者からの補足コメント

  • そういうお話を前提にすると「中国大陸におけるアメリカとの権益争い」という、日本が泥沼にハマっていく経緯の説明も、見直さないといけないような気がしますね(汗)

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/09/09 14:36

A 回答 (2件)

中国における権益どころか、戦前のアジアにおけるアメリカの権益は唯一の植民地であるフィリピンだけで、アメリカは植民地獲得において、英仏に比べて大きく出遅れていました。

 それで、当時のルーズベルト大統領が目を付けたのが中国の満州でした。 ところが、ご承知の通り、日本が満州を奪って、満州国を建国してしまいました。 自分が狙っていた美味しい獲物を横取りされたことに激怒したルーズベルトが、日本への復讐のために、日本が開戦せざるを得ない状態に追い込んでいったというのが、太平洋戦争開戦の真実だという説もあります。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

大変興味深いご解説をいただき、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2023/09/14 08:50

No.2の回答や、それに対する補足を考えるのならば、次の説明も読んでください。



防衛研究所
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/foru …
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世界恐慌の深刻な影響は、1920年代の米国人の孤立主義を強化させた。
米国は、西半球を例外として世界情勢に関与すべきでないという信念が国家組織に深く根付いていた。
このような姿勢がまさに1941年12月7日に至るまで多くの米国人の思考を規定していたのである。
このように1939年の米国の戦略状況には、現在と比較すると際立つ3つの側面がある。
第一は、1930年代後半にアジアや欧州で勃発した種々の恐るべき紛争に中立の立場を維持することが米国にとってもっとも利益になるばかりでなく、そうした姿勢こそが道徳的にも求められるものであると固く信じていた。
第二に、米国の軍事力は世界中に広がりつつあった恐ろしい戦争に対して、少しばかりの役割りを果たす準備が明らかに整っていなかった。その戦闘能力から見て米国陸軍は、世界的にはボリビアやウルグアイと同一レベルであり、配備可能な軍事力は最低限のものに留まっていた。確かに米国海軍は相当な再軍備プログラムを開始したが、それは、米国と他の諸国との間の「防壁を維持したいという孤立的願望の表れであった。第三は、米国経済は大恐慌から徐々に抜け出しつつあったが、米国が4年以内に世界最大の海軍力及び空軍力、そして巨大な陸軍力を構築し、同時に、英国とソビエトに戦争を継続させる武器及び原材料を大量に供給することでこの両国の戦争支援をするだけの力を備えるとはおよそ思えなかった。
1930年の米国の戦略的意思決定手段は、やはり米国が迫り来る世界大戦に主要アクターとして参戦するとは思えない程度のものであった。米国海軍は、日本との戦争の可能性を明らかに重視したが、大西洋で再度ドイツ海軍Uボートと戦う準備は、思想的にも物質的にも重視されていなかった。他方、陸軍の戦略的見解は統一されていなかった。
ドイツ軍との戦いの可能性を考えた者もいれば、米国の海岸線を防御することに固執する者もいた。陸軍の準備態勢がお粗末なことから極東での米国の権益を放棄することに賛成する論者さえいた。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A4%E7%AB%8B …
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南北アメリカ大陸などのアメリカが権益を持っているところ以外の地域については、不干渉を原則とした。これは、アメリカは大洋の向こうにある国々と軍事的なかかわりを持つ必要が薄かったからである。また、移民国家であるアメリカに不必要な内紛が起こらないようにするためでもあった。
つまり、孤立主義は「アメリカ合衆国一国主義」「アメリカ合衆国単独行動主義」の消極的側面とも言える。モンロー主義の時代は南北アメリカ大陸の権益の独占を目指し先住民の掃討・米墨戦争をした「アメリカ合衆国一国主義」「アメリカ合衆国単独行動主義」の時代であるが、南北アメリカ大陸以外には不干渉の立場をとったため、ヨーロッパにとってはアメリカ合衆国の「孤立主義」の時代と言われる。
先住民掃討が完了した1890年の「フロンティア消滅宣言」前後からはアメリカ合衆国は太平洋にも権益を求め、米西戦争の結果キューバを保護国化し、フィリピン、プエルトリコ、グアム島などを植民地として取得しても、この原則は変わらなかった。
第一次世界大戦後、ウッドロウ・ウィルソンの下で一時的に積極的な国際関係を構築しようとする動きがあった。しかし、アメリカ合衆国連邦議会が国際連盟への加盟を否決するなど、アメリカ国民の支持は得られなかった。
対独戦争参戦を目論むフランクリン・ルーズベルト政権やロックフェラセンターに事務所を構えた英国安全保障調整局の工作により、非干渉主義の言論人や有名人は排斥され、干渉主義称揚映画(典型的な作品はアルフレッド・ヒッチコックの『海外特派員』)が制作された。
孤立主義の終焉
第二次世界大戦が始まっても孤立主義の支持は根強く、是非を問う論争が続いた。しかしながら、この論争は1941年12月7日(米国時間)の大日本帝国による真珠湾攻撃によって終息し、アメリカは第二次世界大戦に参戦した。
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