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子供の頃元旦に「歳の初め」の歌を歌わされながら、「どうして今日が歳の初めと決まったのだろう」と、いわば根底的な疑問を持ちました。しかし生来の愚鈍、とりあえず凧揚げ、お雑煮、お年玉集めの繁忙に取り紛れて解けないまま今日に至りました。
最早人様にお尋ねできる年ではなくなりましたが、幼い疑問を死ぬまでには解いておきたい、匿名が許されるこの場をお借りしようと思い立った次第です。
どうかよろしくお願いします。

A 回答 (10件)

諸説や世界の新年について知ることができると思います。


参考になるでしょうか?

参考URL:http://astro.ysc.go.jp/izumo/shogatu.html
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この回答へのお礼

早々のご教示ありがとうございました。
浅学ながら、グレゴリウス暦というからにはキリスト教と関係があるのではないかと考えておりましたが、年来の疑問が解けました。ユダヤ教の割礼の儀式につながるとは、西洋の歴史の機微を垣間見る気がします。
これから大晦日に風呂に入るたびにこれを思い起こすことでしょう。

お礼日時:2004/12/27 10:07

これは天文学的意味と、歴史的意味があります。


ジュリアス・シーザー(カエサル)が、
紀元前45年に制定したのです。
天文学的にはジュリアンデー(ユリウス暦)といいます。
このころの冬至(太陽黄経280度)が
現在の12月31日から、1月1日に当たっていた。

その後の現在使われている「グレゴリオ暦」も
基本的には「ユリウス暦」の修正版です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
太陽の高さがもっとも低くなる日、昼の長さが長くなり始める日の前日を零とした。これは納得がいく。

お礼日時:2004/12/27 10:15

 元日は、午前0時とおなじく“何も起らないとき”から始まります。


「冬至・夏至・春分・秋分」のような天文現象とも一致しないのです。
 立春の35~36日前(冬至から9~10日後)を年初とします。
 
 日本の旧暦は、立春に近い三日月の3日前が朔日(ついたち)でした。
 西暦(グレゴリオ暦)は太陽暦なので、月の運行とは無関係であって、
12ヶ月や一ヶ月毎の区分は陰暦のなごりにすぎません。
 
 西暦紀元前45年に施行されたユリウス暦1月1日は金曜日ですが、
のちのグレゴリオ暦を逆算すると日曜日になります。このような誤差が
累積して10日に達したため、1582年に改暦、現在に至っています。
 
 週の由来は《旧約聖書》ですが、春分から秋分まで186日、秋分から
春分まで179日、その差7日間が“週の単位”を導いたと推されます。
(もっともらしい俗説ばかりで、どれも確実な証拠がありません)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
“何も起らないとき”から始まる、というのは実にすばらしい。縹渺と時間の彼方に霞んでいる人類の足跡が見えるようです。
最新の物理学によると宇宙は”無”からポロリと出現した由、こちらは厳密な数学を積み重ねた推論による。
皆さんの知の原野を訪ね歩くのは楽しいものです。

お礼日時:2004/12/27 10:28

bildaさんが


>「冬至・夏至・春分・秋分」のような天文現象とも一致しないのです。
 立春の35~36日前(冬至から9~10日後)を年初とします。<

と書かれていますが、地軸の歳差運動を忘れておられます。
(周期約26000年のみそすり運動)
2050年ほど前と現在とでは、春分点の位置も冬至の位置もずれています。
天文ソフトの「ステラナビゲータ」でも確認しましたが、
冬至は太陽黄経280度の位置で、現在と10度ずれています。

ですから、紀元前45年の冬至は12月31日~1月1日でいいのです。
これは『時と暦』青木信仰著(東大名誉教授・位置天文学等) 東京大学出版会にも
「年初は冬至の近くに設定したことは確か」と書かれています。

なお冬至は神話的にも、昼の時間がもっとも短い日ですから、この日を境に太陽の再生が行われるとされ、新年にもっともふさわしい日なのです。 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
専門的な研究をご紹介頂いて数千年の人類の先人をだんだん身近に感じて来ました。

お礼日時:2004/12/28 00:47

古代ローマの年初の基準はともかく、


「現在」の一月一日が、どうして一月一日かと言えば、1582年に教皇グレゴリウス13世が、新しい閏年の計算方法を設けたうえで、(当時の)春分の日を3月21日にするために、1582年10月4日の翌日を10月15日としたから、でしょう。
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyo …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
次の疑問が湧きました。春分の日を何故3月21日にしたのでしょうか?
おわかりでしたら教えて下さい。尚、回答の中にあるURLは私の方では検索できませんでした。

お礼日時:2004/12/28 01:02

 No.4 goleopon さんの、紳士的な反論に敬意を表し、再度回答を……。


>紀元前45年の冬至は12月31日~1月1日<
 わたしも愛読した青木先生の著書は、つぎのように書かれています。
 
 「しかし年初がどうして今の時期(すなわち冬至後約一〇日)にある
のかという質問に対して答えられる人はあまりいないと思う」(Pi)
 「私はまだ文献的にこのことを検証したわけではありませんが」(P92)
 
 「平均太陽赤経が二八〇度のときを指しますが、この二八〇度という
数字は一二月三一日か、一月一日頃にキマリよく、こういう数字になっ
ているので、天文学の計算上導入したもので、話が逆なわけです」(P80)
 
 「もしユリウス・カエサルの天文学者が用いた天文学的記録が案外古
くて、平均として前八六〇年頃のものだとすれば(これは古エヂプト暦
の歴史から見て、考えられないことではありません)」(P92)
 
 「私は現代科学の一つである天文学を専攻している者であって、けっ
して「歴史家」ではない」(P270)
── 青木 信仰《時と暦 19840920 東京大学出版会》
 
 前45年ユリウス暦1月1日(金)は、前年グレゴリオ暦12月30日、
エジプト暦9月6日(JD=1704987)であり、《三正綜覧》による中国暦は
初元三年十一月三〇日(庚辰)、冬至ではなく、朔を示しています。

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920101
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この回答へのお礼

熱心なご説明、大変ありがとうございます。
専門的になって愚鈍の身にすぐに詳しく理解は出来ていないかもしれませんが、年初と冬至日のずれは地軸の振れ(みそすり運動)による冬至日の変化とほぼ一致しているが、確かにそれに基くものかどうかの文献的な裏づけは出来ていない、ということでしょうか。
いずれにしても、冬至が太陽再生の始まりとして意識され、一年の周期の基点と結びつけて、ユダヤ教ーキリスト教の中に受け継がれてきたと理解しました。

お礼日時:2004/12/28 01:46

失礼ながらbildaさんは、何をおっしゃりたいのか


分かりません。
質問者のtinosannpo0811さんは「暦の一月一日は何を基準に決められたのでしょうか」と、質問されているんですよ。
冬至ではなく、単なるある新月の時を、暦の始まりとしたと言うのが回答ですか?

貴方は
>わたしも愛読した青木先生の著書
と書かれていますが、とても愛読した著書のわりには、
引用文はポイントを抑えていらっしゃいません。
不確かな部分を、あえて引用しているとしか取れないのです。

貴方が頁を掲げましたので、私も提示いたしましょう。
青木 信仰著『時と暦』東京大学出版会
ページ81に「ただ年初は冬至の近くに設定したことは確かのようです」
これを無視されますか?


>中国暦は初元三年十一月三〇日(庚辰)、冬至ではなく、朔を示しています。

と貴方は書かれますが、
同ページに「紀元前45年の元日の翌日が、太陰暦である古代ローマ暦のIanuarius月1日に当たる可能性があることが判明しており」と書かれています。
1月1日ではなく、1月2日が新月です。
これは天文ソフト「ステラナビゲータ」でも、1月2日が新月と出ています。
フリーの天文ソフトはいくらでもありますから、お調べになったらいかがですか?

この2箇所の記述を避けたのは、なぜなのでしょうか?


また、デビッド・E・ダンカン著『暦をつくった人々』
河出書房新社にも
ページ58に「カエサルは改暦を完成させるために、1年の始まりを、マルティスから冬至に近いヤヌアリウスに移した」
と書かれています。
近いと書かれているのは、当時は日時計や水時計の時代です。正確な時刻は割り出せなかったのは、しょうがないでしょう。

*貴方が冬至でもなく、初日は新月であったとおっしゃるのなら、
その具体的文献を掲げてください。

なお「グレゴリオ暦」は、「ユリウス暦」の4年に1回うるう年を挿入する他に、400で割り切れない年はうるう年としないとしただけで、大局的には「ユリウス暦」のままです。(10日のずれは単純な数えミス)
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この回答へのお礼

議論が次々に展開しておりますようで、皆様の薀蓄に目を見張っております。
質問者としても嬉しい事です。

お礼日時:2004/12/28 20:13

キリスト教徒にとってイエス・キリストが復活した日(イースター)は大変重要な祭日です。

325年に小アジアのニカエアで開かれた公会議で、復活日は「春分後の満月過ぎの日曜日」と決められ、春分の日は、ユリウス暦ではなく、アレクサンドリアの暦に従って3月21日と決められました。
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P341L100.HTM

この取り決めを守るための改暦です。見られなかったページですが、次のアドレスで見られるでしょうか?
http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0301.htm
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この回答へのお礼

なるほどクリアになりました。
皆さんのご教示を私なりに纏めると
1、太陽暦では一年の初まりは冬至を基準にしている
    ー太陽の再生こそ一年の始まり、単純にして豊饒
2、現在世界で最も標準的な暦にはキリストの伝承が大き  な足跡をのこしているーグローバリズムの嚆矢か
こよみのページも見ることが出来ました
ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/28 20:45

 No.7 goleopon さんの、再度の反論にお答えします。


Q1.愛読したわりに/不確かな部分を、あえて引用している。
Q2.冬至でもなく、初日は新月であったなら、その具体的文献を。
 
A1.わたしは《旧約聖書》も愛読していますが、その宇宙観すべてを
信じているわけではありません。多くの人々を説得したことを尊重し、
とても重要で興味あふれる文献だと思います。
 
 記述を避けたといわれる部分は、それぞれ引用・言及しています。
「年初は冬至の近くに設定した」→「(すなわち冬至後約一〇日)」
「1月2日が新月」→「三日月の3日前が朔日(No.3)」
 
A2.冬至を0.00/60.00とする中気(儀鳳暦37.315 元嘉暦36.404)
── 内田 正男《日本書紀暦日原典 19780110 雄山閣出版》P172
── 内務省地理局《三正綜覧 188001..-19650630 地人書館》P35
 
 質問者そっちのけで回答者が議論するのは無作法であり、残念ながら、
MyWebへの案内も禁じられているので、以上でもって失礼します。
 tinosannpo0811 さんの、とても有益な質問に感謝しています。
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この回答へのお礼

専門用語に数字が飛び交い、宇宙の運行と人類の歴史が解き明かされる、まことに有意義な時間でした。
幼かりし頃、サンタクロースの存否、赤ちゃんは何処から来るか及び本件が三大疑問でした。前二件はその方面の情報豊かな友達がいた為比較的早期に解決し、その後の人生に遺漏ありませんでした。本日ついに全て解決しました。
来年から日めくりカレンダーを自信をもって破る事ができます。この場をもって皆さんに改めてお礼申し上げます。TGMさん、goleoponさん、bildaさん、shangyanさん、ありがとうございました。どうかよい年をお迎えください。

お礼日時:2004/12/28 21:10

反論の必要もないと思っていましたが、この解答欄を見て


誤解をされる方がいるかもしれませんので、補足しておきます。

私は質問者さんの「暦の一月一日は何を基準に決められたのでしょうか」に沿って回答しているつもりです。
No,2の私の回答にNo,3において、反論されたのはそちらの方です。

>質問者そっちのけで回答者が議論するのは無作法であり、残念ながら、MyWebへの案内も禁じられているので、以上でもって失礼します。<

私は具体的著書の例を掲げ正当性を主張しました。
議論や反論は天文学や物理カテのgooサイトでも行われています。
禁じているのは、個人の誹謗中傷です。
具体的データを掲げながら議論するのは、違反でも何でもありません。

>A1.わたしは《旧約聖書》も愛読していますが、その宇宙観すべてを信じているわけではありません~

これは私への回答でもなければ、質問者さんの「暦の一月一日は何を基準に決められたのでしょうか」の回答でもありません。単なる心情を語っているだけです。

>A2.冬至を0.00/60.00とする中気(儀鳳暦37.315 元嘉暦36.404)── 内田 正男《日本書紀暦日原典 19780110 雄山閣出版》P172── 内務省地理局《三正綜覧 188001..-19650630 地人書館》P35

ですから、どうだとおっしゃるのでしょうか?
問題にしていたのは、紀元前45年の冬至のはずです。
「儀鳳暦」は文武天皇の時代、西暦697年の採用です。
「元嘉暦」は持統天皇の時代、西暦692年採用で、
しかも、わずか5年しか使われなかった、不確かな暦です。
なぜ、そんなものをわざわざ文献として提示されるのでしょうか?

この当時の冬至点と、紀元前の冬至点が違うことは明白です。 
地球の歳差運動を全く無視されているか、避けておられるようです。

>「(すなわち冬至後約一〇日)」

これは『時と暦』の「はしがき」に書かれてある文です。
目次の前にあります。つまりこれは読者に呼びかけているんですよ。
冬至は一般的に12月21日前後なのに、
なぜ10日もずれているのかと。
それを本文で解説しているのです。
本文で「年初は冬至の近くに設定したことは確かのようです」と
書かれている部分を無視されるのでしょうか。
正しく著書を読まれていない。著者に対しても間違って多くの人に伝えることは失礼でもあります。

>「三日月の3日前が朔日(No.3)」
これは誰でも常識でわかることで、これがなぜ
紀元前45年の1月1日や2日の証明になるのでしょうか?
何の説明にもなっていません。
 
>「冬至・夏至・春分・秋分」のような天文現象とも一致しないのです。
と、No.3で書かれた文献などを、最後まで提示されませんでした。
これで、どちらが正当性を主張しているか、お分かりでしょう。

もう1点、著書を掲げましょう。
『宇宙からのメッセージ』歴史の中の天文こぼれ話
斉藤国治著(古天文学専門)雄山閣
P106「中国では古来冬至を1年の基準としていたので、冬至の日時の決定は暦学上に重大な問題とされた」
とあります。
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この回答へのお礼

重ねてありがとうございました。
これからも起こる疑問は恥ずかしがることなくお尋ねしようと思います。よろしくお願い致します。

お礼日時:2004/12/29 21:48

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