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徳川家康は風水に従って生きていました。

一方で、陰陽道に従って生きていた侍はいますか?
いたとしたら、それは誰ですか?

また、陰陽道に従って生きていた侍がいたならば、家康が天下を取るまでの戦いは、風水VS陰陽道の戦いであったと云えるのではないですか?

それは資本主義VS社会主義みたいなもんですか?
いえ、仏教VSキリスト教みたいなもんですかね?

A 回答 (5件)

おみくじで占って出陣した武将が数多いますから、陰陽道が浸透していた


と言えるのでは?日本では風水と陰陽道はごっちゃで区別が付かないです。
中国の風水師に依れば京都は風水の考えで都が創られていると言います、
桓武天皇が風水の最大の御仁でないでしょうか。
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他を排する一神教のキリスト教と違い、寛容な仏教は布教の為に
他国に攻め込んだりしません。
多神教であるヒンズー教のインドも他国に攻め込みません。

現在世界を騒がしているのは、ヤハウエーとアッラーと呼び名が
違うが同じ神様の一神教のキリスト教とイスラム教です。
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この回答へのお礼

>おみくじで占って出陣した武将が数多いますから、陰陽道が浸透していた
と言えるのでは?

陰陽道に従って生きていた侍が、数多くいるというわけですね。


>日本では風水と陰陽道はごっちゃで区別が付かないです。

これはつまり、本来、風水と陰陽道は別のもんやとおっしゃってるようなもんやございませんか⁉️


>中国の風水師に依れば京都は風水の考えで都が創られていると言います。

それならば、なぜに家康は京都にあまり住まなかったのでしょうね。とくに思うのは、なぜに晩年を静岡で過ごしたのでしょう。京都のほうが、気の利いた造りになっているんでしょうから、住み心地良さそうに思うんですが。
鬼や邪気があふれていて、逆に怖かったんでしょうか?信長も京都で殺られましたし。
家康は、たとえば、鬼が棲むといわれる京都の愛宕山に行ったことがあるんでしょうか?
また、一条戻り橋を渡ったことがあるんでしょうか?


>桓武天皇が風水の最大の御仁でないでしょうか。

桓武天皇は安倍晴明よりけっこう前の世代の人ですね。
風水のほうが陰陽道よりひとあし早く生まれたんですかね?


>他を排する一神教のキリスト教と違い、

駄目な宗教ですね。どの宗教も道徳や人情を教えるええもんやと思っていたんですが、微妙に考えの違いがあるもんなんですね。恐ろしいですね。



>現在世界を騒がしているのは、ヤハウエーとアッラーと呼び名が違うが同じ神様の

ヤハウエーとアッラーってイエスキリストやったんですか。



勉強になります、いろいろ教えてくださいまして、ありがとうございます。

お礼日時:2023/10/25 13:43

> 徳川家康は風水に従って生きていました。



なんでそう思ったりしたのです。
wikiによると
生い立ち:1542年12月26日、岡崎城主松平広忠の嫡男として岡崎城において生まれる。生母は緒川城主水野忠政の娘・大子。幼名は竹千代。胞刀の役は酒井政家、蟇目の役は石川清兼が務めた。
3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元が尾張国の織田氏と同盟する。織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は大子を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。
人質として今川家、そして織田家へ:1547年8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない。また、近年の研究では、1547年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。2年後に広忠が死去する。
今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。なお、安城松平家の家督は、広忠が亡くなった時点で竹千代が継承していたと考えられている。そのことが今川家中において、既に領主となっていた竹千代に対する人質として扱いが領主の子に対する通常の人質の例とは異なった理由として考えられる。

どうみても時勢に流され、親や類縁の意に影響されて生きていたのであって、風水などに従って生きていたのではないでしょう。
武田、織田、秀吉などの関係でも、政治・軍事の判断がメインでしょう。
家康が江戸に入ったのは1590年、それから本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を作り、関ヶ原で勝利して、1603年慶長期天下普請に入っています。 家康が天海を利用しはじめたのが1609年頃で、おそらく天海との遭遇も1600年前後でしょう。 天下普請の基本計画は、家康自身か藤堂高虎でしょうが、家康自身がそれ以前に風水重視で縄張りしたとは考えにくいです。現状と周辺環境を実利中心で判断したでしょう。
https://www.streetmuseum.jp/historic-site/shiro/ …

戦乱と術数、地方勢力、宗教各派、公家、あらゆるのが自益を大事にダイナニックに動きかねない状況を生き延びる武力勢力の中心人物が風水に生きたら、潰されるだけです。
政権、政情がそれなりに安定し、体制も周辺が維持していくだけでなんとかなる状況になれば、風水に生きたところでなんとかなるけれど、そうでなければ、悠長なことにかまけてはいられないです。
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この回答へのお礼

ウィキペディアに風水の文字がなかったとしても、別のところにあります。
たとえば
https://uramori.jp/column/choose-fortune-telling …
にあります。
「家康 風水」と検索したら、たぶんもっとあると思います。


ありがとうございます。

お礼日時:2023/10/23 20:57

日本の風水は、陰陽道の陰陽五行説を基本にしていますから、風水=陰陽道だと言えます。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
シンプルにバシッとわかって有り難いです。

お礼日時:2023/10/25 03:49

日本で「風水」は陰陽道の一部として古代から取り入れられています。


鎌倉幕府から幕府お抱えの陰陽師がいました。
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この回答へのお礼

風水=陰陽道と考えてよろしいですか?

お礼日時:2023/10/22 00:00

そもそも風水や陰陽道などと言うものは何の根拠もなく、ただただ民間に信じられている信仰です。

人はたとえ嘘っぱちでも何かに頼らないと安心できないのです。
強いて言えば、あみだくじVSこっくりさん、くらいなもんですね
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この回答へのお礼

>ただただ民間に信じられている信仰です。

それはちょっと違うと思いますよ。
風水に従って生きてきた家康が天下を取ったことで、風水が本物であることが証明されたのかもしれません。

まあこれは言いすぎですが、本物である可能性が高まったとはいえますよね。

ありがとうございます。

お礼日時:2023/10/22 02:24

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