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昭和天皇とダグラス・マッカーサー元帥の初会見の際に、昭和天皇が命乞いせずに、むしろ日本国民を救済を願い出たことにかなりの感銘を受け、昭和天皇が帰る際には見送りに出たというのを結構読みました。

ですが一方で、それは創作された美談であり、マッカーサーは昭和天皇を見送ってない。 画像に残っているのは、他のアメリカ人将校だったとか。
どうなのでしょう、マッカーサーは昭和天皇との初対面の際に見送っていないのでしょうか? それとも画像には残らなかったというのみで、マッカーサーはちゃんと昭和天皇の帰りを見送りに出たのでしょうか?

昭和天皇やマッカーサーに興味ある人など、皆さんからのいろんな回答を待ってますね。

A 回答 (7件)

昭和天皇のメンタルの強さに感心するものです。


自分は共産主義者ではありませんが、明らかに昭和天皇は戦争犯罪人として処刑されるべきだったと思います。
なんとなれば多くの洗脳された人々が「天皇陛下万歳」とか叫びながら死にましたからね。
色々と言い訳はあるでしょうけど普通の神経ならオメオメと生きながらえないでしょう。
仮に、日本国が天皇制を望むのだったら息子が継ぐとかやりよーはあったんだろうなぁーと。
兎に角生きながらえても精神を病まなかったというのは流石です。
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この回答へのお礼

解決しました

あはは、昭和天皇はメンタルが強かったんですね。 回答ありがとです。

お礼日時:2024/02/18 09:54

神聖ドイツ帝国って何だろう。

神聖ローマ帝国(1806年まで)とドイツ帝国(1871年~1918年)との混同でしょうか。
マッカーサーが第一次世界大戦に出征したのは、野戦軍の指揮官としてだった。激戦を闘い抜いている。「戦後処理のためにドイツに赴任した」って本当なのか。

1918年11月10日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(直前に退位した)は、中立国オランダへ亡命した。まだマッカーサーは西部戦線で戦っていた。ドイツから見ての西部戦線であり、フランス東北部(ドイツとの国境)の辺りである。
休戦が成立したのは11月11日だ。つまり、ヴィルヘルム2世とマッカーサーは会ってないだろう。会ったというなら何月何日にどこで会ったのか? 安全地帯へ亡命した後、わざわざ敵将に命乞いする奴がいるの。

検索してみたところ、複数のネトウヨサイトで、これと同じエピソードがマッカーサーの父の事として語られていた。父も陸軍の将官だった。
しかし、父は1912年に亡くなっているので、話にもなりゃしない。
そこで、気を利かしたつもりで、息子のエピソードにすり替えたのか。さすが、田舎芝居のような話に感銘を受ける人たちは、することが違う。
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この回答へのお礼

ありがとう

あ~、ガセ情報も多いんですね、気を付けます。回答ありがとです。

お礼日時:2024/02/18 09:55

マッカーサーが見送りに出たかどうかがそれほど重要なのでしょうか?


そもそも「マッカーサーが天皇の言葉に感銘を受けた」という点からして、作り話かもしれません。

箇条書きでまとめると、天皇が自らの責任を認めた発言は、
(1) マッカーサー回想録にある。
(2) 2002年10月17日に外務省が公開した公式記録にはない。
(3) 2002年8月5日朝日新聞が公表した「松井明手記」によれば、当初は記録にあったが奥村勝蔵が削除したと、松井は奥村から直接聞いたという。奥村、松井は外務省高官。奥村はこの会見の通訳だった。松井は奥村の後任。
(4) しかし、松井の言うように奥村が削除したかどうか、研究者の間でも定説がない。「当初から記録になかった」、「その発言自体がなかった」と考えるほうが、理に適っている。

それでは(4)について解説します。まず、信頼性の大小から言って、
日本外務省が公開した(2)の会見録 > (1)のマッカーサー回想録
である。マッカーサーは自分を美化する癖があり、回想録も誇張が少なくない(大部の本で私は読んでませんが、訳者本人が下巻366ページで次のように注釈しているそうだ。マッカーサー自身、回想録を「完全な『歴史』とは考えてなかったものであり、読む方でも『歴史』として受取るべきではない」)。

敗戦当時の日本の最大関心事は「国体護持」だった。これに対し、天皇が自らの戦争責任を認めることは、国体(天皇中心のお国柄)を危険にさらすことに他ならない。昭和天皇は、発言していいことと悪いことの区別がつかなかったのだろうか?
また、当時からシビリアン・コントロールの米国では、マッカーサーよりも大統領(およびホワイトハウス高官ら)に決定権がある。天皇を戦犯にするか免責するかという重大事は、マッカーサーが「天皇の言葉に感銘を受けた」くらいでは左右できない。この会見(天皇のほうからマッカーサーに会いに行った)の前より、「天皇免責」は米上層部の方針だった。
法律的なことを言うと、昭和天皇は戦前から立憲主義者だった。その旧憲法第3条は「天皇無答責」を定めている。つまり天皇は責任を負わない。天皇が責任を認めるのは、これと矛盾する。

要するに、「天皇陛下は『戦争は自分の責任である』と述べられました」「その後マッカーサーは『これが本物の君主だ』と天皇を認めるわけです」なんて話は、田舎芝居の筋書きレベルなのだ。
こんな安っぽい美談が、教育水準の高い日本でなぜ信じ続けられているのだろうか。私は、古い白黒のニュース映像で見たプロレスを思い出すのである。
力道山が悪役外人レスラーをやっつけるという、お決まりの筋書きだった。会場は超満員で、立派な身なりをした中年以上の男の多さが目に付く。当時まだ日本は貧しく、さしずめ学校出のインテリなどで、会社や役所でそこそこ出世した人たちだろう。その人たちが、「日本男児が卑怯なガイジンに勝つ」という八百長ショーに熱狂していた(力道山がキム・シンラクだったことは、当時知られていなかった)。
敗戦国では大衆もインテリも、作り話でも何でも、ガイジンに勝ちたかったのだ。

天皇・マッカーサー第1回会見の冒頭の様子は、前出の奥村勝蔵(通訳)によると、次の通りである。
「初めの挨拶が一応済むと、元帥の語調がサッと変わり、演説めいた調子(相当力強キ語調ヲ以テ約20分ニワタリ)滔々とやり出した。(中略)演説口調の合の手に、私に向って厳然と『テル・ジ・エンペラー』(天皇に告げよ)といった言葉が、鋭く私の耳にひびいた」。
こうして始まった天皇・マッカーサー会見は、11回も行われた(1945年9月27日~51年4月15日)。後任はリッジウェー中将で、天皇・リッジウェー会見は7回行われた(51年5月2日~52年5月10日)。

昭和天皇は本格的な軍事教育を受けた人である。朝鮮戦争さなかの51年5月、天皇はリッジウェーとの会見で、「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問した。興味津々だったらしい。
「目下、共産側は大攻勢に転ずる兆候はないとのことであるが、仮に大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか? この問題に対してはおそらく貴司令官も答弁する立場にないと言われるかもしれないが?」などの発言が記録に残っている。
唯一の被爆国の象徴として心を痛めるというより、軍事談義に花を咲かせて、米国の中将に迎合していたようだ。裕仁とはそういう人間であった。
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この回答へのお礼

Thank you

マッカーサー回顧録などは眉唾で信じるべきじゃないという見解もやはりあるんですね、 回答ありがとです。

お礼日時:2024/02/18 09:56

正直、気にすべき事でしょうか?



実際、GHQは皇室の解体をせず、国民の象徴として残す方向に向かったので、昭和天皇自らが自身のの責任を述べられ国民の救済を優先するよう願ったことが影響していた可能性が高いでしょう。

それだけでなく、国民が天皇を神のように崇めていたことも影響したと言われています
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この回答へのお礼

Thank you

昭和天皇が自身よりも国民救済を願った可能性は充分にあるんですね、国民からも慕われていたし。
回答ありがとです。

お礼日時:2024/02/18 09:57

見送りに出たかどうかがそれほど重要なのでしょうか?



重要なのは「マッカーサーが天皇の言葉に感銘を受けた」という点だと思います。そしてそれを補強する資料としてのみ「マッカーサーが見送った」という事実が必要になるわけです。

で、根本的な部分で「マッカーサーは天皇の言葉に感銘を受けたのか?」という点について、私は事実だと考えています。

一つはこの動画があること


もう一つは
なぜマッカーサーは「天皇は命乞いに来た」と思ったのか?
という点です。

この辺りをきちんと解説している資料ってほとんどないのです。そもそもマッカーサーは昭和天皇が「命乞いに来た」と思ったから尊大な態度で接し、天皇が「自分の責任だ」と180度逆のことを表明したから、ビックリしたわけです。

で、このエピソードについて先に踏まえておくべき内容が2つあります。
①なぜマッカーサーは「命乞いに来た」と思い込んでいたのか?
②GHQ司令部の室内で、しかもマッカーサーに対して戦争責任を認めることは、自首して処刑されることを認めることになる
という点です。

②については上記の動画や回顧録にあるので、言葉のやり取りに違いはあったとしても、マッカーサーが「天皇は自らの責任を認めた」と理解したことは間違いないでしょう。

問題はなぜマッカーサーは「どうせ命乞いに来たんだろ?」と思い込んでいたか、ということです。

これはマッカーサーの経歴に由来します。実はマッカーサーは家系自体がエリート軍人家系で、第一次大戦にも青年将校として従軍しています。
 そして一次大戦の敗戦国、神聖ドイツ帝国のカエサル:ヴィルヘルム2世に会っているのです。

当時、まだ若かくしかも君主を持たないアメリカ人だったマッカーサーは「君主とはどれほど立派な紳士なのか?」とワクワクしていたそうです。

しかしヴィルヘルム2世に会ってみると、彼は命乞いと責任転嫁に終始し、マッカーサーは「君主とは所詮この程度か・・、ならば民主主義国家のアメリカは偉大である」と認識したのです。

そして、日本の敗戦でGHQを率いる総司令官として日本に赴任し、そこでまた日本のカエサル(カエサル=エンペラー)に会うわけです。

同じヨーロッパ人のしかも歴史あるドイツ皇帝があれほど下世話な人間であったわけですから、はなからバカにしている東洋のイエローモンキーの総大将なんてダメ人間に決まっている、と思っていたのです。

だから「どうせ命乞いに来たんだろ」とバカにしていて、出迎えにも行かないかったし、椅子に座ったまま立ちもせずに出迎えた、と言われています。尊大な態度を取るには、それまでのマッカーサーの経験があったわけです。

ところが、天皇陛下は「戦争は自分の責任である」と述べられました。そりゃ、驚くでしょう。イエローモンキーの総大将がヨーロッパ人よりも道徳をわきまえている人物だったからです。

だから、その後マッカーサーは「これが本物の君主だ」と天皇を認めるわけです。「尊敬」という言葉が適切なのか分かりませんが、②に書いたようにマッカーサーに対して自分の責任を認める、ということは「処刑覚悟」であることは間違いないわけで、天皇陛下の「覚悟」は間違いなく伝わったはずです。

マッカーサーが第一次大戦時に青年将校として戦後処理のためにドイツに赴任したことは、アメリカ公文書館の記録に残っています。(個人的に確認しました。ネットで見れます)
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この回答へのお礼

ありがとう

おお、詳しく回答ありがとうですphjさん。 見送ったかどうかよりも、マッカーサーが昭和天皇の覚悟と人徳に感銘を受けたかどうかが重要なんですね!
通訳の証言もあるし、おそらくはホントな話だったようです。

ちなみに、マッカーサーとカエサルの会見では、カエサルがどんな発言をマッカーサーにしていたかは記録に残っていますか? わかりやすいサイトがあれば教えてほしいです。

あと、ダグラス・マッカーサーがなくなった際には、奥さんであったマッカーサー夫人が、ぜひ昭和天皇に葬儀に参列してほしいと熱望し要望を送ったそうです。 夫はあれだけ日本の復興と昭和天皇のために尽力したのだからと。

ですが、当時の日本政府と天皇家は見送り、当時の吉田首相の葬儀参列にとどめたそうです。 昭和天皇やあるいは皇太子が、マッカーサー葬儀に参列すべきだったと思いますか?

ちなみに天皇の葬儀参列としては1993年のベルギー国王葬儀や、数年前のエリザベス女王葬儀に、天皇が参列してはいるみたいですが・・・。
よければ、もう少し見解を聞いてみたいですよ。

お礼日時:2024/02/13 11:40

日本とアメリカの戦争はポツダム宣言の受託(無条件降伏)で


終わりました。

戦争に勝った側の代表と負けた側の代表が会談し・・・・。
旅行じゃないんだから見送らないでしょう

詳細を言わぬが花で武士の情け
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この回答へのお礼

解決しました

武士の情けかもしれないんですね、回答ありがとです。

お礼日時:2024/02/18 09:58

見送ったは美談


見送らなかったは荒れる
それなら美談でいい
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この回答へのお礼

ありがとう

美談の方が良いですよね確かに、回答ありがとです。

お礼日時:2024/02/18 09:55

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