
キリスト教を否定したり冒涜する気は皆無です。新約聖書は1回通読した程度なので理解が浅い事お許しください。
ただ、キリストはヤハヴェと聖霊と三位一体であるという解釈からするとイエス・キリストの人格=ヤハヴェであり、キリストはヤハヴェのアバター(ディスプレイ&スピーカー)と解釈できます。
キリストはヤハヴェの意思に反する行いをせず、布教して予定通りに十字架の磔刑から昇天と復活を遂げる。
この場合、布教を始めるまでのガラリヤの大工の息子だった「ナザレのイエス」も初めからヤハヴェのアバターであり、個人の人格は無かったのでしょうか。
ゴータマ・シッタルダは王族の子として生まれ、妻を娶り子を得て、人間としての(肉体的な)喜怒哀楽を経験した上で、愛別離苦に悩んだ末で修行に入ります。
あくまで個人としての救済を求める為の修行と思考であっり、最後まで人間・ゴータマの人格で生を全うする。
私個人としては良く生きる為の哲学として思考して教えを残したゴータマに人間としての親近感を強く感じます。
あくまで私個人の文学的な二人の偉人への思いの寄せ方としての疑問です。
キリスト教の教義を批判するもので無い事を改めてご理解願います。
A 回答 (7件)
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No.7
- 回答日時:
>キリストはヤハヴェと聖霊と三位一体であるという解釈からすると
その前提は後世になり付加された設定なので、イエス・キリスト(ナザレのイエス)が主張していたわけではないようですが、イエスキリスト自身は、
「自分の言葉は自分が言ってるのではなく、神の言葉を伝えているにすぎないのだ」
というような言い方を割と頻繁にしていたようではあるので、彼は神のディスプレイやアバター、あるいはスピーカー、のような役目を自覚しており、そういった態度を進んで担っていた人物だったんだろう、とは思います。
しかしそれは彼の本意・本望であって、彼の信念や生きがい、アイデンティティそのものであったのではないかな、と自分は感じています。
ブッダだって見ようによっては最初から運命論者だし、ブッダは梵天のアバターにすぎない、という解釈だって、できるでしょうし。
イエスは幼少期から「神の子」としての自覚が相当高い子供だった、というような逸話、伝説は数多いですが、ある伝承では、幼児期のイエスは「神の意志」に反する言動をした人を一瞬で呪い殺したり、自分みたいに全部ワカッテル「神の子」が、そのへんのアホな教師にいったい何を習う必要あるんだ馬鹿馬鹿しい、お前らちょっと厚かましいんじゃねーの、神の子に対する態度わきまえろよ、みたいな言動を平気でとったりしています。
それはそれで極端な誇張がある創作伝説だとしても、遠藤周作の作品はそれとして、歴史的には色々な「イエス像」がある、人の心に訴えるイエス像も、それぞれ違う。という話です。
史実としては、イエスは自身の信仰の母体であるユダヤ教徒から大いに敵視され、迫害され裏切られて死ぬはめになるので、悲劇的な運命の教祖ではありますね。物語作家が、より人の情緒に訴えるような描写を色々駆使すれば、感動作になりやすい格好の素材であるといえます。
また、引き合いに出されている仏教開祖との比較で言えば、ブッダは30才位までなんだかんだ言って王侯貴族の甘い汁吸いまくってた人ですし、皇族みたいな身分だったらそりゃ自然と教養は高くなり、コネクションはイヤでも大量に出来る、そんな人が30才過ぎて出家したって本当のカースト底辺の無名の乞食に落ちるわけがない、本当の裸一貫でやってくわけじゃないでしょう。
それにインドの当時の宗教や身分に対する批判意識も考えたら、ブッダが「うまくやれた」のは別にその人の個人の資質だけでは全然ない、運命が彼に相当味方した面がある気がします。
他方イエスはしがない大工の息子で、納屋で生まれた逸話とかも事実なのだとしたら、かなり貧しい民だったのでしょう。ブッダみたいな後ろ盾も特にないにもかかわらず、人々を強く説得する力を持っていたなら、やはり何かその人個人、その人自身が、人並はずれた強い魅力や高い知性を潤沢に持っていたんだろうな、と自分は素朴に思っています。
ただ、当時の時代的な情勢はイエスに味方しなかったし、そこまで上手に「政治的な立ち回り」が出来る人ではなかったのでしょうね。
そういう意味ではイエスとブッダを比較した場合、イエスの方がより「気の毒な運命を背負っていた人」にも思えますが、彼なりに信念を貫いた生涯だったなら、凡人俗人が、俗なレベルでジャッジして、可哀そうとか、ただの無力で意志薄弱な操り人形であるかのように解釈するのも、なんか違うように思います。
非常に深い洞察をありがとうございます。
「イエスが神のディスプレイとしての役割を進んで担った」という考え方は、彼の強い信念を想像しました。
ブッダとの比較も興味深かったです。
「時代的な情勢がイエスに味方しなかった」というご指摘は敢えてそれも承知の上でエルサレムへと進んでいったのか、不本意な結果を受け入れたのか、その気持ちを想像すると辛いものが有りました。
イエス・キリストが神の言葉を伝えるという使命感を持っていたという解釈は、多くのキリスト教徒が共感するところでしょう。
しかし、なぜその使命を担うのは人間の身でなければならなかったのか、
もし、イエスが神の一部でありながら、人間としての経験をすることを選んだのだとしたら、それはアダムとイブの原罪の贖罪の為だったのでしょうか。
確かにゴータマは神に命ぜられた運命ではなく、己の選択で出家してサンガを率いたある意味「恵まれた」始祖だったのかもしれませんね。
ただ、最近読んだ作品の吉田松陰の印象が「まるでイエスかな」と思えてきました。仏陀との比較よりも松陰との共通点を考える方がイエスが理解できるのかな?などと考えもしました。
自己犠牲的な精神や弟子たちへの絶対的な影響力、理想を追求するがゆえの既存の社会秩序との衝突と最終的な刑死と後世への影響。
カリスマ性やわが身を軽すぎる扱いや、弟子たちに非常識なほどのブレなさを求めるなど、松陰はイエスを知っていたのか?と感じる程です
No.6
- 回答日時:
人間としての人格、個性という点で見ると、
例えば、
古事記の中で、天照大御神が
・弟のスサノオが大急ぎで高天原にやってくるのを乱暴狼藉を働きに来たのかと、弓を片手に完全武装の勇ましい出で立ちで迎えるような責任感があるけどちょっとそそっかしい人間くささ、
・周囲の意のままにならない状況にすねて天岩戸に閉じこもったものの、計略に引っかかって引っ張り出されるとか言う、天然ボケの優しい性格
そんな人間くさく親しめる性格ですね。
イエスキリストの場合、人間としてのイエスが持っていた性格や親しみの持てる人間性は、唯一の信仰対象として邪魔になってしまうのでキリスト教信仰が続くなかで消されてしまっているような気がします。
ご回答に感謝します。
古事記の例えを用いた説明は判り易く比較して、イエスの人間らしさについて考える視点は新鮮でした。
イエスの人間性の側面が信仰対象となる過程で消されてた可能性のご指摘は、私の疑問と重なる部分があり、共感いたしました。
神殿で商人たちの店を破壊して回ったという場面などは、感情むき出しらしい唯一のエピソードでしょうね
(現代の視点でいえば迷惑行為ですね)
太宰治の「駆け込み訴え」でユダが語るイエスは勝手な印象ですが吉田松陰の様で、危なくて放っておけないイメージが強かったです
どうも有難うございました
No.5
- 回答日時:
No.1です。
>>キリストがエジプトやインドで秘術を学んだという説は、初めて知りました。
このあたりのイエスの修行話は、幸福の科学の書籍とは無関係の他の出版社からでている書籍にも記載があります。
また、入手は難しいかもしれませんが、「聖書の真義/M・ドーリル博士著」には、「イエス・キリストの略歴」として、33歳で十字架にかかった後、復活されてから百歳までの地球での活動の歴史と、その後の地球を離れてからのことが記載されています。
重ねての興味深い情報を有難うございます。
エジプトやインドでイエスが秘術を学んだという説は初耳でした。
昨今のガザからエジプトへ難民が脱出の可否などの報道を見ると、エジプトとユダヤ圏は遠くないのか、と今更気づきます。
インドまでの距離を思うと、どの位の時間でたどり着いたのでしょうか。
「聖書の真義」の内容には非常に興味を惹かれますが、入手が難しいとのことで残念です。
アマゾンで見ると5500円。近辺の図書館を探して見ます。
これらの伝承や記録は史実と空想や創作の境界線をどうお考えかも伺いたいです。
イエス像が時代や文化によって多様に解釈されてことは、私にとって改めての気づきでした。
さまざまなイエス像が存在する中で、私は特に人間としてのイエスの苦悩に共感します。
No.4
- 回答日時:
コメントの中にあった「イエス個人は救われる存在ではない」についてですが、イエスはキリストすなわち救い主ですから「イエスが救われる」と言うのは逆におかしな話になると思います。
それから「逃れようのない過酷な運命」ではなくて「自分から過酷な道にわざわざ飛び込んで行った」と考える事もできます。「そのような道を行かなければ人類を救う事ができない」と言う事が分かっていたとすれば、楽に行く道があったとしてもむしろそれを拒絶すると思います。
貴重なご意見をありがとうございます。
「救い主が救われる」という逆説的な観点のご指摘、確かにその通りです
イエスが自ら過酷な道を選んだという考え方は人間イエスとしての強い意志や信念を表すと感じ、新たな視点を得ました。
ただ、「自ら過酷な道を選ぶ」という部分について、しかし、一方で、イエスは人間としての感情や葛藤も抱えていたとしたら、
イエスは、神としての使命と、人間としての感情の狭間で苦悩していたのでしょうか。
No.3
- 回答日時:
結論から言えば、神学的ないし信仰的な意味からも常識的な意味からも「あるに決まってる」と言う結論にしかならないと思います。
三位一体とはザックリ言えば「神=イエス=聖霊」と言う事でしょうから、だとしたら「神の人格=イエスの人格」と言う事になるはずです。また神学や信仰と言う観点からでなくても「神の意思通りに行動している」と言う事は必ずしも「イエスの意思ではない」と言う事にはなりません。神の意思通りに行動する事がイエス自身の意思だったと考えれば「イエスに意思(≒人格)はない」と言った突飛な結論にはならないと思います。
ご回答ありがとうございます。
三位一体の概念を分かりやすく説明していただき、大変参考になりました。イエスが自分の人格と意思により神と同一の意思を選んだから、ヤハヴェと同一であるという解釈は、確かに論理的です。
ただ、個人的には、神であれば、そのような苦しみを経験する必要はないように思えます。
アダムが犯した原罪の贖罪であるという解釈も知っていますが、アダムが過ちを犯すことを見逃した神のミスをイエスが、なぜ人間として苦しみ、死ななければならなかったのか。
「神の意思を自らの意思として完全に受け入れる」という状態は、一般的な人間の「自己決定」とは違うようにも感じ、イエス自身がその道を選ぶ際に感じたであろう苦悩や葛藤について、もう少し詳細な文献や解釈を知りたいと感じます。

No.2
- 回答日時:
キリスト教の大多数の宗派が、イエスの人格を認める。
三位一体は、三つで一つであり、しかも位格は同じかつ区別が可能という謎かけみたいな解釈です。
これは、3〜4世紀になって後付けした解釈です(ニカイア公会議)。
神でありながら人間でもあるという矛盾を、無理やり説明づけようとして当時の神学者が「考案」した概念。
神性と人性の二つを持つという解釈が成り立つ。
これなら、多くの神学者を苦しめてきた、例の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」も説明が付く(付いてるとは、まったく思わないけど)。
史実としてのナザレのイエスは、三位一体を提唱していない。
また、現在の聖書は解釈と編纂を重ねているので、ピュアな原典ではないという点に留意すると、「考えても無駄」って気がします。
ご回答ありがとうございます。
三位一体に関する歴史的背景や解釈について、詳細な説明をしていただき、大変参考になりました。
確かに、キリスト自身は三位一体を解いておらず、後付けされたものであるという事に気づかされました。
また、史実としてのナザレのイエスと、解釈や編纂を重ねた現在の聖書とのギャップがあるという事、神性と人性の両面を持つという解釈も、一つの考え方として理解できました。
「考えても無駄」というご意見も、一つの考え方として理解できます。
様々な角度からのご意見を参考に、今後も自分なりに考えを深めていきたいと思います。
この度は、詳しくご説明いただきありがとうございました
No.1
- 回答日時:
私の知識は、幸福の科学での大川総裁によるキリスト教の解説とか、いくつかの「イエス・キリストの霊言」書によるものとなりますが・・・。
質問者さんのキリスト教への疑問ってのは、もっともだと思います。あくまでも、イエス・キリストは、シッタルダと同じく、人間としての人生・人格で最後まで生きたわけです。その途中、イエスはエジプトやインドで学んだ秘術を使って、聖書にあるような奇跡を起こしてみせた部分が普通の人との違いになります。
そして、地球神のエル、ユダヤ民族神のヤハウェは、イエスを指導する神であり、イエスとは別の神格存在となります。
このあたりは、大川総裁によれば、キリスト教徒においても、誤って理解している部分だと言われていたと思います。
ご回答いただき、ありがとうございます。詳細な解説をしていただき感謝いたします。
「幸福の科学」大川総裁の解説に基づいた教義の視点からのご説明、大変興味深く読ませていただきました。
キリストがエジプトやインドで秘術を学んだという説は、初めて知りました。
地球神のエルやユダヤ民族神のヤハウェが、イエスを指導する神であるという解釈も、新約聖書にはありませんが、多様なキリスト教観の一つの形として興味深いです。
シッタルダと同様に、イエスも人間としての人生を全うしたという視点、大変興味深く感じました。
今後も、様々な宗教の解釈や思想に触れて、自分なりの理解を深めたいと思います。
この度は、貴重なご意見をありがとうございました。
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