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「メシ食った」「腹減った」が何となく行儀悪い言葉と思えるのは地域せいでしょうか。

三重県在住の女性です。
子供の頃に「飯食いたい」「腹減った」と言うと、親にも、そして祖父母にも「言葉遣いが悪い!ご飯食べたい、お腹空いたと言いなさい」と育てられました。大人になった今、確かに同じ地域のまわりの女性にはご飯を飯、お腹空いたを腹減ったという人はいません。

しかし、東北地方に実家がある関東在住の友達は、改まった場所ではさすがに言わないけれど親しい中ではメシや食うが行儀悪いとは思わないよと言っていました。実際彼女の田舎では「冬は寒くて口がこわばるからなるべく短い言葉で済ませたい」という理由で、親も「はよ食え」と普通に言うそうです。
これはその友達の家庭が独特なのか、これが普通なのかはわからないのですが、基本ご飯を食べるを「飯を食う」というのは行儀が悪い言葉になるのでしょうか。それとも行儀が悪いかそうでないかの価値観は地域性でしょうか。

A 回答 (7件)

たぶん、私は質問者さんと同じ価値観に躾けられました。


地域性以前に、親の価値観や品性、付き合う人のレベルなんかがあると思います。

地理的にそういう人が集まる特性があれば地域性は生まれるでしょうが、どちらかと言うと、『類は友を呼び』とか『同じ穴のムジナ』とか『朱に交われば赤くなる』のたぐいの、付き合う人のレベルや人間関係のほうが支配性が高いのではないかと私は思います。



言葉や言葉遣いと言う論点からは外れますが、『子どもを躾ける』とか『子どもに品性を持たせる』とか『言語能力をもたせる』といううことについてお話しさせてください。



『言語能力をもたせる』というと、近年話題に上ることがある英語教育のしかたの話題にもつながるのですが、私とカミさんは、これは『子どもの躾け』とか『子どもに品性を持たせる』とかと同次元で考えるべきじゃないかと思ってウチの子どもたちには接してきました。

理由の一つは、人が最初に言語を身につけるのは学校でではなく家庭の育児の過程でであり、それは母国語に限らず、外国語についても言えると思ったからです。

つまり、言語能力をもたせたければ、しつけなどと同じように、幼児期の育児の過程から考えていくべきだと思ったのです。

そして、その時考えたのは、我々は言語やマナーや品性を陽に教えられて育ったのではなく、子どもが置かれた環境から子供の方が自然に感じ取って身につけている、ということでした。

なので、我々は、そういった『身につけるといいと思う言語やマナーや品性がある空間に子供を置く』ということを大事にしようと考えたのです。

具体的に言うと、そういう人たちが暮らす場所に我々も暮らし、そのコミュニティの生活の中で子どもたちが自分で吸収してくれることを狙いました。



私はプロファイルに記した通りの在米の隠居爺です。
私もカミさんも日本生まれの日本人で、我々が若いころに考えるところがあって当地に渡って来ました。
金持ちではありません。

我が家がある町は半径数キロの範囲に約6万の人が暮らすコンパクトなところです。
2~300キロ四方の平野の真ん中にあります。
大都会は遥か彼方で、隣町でさえどちらの方向にも5~60キロは離れており、その間に人は住んでいないという『ポツンと一軒家』のような町です。

しかし、だからと言って過疎の町ではありません。
3万人近い学生・研究者を擁すマンモス大学を中心にした町で、そこそこ優秀と言うことから、世界中から教員・学生・研究者が集まってきています。

人口の半分が学生・研究者なわけですが、その残りもほとんどがその大学の教職員やその家族と言うことで、町に暮らすのは世界中から集まってきたそこそこ教養・品格・民度も高い人達です。

しかし、残念なことに日本人はほとんどおらず、居るのはウチの家族のほかには片手で足りる数の研究者の家族が住んでいるだけで留学生はいませんから、この町には日本人コミュニティはありません。

我が家には当地で生まれ育った子どもたちがおり、まだここの大学院に残っています。

子どもたちは、家の中ではテレビ・ラジオ・新聞を除けば日本語だけで暮らしてきました。
我が家は子どもたちの学齢前に2年ほど日本の首都圏に暮らしたことがあり、その期間、子どもたちは日本の保育園に通わせました。

アメリカに戻った後も、小中高校の12年間、週末の土曜日の午前中だけ近隣の町に開かれる日本語補習校にも通わせました。
なので、日本語はネイティブです。

日本の保育園に通った2年間を除けば、我々はずっとアメリカの田舎で暮らしてきました。
そこで子どもたちはいわゆる現地校と言われる当地の公立の小中高校に通ってましたから、英語とスペイン語もネイティブです。



子どもたちにとってのこの町での日常生活は、近所の幼馴染の子どもたちと暮らすという、どこにでもあるものでした。

ただ、その幼馴染たちが日本やアメリカの他の地域に居るのとは違いました。
ここが世界中から集まってきた人たちのコミュニティということで、付き合った家庭の言語・風俗習慣・食事情などが全く違っていたのです。

よくお付き合いしていたのは、アメリカ人のほか、フランス人、中国人の家族の方々でした。
我々は、子どもたちが良く出入りさせてもらっていた人々とは家族ぐるみで付き合いました。

子どもたちの年齢はそう大きくは離れていませんでしたがバラバラでしたから、子どもたちにとっては、お兄ちゃん、お姉ちゃん、妹や弟がいっぱい居る大家族のようなものでした。

そこでは、放課後・週末・親が仕事や付き合いで家を離れるときなどに、子どもたちを相互に預けたり預かったりするのをよくやっていました。
その時にはいくつかのルールを決めてました。

たとえば、他の家で遊んでもらったり預かってもらったりした場合、言葉や食事やテーブルマナーなどの生活習慣はその家に従う、というようなものでした。

なので、我が家に来た場合、言葉は日本語、食事を出すときは和食、食べるときはお箸、飲み物はお水かお茶、と言った具合でした。
言葉がわからないとか、食べ方がわからないなどと言うのは、子ども同士で話し合ったりして、性別や年齢の枠を超えて子どもたちで結構仲良くちゃんと助け合ってました。

そういう生活をしていると、子どもは言葉なんて結構身につくもんです。

ウチに良く出入りしていた子供たちは、日本語も結構流ちょうに話すようになってましたし、食事に焼き魚を出しても器用にお箸を使って小骨を取ってきれいに食べていました。
無作法な日本の大人よりは遥かに品がよかったと思います。

ウチの子どもたちもそうで、中国からの家族が中国に帰省するときにウチの子どもたちを連れて行ってもらったのですが、行った先の中国でも現地の子たちと言葉の壁なく遊べていたと言っていました。

大学になると、単位を早くとりたくて夏休みにフランスの大学の夏季集中講座に行くと言うので田舎の大学に一人で行かせましたが、いろいろな手続きや2か月近くのフランス語での授業や実習をこなしてました。

帰りには数日イタリアに旅行してから帰りたいと言ったので行かせましたが、『イタリア語を初めて聞いたけど、フランス語とスペイン語を足して二で割ったような感じで困ることはなかった』と言って帰ってきました。

彼らは小さいころから本を読むのが好きで、歴史ものを通してギリシャやローマの神話や歴史に興味を持ち、親の知らない所でラテン語も覚えていました。
パソコンやネットがある今日では、やる気さえあれば言語なんですぐに覚えてしまうようです。

ウチの子どもたちやその幼馴染たちは、高校を出るまでそうして暮らし、結果として皆、英語・スペイン語・日本語・フランス語・中国語をほとんどネイティブレベルでマスターしていました。
他にお付き合いした方々から覚えたり、ラテン語のように子どもが自分で覚えたものを入れると、日本の方々の英語程度でよければ、ウチの子たちはラテン語のほか、ドイツ語やオランダ語なんかも使えますね。



私がこの国に渡ってきてから、我々はどこに暮らすのが良いかを真剣に考えました。
今暮らす町は、我々が求めるいろいろな要素を満足できるところとして選びましたが、そこには、子どもたちを『自然に覚えられる環境に置く』と言う観点もありました。

人が大人になるまでに身につけるべきことにはいろいろあります。
ここには、勉強習慣、趣味、友達・年代・人種・風俗習慣などの違う人との付き合い方などを自然に覚えられる世界があり、子どもたちは言葉と一緒にそれらも抵抗なく覚えてくれました。

『習わせる』ではこうはいかなかったと思います。
勉強で覚えるのではなく、生活を通して覚えるべきものですから。
『孟母三遷の教え』とか『門前の小僧、習わぬ経を読む』ということでしょうか。

それをしてきて、今子供たちは自信をもって自分の生活に歩みだせているように思います。
隠居の身故、これから彼らにしてやれることはあまり多くありませんが、彼らなら大丈夫だろうという安堵感はあります。

親バカかもしれませんが・・・



『言葉や言葉遣い』というお題から想起した、子育てが大事だと思ってきた我が家の経験からのコメントでした。
お目汚しの長文で失礼しました。
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質問者さんの考えでまちがいないと思います。


標準語しか使わない/使えない者ですが、

標準語では
>[補説]現代語では、食する意では
>「食う」がぞんざいで俗語的とされ、
>一般に「食べる」を用いる。
>「たべる(たぶ)」はもともと
>謙譲・丁寧な言い方であったが、
>敬意がしだいに失われ通常語となった。
と「食う」だけは補説がついていました。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%A3%9F%E3%8 …

「飯」に関してはとくに
補説はついていませんが、
個人的には使いません。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%A3%AF_%28% …

「メシを食う」は
男言葉、それも親しいあいだでの
口語だと思っています。

goo辞書にはとくになにも書かれていませんが
「腹減った」も同様です。

男性でも改まった席では
「メシ食った」「腹減った」は
あまり使わないのではないでしょうか。

同様に気になるのが、
食べ物が「おいしい」というときの
「うまい」です。
個人的には使わないし、これも男言葉で、
俗語に近い口語だと認識しています。

>[用法]うまい・[用法]おいしい――
>「おいしい」は女房詞系で、
>もっぱら味がよいの意の女性語として成長した語。
>「うまい」より丁寧・上品な言い方として、
>現在も日常の話し言葉で多く使われる。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%97%A8%E3%8 …
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メシは俗語であるからして


概ねあなたの認識は正しい

高貴な人は決して口にしないが
俗人と相まみれる時は
郷に入っては郷に従えで
の方が意思疎通に淀みがない

その手の言葉は
方言、地域特性はあるかもしれないが
男言葉のようにも思えるから
特に女子は吐かぬ傾向かな
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どうなんでしょう・・


私の高齢の母親は「飯を食う」は言いませんが、
「腹へっちまった」などと言います。昔からです。
岐阜の田舎の方の出です。
祖父は早くに亡くなりましたが小学校の教頭で
祖母も所謂乳母日傘で育った人だったそうなので
母もそう育ちが悪かったというわけではないと
思うのですが・・
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言葉遣いは綺麗な方がいいかもしれないけど、それくらいいいんじゃないかなとも思います。



うちの息子も口悪いけど、夫も私も普段は方言なので。
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年配のかたからすると行儀が悪く感じるのだと思います。


花村萬月と言う作家さんの小説で読んだことがあるのですが、若い女性の会話をリアルに活字にすると、ひと昔前のチンピラ同士の会話と変わらない。
と言ってます。20年以上前の作品ですからメシ食った、ハラ減った、などは今では若い女性のスタンダードな言い回しではないでしょうか。
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地域と言うよりも、その家の「民度」によるでしょうね。



「飯」「腹」というのを普通に言う時点で、その家自体がぶっきらぼうで礼儀の点で疑問があるでしょう。
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