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最後の軍隊衝突後に初めて真の中央集権が完成したと言えるのでしょうか?それまでは内在的に群雄割拠の時代であったと言えなくもないです?

A 回答 (9件)

名目的には廃藩置県で中央集権化が完成したとみるべきだと思いますが、薩摩の場合は特殊な事情がありました。



当時の日本には、陸軍の制式銃の小銃弾薬製造工場が1か所しかありませんでした。それが薩摩藩所有のもので薩摩に置かれていたわけです。そして、その工場は下野した西郷を指導者と仰ぐ一団が管理していたのです。

中央政府が、西郷の動向を非常に気にしていたのはその点です。
もし、西郷が反旗を翻せば、陸軍の制式銃の弾薬の補給が絶たれてしまいます。外国から輸入するにも欧米方面からの船便では時間がかかります。
それにその銃弾は元込め式の最新銃用で、それが使えなければ先込めの式の旧式銃になり、射撃速度がかなり落ちてしまいます。

だから、政府はその銃弾製造装置などを密かに鹿児島から中央に持ち出し、怒った西郷派士族の決起を待ち、西南戦争となりました。
新式銃の銃弾を造れなくなった薩摩は旧式銃しか使えず、それが戦況に大きく影響したことは言うまでもありません。

以上のように、薩摩西郷軍の軍事力は中央政府に匹敵するくらいのレベルで考えられていたわけですから、日本の中央集権化は西南戦争によって完成したと言うことも可能かと思います。
実際に、それ以降は大規模な内戦が起こっていません。
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この回答へのお礼

それは知りませんでした。薩摩とは一大軍事基地だったのですね。軍事力の国家による管理が完全に確立することは、政治体制上の大きな変化です。

お礼日時:2024/05/01 09:11

> もちろんそうです。

ただ事実上、地方からの中央政府転覆が不可能になったのが西南戦争を前後してということならば、大きな意味があったのです。

実際、西南の役の際にも反乱士族は熊本を抜けていません。国民軍が編成できるようになった時点で転覆は不可能であったと評価するべきでは無いでしょうか。
中央集権下の日本で、旧薩摩士族の反乱が起き、中央集権下の国民軍が鎮圧したと評価するべきでは無いでしょうか?
すべては中央集権下のなかで行なわれ解決しています。
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この回答へのお礼

国民軍でない軍隊が決起することが可能か否かです。そして、軍事作戦を発令し、軍隊同士の戦闘があるかどうか。西南戦争までは可能でした。

お礼日時:2024/05/02 00:20

中央集権は政治形態の話であって、権力の話です。


反乱は武力の話であり、これを基準に中央集権の是非を測るべきでは無いです。
歴史の基準は変わることもありますから、中央集権の定義が変わることもあるかも知れませんが、現在の日本語では中央集権は中央に権力の集中があると認められるかによるものです。地方に武力、軍事力があったから、反乱があったからという基準には成り得ません。

例えば現在の日本は中央集権国家ですこれを否定する人は居ないでしょう。もし万が一、明日、日本のどこかで反乱が起こったとしても、日本は中央集権国家です。中央集権で無くなったとは言えないです。

鎌倉幕府が1192から1185に変わった例もありますから、今後、歴史認識が変わる場合もありますが、西南の役をとって中央集権で無く群雄割拠というのはかなり隔たりがあると思います。
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この回答へのお礼

もちろんそうです。ただ事実上、地方からの中央政府転覆が不可能になったのが西南戦争を前後してということならば、大きな意味があったのです。

お礼日時:2024/05/01 09:12

> だけどそれ以降ないよ。

国民軍が組織され地方武力蜂起が不可能になったから。

それは中央集権とは直接は関係ない話です。徳川政権も島原の乱以降は無いですよね。徳川政権は中央集権では無い幕藩体制でした。
徴兵制は明治六年に発布されており、成人男性の登録が義務化されました。西南の役の数年前です。
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この回答へのお礼

政府転覆をはかる武力蜂起が可能な限り、権力は脅かされています。幕藩体制は盤石じゃないから明治維新が起きたのです。明治10年まではまだ軍事衝突の可能性があったのです。

お礼日時:2024/04/29 21:20

> 制度的にはそうです。

ただ内乱を起こす軍隊組織力を地方が可能だったということが西南戦争をもって終結したということでは。

中央集権が完成したのと、地方での反乱が起こることは別と考えます。
中央集権は制度、機構の話であり、反乱は中央集権の完成度をもって無くなるというものでは無いはずです。
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この回答へのお礼

だけどそれ以降ないよ。国民軍が組織され地方武力蜂起が不可能になったから。

お礼日時:2024/04/29 17:34

中央集権化は推古天皇の時に基礎が創られ持統天皇の時に完成


したと思いますが。

西南戦争は武士階級の最後の足掻きのクーデター未遂でしょう。
同調者が想定していたのと違って蜂起する武家が居なかったので
熊本城止まりだったのです、島原・天草の百姓一揆の方が用意周到
で決起したと思いますよ。
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この回答へのお礼

あなたは西南戦争の規模がわかっていないですね。

お礼日時:2024/04/29 17:33

> それまでは



「それまでは」の起点をいつごろにして考えていますか。

> 日本の中央集権化は

「日本」の意識をどうとらえていますか。「大日本帝国憲法」には、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とか「日本臣民ハ」という記述はありますが、国名を日本にするという記載はないです。 なんとない表記・表現で日本という場合には、縄文や弥生のような時代からの「日本列島の人口の多い部分」をさすことが多いです。 その場合、日本でヤマト王権が律令制を敷いて地方に官制を徹したとき、また徳川政権が各種法度を強制できたときには、一応中央集権化はできています。 その時点では、群雄割拠は抑えられているのです。
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この回答へのお礼

それまで=西南戦争終結時です。
制度的にはおっしゃる通り中央集権は古代から成立していますが、各地で内乱を起こす軍隊組織力を要していたということと、その可能性が亡くなったということは、支配の意味合いが違います。

お礼日時:2024/04/29 10:48

> 真の中央集権



を何処に定義するかですね。私は廃藩置県のタイミングでいいと思いますが。
やっぱり群雄割拠は言い過ぎだと思います。
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この回答へのお礼

制度的にはそうです。ただ内乱を起こす軍隊組織力を地方が可能だったということが西南戦争をもって終結したということでは。

お礼日時:2024/04/29 10:41

>最後の軍隊衝突後に初めて真の中央集権が完成したと言えるのでしょうか?



そういう面もあるでしょうが群雄割拠とはいえません。

ただ明治維新後、大規模な戦乱というのは戊辰戦争以降は西南戦争までありません。戊辰戦争が終結(明治2年)したあと西南戦争(明治10年)までにはさまざまな反乱がおきていますが、地域ぐるみの反乱というのはないのですよ。ですのですぐに政府軍によって鎮圧されています。

「群雄」とまでは言いがたい状況だったと思いますよ。
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この回答へのお礼

明治10年までなかっただけで、潜在的にはその可能性を残していたのが、西南戦争をもって終結したということではないですか。

お礼日時:2024/04/29 10:42

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