スマホに会話を聞かれているな!?と思ったことありますか?

歴史の年号は全て太陽暦で遡ったときのものですか?それとも当時の暦法での年号なのですか?
例えば本能寺の変の年号は1582年ですが、太陽暦で遡っているのなら2024-1582=442で今から丁度442年前(365×442日前)となりますが、この1582年が当時の太陰暦による年号なら丁度442年にはならないと思います。また世界史の年号に関してはそれぞれの地域で暦法が違います。

A 回答 (7件)

年号というのは昭和とか平成とかいう方を指します。


>本能寺の変の年号は1582年
1582年は西暦の年数で年号ではありません。

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)早朝、明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件ですね。

6月2日は当時使用していた暦で記載したもので、これは太陰太陽暦ですね。
天正が年号です。
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年に関しては閏日や閏月で調整されるのでずれることはほとんどないが、旧暦と西暦では40日ほどのズレがあるため、旧暦の11月下旬以降は西暦の翌年1月以降に繰り入れられる。



月日や時間に関してはかなりの違いがあるので「旧暦」とか「不定時法」などの断りが付く。
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質問者さんは、日本で使われていた「太陰太陽暦」というものをご存じないようですね。



太陰暦は「月の満ち欠け」で「月」を定義するので、1カ月は約 29.5 日です。
そのため「大の月:30日」と「小の月:29日」を繰り返すことで、暦と月の満ち欠けを合わせていました。
しかし、これだと1年が
 29.5 日 × 12か月 = 354 日
で、太陽を一回りする 365.25 日に比べて、約 11 日短くなります。

このため、約3年に1回(正確には 19年に7回)「うるう月」を設けて、つまり「1年を13か月」にして太陽の動きと暦を合わせていました。(春分・秋分、夏至・冬至を含む「季節」は太陽に動きで決まる)
うるう月があると、翌年の正月は大きく後ろにずれることになりますね。

今でも、旧暦の正月(日本の「旧正月」や中国の「春節」)は、1~2月のどこかにあります。
正月を「新春」「初春」などと呼ぶのは、そういった旧暦の「暦と気候の関係」をもとにしているのでしょうね。

ということで、「新暦・西暦」と「旧暦」(太陰太陽暦)とは、おおよそ1ヶ月の範囲でずれることはありますが、「年」はほぼ一致します。
つまり
 元禄15年 = 西暦1702年
といってほぼ間違いではありません。

ただし、年末・年始の出来事は「前の年か、次の年か」で若干食い違うことがあります。
たとえば、「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」は、当時の暦(旧暦)で「元禄15年12月14日」です。なので、赤穂浪士を祀る「義士祭」は毎年12月14日(新暦で)に行われます。
ただし、その討ち入りの日は「新暦」では
「1703年1月30日」
だったそうです。雪が降って寒いわけだ。
元禄15年には、「うるう8月」があって「13か月の年」だったので、そういう「ずれ」が出るようです。

https://www.city.ako.lg.jp/kensetsu/kankou/terak …
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No.3 さんが詳しく書かれていますが、本能寺の変は天正10年6月2日に起こっていますが、この日付は当時使われていたものです。


天正10年は西暦1582年に当たりますので、1582年6月2日と言われることもあります。この『西暦年+旧暦月日』という記述が一番よく使われているものです。
1月ごろだと旧暦と西暦の年がずれますので、『旧暦年月日(西暦年月日)』という表現が多いと思います。ただし上記の『西暦年+旧暦月日』の記述も少なくないのです。

ユリウス暦とグレゴリオ暦の切り替えは知識として知っておけば良い程度で、問題になることはほぼないです。ただし西洋でも西暦が使われだしたのは中世(ルネサンス)以降なので、そこは注意です。グレゴリオ暦はキリスト誕生以前から使われていますが、キリスト誕生以前から西暦が使われていたわけではありませんw

このように暦というのは、紀年法と暦法で使われています。ローマ暦(紀年法)+グレゴリオ暦(暦法)という使い方ですね。紀年法と暦法は似て非なるものですので、混同しないように♪
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>この1582年が当時の太陰暦による年号なら



1582年は西暦(キリスト紀元暦;太陽暦)の年号です。
1582年は和暦(太陰太陽暦)の天正9~10年にあたります。

和暦と西暦では、1年の範囲が少しだけずれます。
・天正10年1月1日~天正10年12月30日(旧暦31日は存在しない)
   = 西暦1582年1月24日~西暦1583年1月23日
・西暦1582年1月1日~西暦1582年12月31日
   = 天正9年12月7日~天正10年12月7日

日付がずれている範囲を除けば、単純に西暦の引き算で問題ありません。

ということで、
・本能寺の変:天正10年6月2日(西暦1582年6月21日)
2024年-1582年=442年前という単純計算で間違いありません。

なお、
1582年は西暦がユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦された年です。
・西暦1582年10月04日(木曜日) まで:ユリウス暦
・西暦1582年10月15日(金曜日) から:グレゴリオ暦

西暦1582年10月5日~14日まで10日間の日付は存在しません。
日数計算の場合は注意が必要です。
和暦では連続した日付になっています(当然ですが)。
・西暦1582年10年04日(木曜日) = 天正10年09月18日
・西暦1582年10年15日(金曜日) = 天正10年09月19日

蛇足ですが、
ユリウス暦:4年毎に閏年(2月29日)、1年は365.25日。
グレゴリオ暦:400年に97回の閏年、1年は365.2425日。

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余談:赤穂事件
・松の廊下刃傷:元禄14年03月14日(西暦1701年04月21日)
・吉良邸討入り:元禄15年12月14日(西暦1703年01月30日)
・赤穂浪士切腹:元禄16年02月04日(西暦1703年03月20日)

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和暦の元号はたびたび改元されるので、通し年数の計算はできません。
また、改元された年の新元号はその年の元日に遡って適用されることになっていたので、古文書で元年の日付が出てくるときは注意が注意が必要です。

たとえば明治の改元は9月8日(慶応4年9月8日)に行われたのですが、慶応4年1月1日(1868年1月25日)以降を明治元年としている場合があります。
大正・昭和の改元は天皇崩御の即日改元。平成の改元は天皇崩御の翌日改元。令和の改元は天皇退位の翌日改元。年数を計算する場合に改元日を注意する必要があります。

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>また世界史の年号に関してはそれぞれの地域で暦法が違います。

それぞれ、西暦(ユリウス暦またはグレゴリオ暦)に換算して表記するのが一般的でしょう。
たとえばイスラムの世界の出来事をイスラム暦(純粋太陰暦)だけで表記してもいつのことだか分かりにくい。
エジプト暦、インド暦、中国暦なども、世界史の教科書ではそれぞれ西暦に換算して表記しているはずです。

・聖徳太子の没年:推古天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)
・楊貴妃の即位年:開元7年6月1日(西暦719年6月22日)

ちょっと注意を要するのは、西暦16世紀にグレゴリオ暦に改暦された後も、ロシアなどではユリウス暦を長く使い続けていたので、その間の日付が10日~13日ほどズレているということです。

帝政ロシア時代(ユリウス暦):1700年1月~1918年1月31日まで
ロシア革命後(グレゴリオ暦):1918年2月14日~(13日間の日付なし)

トルストイの『戦争と平和』では両方の日付が出てくるそうです。

日本の明治の改元も、明治5年12月2日 (1872年12月31日)の翌日が明治6年1月1日 (1873年1月1日)になったため、明治5年12月3日以降の日付が存在しません。
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本などによって違います。


太陽暦でもグレゴリオ暦かユリウス暦かで違うこともあります。

日本では太陰暦ではなく太陽太陰暦でした。
調整が入っていたので、太陽暦と年単位でずれることはありません。

本能寺の変は太陽暦でも太陽太陰暦でも1カ月程度のずれなので同じ年でしょう。
年末年始に近いとずれることがあります。
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奈良時代から和暦は元号が途絶えておらず、


元号をグレゴリオ暦に当てはめている表記しているので、
年は同じで、月日はずれます。
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