A 回答 (5件)
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No.5
- 回答日時:
江戸時代の長州藩の領地は周防、長門の2カ国。
長門の萩に本拠を構えたから長州藩という名になる。
合成したわけではない。
「周防と長門の2カ国を領有する」藩である。
ここはきちんと区別しないといけない。
長州藩主毛利家は、戦国の最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国していた家である。
それが関ヶ原の敗戦により2カ国に減らされ長州藩となった。
だから「周防に長州藩が作られた」というのは因果関係が逆である。
No.4
- 回答日時:
はい、長州藩は周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利家を藩主とする藩であり、その名前は両国を合体させたものです。
長州藩は江戸時代から250年以上にわたって藩庁を長門国の萩城に置いていました。 その後、藩庁を周防国の山口城(山口政事堂)へ移しましたが、依然として「長州藩」と呼ばれています。No.3
- 回答日時:
分割してたのでは有りません、2か国とも、毛利藩の領地です。
毛利藩は関ケ原の戦い以前は、安芸・周防・長門・備中半国・備後・
伯耆半国・出雲・石見・隠岐の112万石の大大名でした。
関ケ原の戦いの西軍の総大将だったので、厳封され、周防・長門の
2か国になってしまったのです。
長州は国名では有りません、信濃国の周辺一帯を信州と呼ぶのと
同じで意で、周防・長門を合わせた領地を長州と呼んだのです。
No.2
- 回答日時:
戦国当時は、周防、長門、共にふつうサイズの国。
2カ国セットで毛利家の領土になったので、それから長州という名称が普及。
幕府側の意地悪で、城の場所を長門側・僻地の萩に指定されたので、長門の「長」をアピールでしょう。
正確には、周防の一部、岩国は吉川家を領主の支藩。だから、歴史の教科書に、1つの国に城は一つと書かれているのに、元・長州の中に、萩城、岩国城がある。
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もう一つ質問です 山口県は戦国時代は周防 長門に分割していたらしいですが長州藩はこの周防長門の二つを合成した藩なんですか?
つまり長門に藩がある長門と周防を合体したのが長州藩って感じですか?
日本地図で言うと周防長門の2カ国を毛利氏が統治していて分割した(と言っても毛利が両方統治しているが)周防長門の2カ国足したものが現在の山口県にあたるということですか
分割していないの部分がどうしてもわかりません
地図的には周防長門に分割していてこの二つ合わせて毛利が統治 ここに幕府が長門に藩を置いて長州藩、さらにこの二つ合わせたものが後の山口県ですよね?