
思い浮かぶ過去三度とは、
西暦663年夏に起きた白村江の戦い
西暦1592年と1597年に起きた秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)
西暦1937年に起きて1945年の敗戦で幕を閉じた日中戦争
白村江の戦いでは、中国征服の意図はなかったと思いますが、秀吉の朝鮮出兵と日中戦争の目的は中国征服だったと思います。
一方、元寇でわかるように大陸からの日本侵略もことごとく失敗しています。しかし、東方のアメリカには敗れ征服されています。
ユーラシア大陸の西の端にあるイギリスも島国で、大陸への進出・侵略、大陸からの侵略と言う点では日本と似たような歴史を有しており、第二次大戦中にヒトラーに征服されなかった数少ないヨーロッパの国になると思います。なにか共通の理由があるかもしれないと思いましたが、わかりませんでした。
質問です。
日本は過去三度、朝鮮半島に進出・侵略して三度とも失敗していますが、共通の原因というか法則のようなものがありますでしょうか?
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
①情報の軽視
②補給の軽視
③外交の軽視
日本は島国で、隣国の朝鮮や中国も割と閉鎖的な国だったので、外国についての知識が圧倒的に不足していました。
また、ふだんは戦いは国内の内戦で、情報は割と豊富でしたし、補給は現地調達でも可能な場合が多く、外交は日本人同士なので気心の知れた者同士でした。
それが国外なので言葉も通じない。相手の外交習慣もよくわからない。地図程度は手に入っても、どういう土地なのか気候はどうなのかなど戦いに重要な情報は何もない。補給も現地で平和裏に調達可能なのかもわからない。
以上が情報軽視、補給軽視、外交軽視という三大敗北要素のエッセンスとなります。
白村江なんて、現地が干満の差が非常に激しい世界有数の干潟だったことを知らずに船で乗り入れ、多くの船が身動きできない状態になってから攻められて大敗を喫したようですから、わざわざ負けに行ったような戦いだったようですね。
「なるほど!」と思う回答をありがとうございました。
情報は、通商をベースとしたスパイ戦のような気がするのですが、日本はかなり未熟だったのではないかと思います。
補給と外交については、確かにその通りだと思うのですが、なんで同じこと繰り返したのだろう、と思います。
No.10
- 回答日時:
>共通の理由
軍事で常に成立することとして、渡河作戦の場合でさえ、5分の兵力では防御側が有利。
現代でも、たとえばウクライナの西部戦線では、ドニプロ川が境界となっており、ほとんど戦線変化なし。
※一時的に、ロシアはドニプロ川を越えたが、押し戻された。ウクライナも渡河して橋頭堡までが限界で、先に進めるほどの物資輸送ができていない。
海は、当然ながら、大河より強力な、自然的な防御地形として機能。
よって、
大陸→島への進出は国力に大差があって初めて成功。(第2次大戦の英独程度の差では不可能。)
島→大陸への進出は、そうでもない。
大陸国は、他国が陸伝いに攻めてくるのを守る関係で陸軍に重点を置かざるを得ません。
島国は、海軍に重点を置けば守りはokだし、大陸国を荒らしたり一時的橋頭堡を築くには、そこまで困難ではない。
大陸国は、海岸全部を守るために陸分は分散配置されるから。で、大陸国が陸軍を集中してきたら、さっさと撤退し別地点を狙えばよい。
つまり、
大陸→島への進出 は、失敗したら遠征軍は全滅。
島→大陸への進出 は、失敗しても戦闘の死者のみ。
なお、半島国家は、島と大陸の中間的性質を持つ。
--------用語の定義
質問者の質問内容は、用語の定義が書かれていません。
以下のとおりとします。
・進出
征服や侵略と同義。政治的な「併合」や、経済的な進出は含まない。
※日韓併合を、質問者さんは進出としてカウントしていないので
除外せざるをえない。
・征服
ヒトラーの征服期間は、ポーランド6年、フランス4年。
GHQの日本統治は7年。
以上より、4年以上の占領を以て征服とする。
※これにより、倭寇のような行為は「4年以上の占領」ではないので
進出に含まない。
・日本は朝鮮半島に進出
これって、「朝鮮半島に進出後に、その先に進出」は含まないと思うが.....
質問者さんの用語が矛盾しないよう、大陸進出と読み替える。
・全滅
戦闘人員の3割以上喪失を言う。(軍事での定義どおりに使用する。)
--------用語の定義に従った場合の質問者さんの意見の矛盾点
・日中戦争(1937~1945)
用語定義により、これは進出成功なんでは?
そうしないと、ヒトラーの征服も無効になる。
GHQの7年も無効。
なお、占領期間を設ける李通ですが。倭寇は最初から略奪目的だから、
軍事的に、倭寇が進出成功となる。
・日本の大陸進出、の数え落とし。
日清戦争、日露戦争、満州事変。 3回とも、質問者さんの定義なら「成功」。
これは、「自説補強のための意図的な数え落とし」と思われても仕方ないと思う。
※ノモンハンと張鼓峰事件は国境紛争であり全面戦争でないので含まない。
※シベリア出兵は、政治介入なので含まない。
※日清戦争は釜山上陸、日露戦争は仁川上陸なので、どのみち朝鮮半島に進出 に該当。
・大昔の戦争をどうカウントするか
倭寇、刀伊の入寇 ノーカンなのは同意します。
・古代の戦争をどうカウントするか
神功皇后の3韓征伐
好太王碑における、倭と高句麗の戦争
※新羅の歴史書に新羅と倭との戦争が何回もあったことが書かれている。
騎馬民族説
※近年は下火。
疑問視されている事項ばかりなので 、全部無視でもいいです。
あと、4年以上の占領を以て征服 も、大昔にまで摘要する必要は無いと思う。
でも、いくら何でも、100年以上支配下に置いたなら、それは成功でしょ?
※でないと、元は中国統治してないとか、そいう話になる。
------------なぜ、私が用語定義にうるさいか。
普段から仕事で、「許可と認可と承諾は、どう違うか」と使い分ける職場だから。
※私は測量設計会社。設計サイド。つまり、歴史はシロートです。
それはそうとして、過去質問で無茶をされたから。
これ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13932828.html
ここで、
>前回の質問では遣唐使船から秀吉時代の船について、ほとんどの回答者がオールで漕ぐ船と誤解
と書かれているのだけど、前回質問とはコレ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13916445.html
回答は5回答3名で、全員(=3名)、
>櫓で漕ぐ船があるのは知ってる。
私(回答No.2)は
>日本での櫓の使用は諸説あれど、奈良~鎌倉初期。
と書いたので、秀吉時代の船で櫓の使用はされていた趣旨であるのは明白。
で、質問文には、いつの時代の話なのか明確ではない(「なみはやプロジェクト」のことを例示しているので、私は古代船(準構造船)のことだと解釈))
ところ、いつの間にか
>秀吉時代の船について、ほとんどの回答者がオールで漕ぐ船
という、わけわかんない状況が付加。それは後出しであり、論理としてありえない。
----史実と矛盾....当該質問は締め切りなので。
>https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13916445.html のNO.2コメント
>和船がガレー船のようにオールを使うようになったのは江戸時代になってから
その手のソース見たことない.....
というか、それならヘダ号が櫓なのは論理的におかしくない?
※オールにもメリットがある、という論理となる。
※※また、オールでもいいなら、それ、帆走主体となった、ということじゃね?
※※※江戸時代(後期)の千石舟は、逆風でも帆走できた。(縦帆より効率が悪かっただげ。)
※※※戦国時代の南方航海用の舟はジャンク帆その他を持っていたから、当然、逆風でも三角帆と同等効率で帆走できた。
No.9
- 回答日時:
日本とイギリスという島国の共通性を見いだしたいと思っているようですが、これらも異なります。
イギリスはアングロサクソン系とケルト系の多民族国家であり、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドという4つの国の連合体です。
その中心になっているのがイングランドですが、11世紀にフランスの北部、ノルマンディーから進出したゲルマン系のノルマン人(今のデンマークに祖を持つ民族)、ウィリアム1世によって、アングロサクソン人の国が滅ぼされ、それ以降アングロサクソン人が王として支配することがなく今に至ります。
現在のチャールズ3世も、父方はゲルマン系でギリシャ王家の血筋を持つエディンバラ公フィリップ、母方は同じくゲルマン系のウィンザー朝のエリザベス2世で、アングロサクソンの血を引いていません。
ただ、最初の后だったダイアナがアングロサクソンの血を持っていることで、現在の王太子であるウィリアムが即位すれば、ウィリアム1世によって征服されて以来、初めてアングロサクソンの血を引く王が誕生することになります。
つまりイギリスは1000年近くも「外国人」に支配され続けた国と言えます。
もっといえば、エリザベス1世がなくなってゲルマン系の王朝が途絶えた後はスコットランド王家に支配される形になり、それも途絶えるとドイツ北部のハノーヴァー家から王を招き入れています。
イギリスは王家の断絶によって完全な共和国になるチャンスがあったのにそれを望まなかったのは、清教徒革命によって成立した共和国時代の失敗のトラウマを引きずっていたからとも言えます。
それでもマグナカルタや名誉革命によって実質民主主義になっていることを考えると興味深いと思います。
一方で日本は、最近の研究で、4世紀頃に近畿地方にいる豪族(王)たちが集まって連合国家を作り、そのトップとして、疫病への体制を持つと言われる一族から、疫病の広まりを阻止をするため神に願いを行う「神主」のような役割として「大王」(おおきみ)を擁した事が始まりだとされています。
その後大王が「天皇」と称号を改め、現代に至っているとみています。
第二次世界大戦での講和条約によって連合国の支配下になってからサンフランシスコ講和条約による独立国家としての回復の期間を除けば、日本という国家体制は1600年以上続いていることになります。
ただ、天皇が直接支配する時代は短く、その多くは豪族、貴族による合議制、武士による幕府という実質の政治機関による支配、明治前期の武家による合議制を経ての議院内閣制にいたり、実質的な民主主義になっています。
大まかに見れば、日本もイギリスも君主制から民主制に変わったと見ることが出来ますが、日本は遙か昔から限定的な民主制国家と見ることも出来ます。
No.8
- 回答日時:
いつかは成功すると何度も繰り返して進軍したのが日本側。
来寇される度に押し返しに成功勝利と書くのが新羅に始まる朝鮮側。
何度戦っても不成功で日本側は無念だったのでしょうね。
第2次大戦後は永い戦が終わって日本側は平和ムード。
それに比べて朝鮮側は國が2つに分断されて南北別々ですね。
同じ民族というが、陸続き故の異なる多氏族らの対立の結合体と見たほうが
いいかもね。今の朝鮮側は休戦状態で今に至るということですね。
ともあれ、漸く戦は終わっても、日本側は北朝鮮拉致問題でいつまで経っても未解決のまま、時間切れ狙う裏切り繰り返すのが拉致問題。
南朝鮮というべき韓国は竹島不法駐留状態ですね。
拉致問題については北朝鮮側は嘘を繰り返して時を過ごす悪党民国というべきか。韓国側は政府的対立有れど、国民の一部は日本に来て活躍者もいますね。まあ本土にいて平和に過ごせた人々は幸せ、朝鮮側に捕まって日本に帰国できずに多くの人が死んでいった。こうしたことに巻き込まれた人々は不幸というべきか。
朝鮮に行って、帰国出来た人はごくわずか。多くは向こうにいて帰国の夢見ながら生涯終えた人多いのでしょうね。日本本土では家族を拉致されて
帰ってこないねで嘆くまま生涯終える遺族達は哀れですね。
今の日本は小泉中途半端のまま、何かそこだけで騒いでいる人多いですね。
質問者さんは3度というが、その程度では済みませんな。
No.6
- 回答日時:
#2さんの回答に一票です。
#2さんの回答に記載されていない「白村江の戦い」を捕捉回答します。
660年8月、百済滅亡し、百済の遺臣、鬼室福信・黒歯常之・僧道琛らが
百済復興の為、倭国に人質でいた百済王の太子豊璋を返すように求められ
同時に援軍の要請が有り斉明天皇が承諾しました。
倭国は失った南韓の権益の復権の事が有りました。
援軍は派兵27000人、船舶800艘で当時の国家規模からは破格の陣容です。
百済遺臣軍は太子豊璋がお馬鹿だった事もあり、足並みが揃っていず、
派兵の直前に太子豊璋は軍事の中心鬼室福信を殺害したのです、
鬼室福信の案内が頼りだった倭国軍は黄海の潮の満ち引きの大きさ
を知らず、船が浅瀬に乗り上げ動きが取れず、唐の水軍に大敗したのです、
唐軍は50年前に百済を攻めた時に黄海の干満の差に苦戦したので、
準備していました、水軍が大敗したので南韓に上陸した倭国軍は
引き上げるを得なかったのです。
兵士10000人、船舶400艘を失う結果でした。
「敵を知らず、己もしらず」の、孫子の兵法と真逆の事をしたのが、
大敗の要因です、情報は今も昔も最重要なのですね。
大東亜戦争では大日本帝国陸軍は、「彼を知り己を知れば百戦殆からず」
をせずに、同じ伝を犯してしまいました。
「白村江の戦い」の詳細を記録して分析していれば、様子が違ったのかも
知れません。
中華王朝から様々な事柄を学びましたが、記録・分析の大事さを学ばず
記録する処か隠蔽体質に成り、日本国、最大の欠点になりました。
令和の世で改めたい処です。
№2さんの回答と同意見とのことで、白村江の戦いについて補足説明ありがとうございます。
また、過去に中華王朝から学んだ様々なことについて、記録・分析の大事さを学んでいない、という独自の視点もありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
白村江の戦いでは、本来日本軍は戦力から言って負ける戦ではありませんでした。
ところが、白村江の海岸はぬかるみがひどいムツゴロウのいる有明海の様なドロ地で、足がとられて満足に戦えなくて負けました。敵の戦略に負けた感じです。朝鮮出兵は、当時スペインが東南アジアの植民地化を進めていて、フィリピンまで進んでいました。フィリピンって国名、あれはスペイン国王フィリップの国という意味でフィリピンとスペインが植民地化した当時に名付けた名前です。そして、次に狙うのが明でした。もし明がスペインに植民地化されたら、かつての元寇で、最初は元の兵ではなく朝鮮の兵を日本に差し向けたように、スペインは先に明や朝鮮の兵を日本に差し向けて戦わせて、互いに弱ったところをスペインが全て植民地化するという計画でした。
また、日本の子どもたちがスペインの商人に乗せられて人身売買で売られていく姿を九州征伐で目撃した秀吉は、バテレン追放とともに対スペインとして明をスペインより先に取っておこうというのが朝鮮出兵でした。しかし、途中でスペイン海軍がイギリス海軍に負けた事を秀吉政権は知る事となり、スペインの無敵艦隊がアジアに来る事はないと知った秀吉政権は明を手中に収める必要がなくなり撤退したという事実があります。それを戦後教育では狂った秀吉が朝鮮に出兵したと教える事になります。
日中戦争は別に失敗してません。戦勝によって満州を譲渡されてますからね。
元々、天智天皇の時代から日本は朝鮮半島とは密接なつながりがあり日本の経済圏でした。そして満州も朝鮮半島とつながりが深く、以前から日本とつながりが深かった地域を日韓併合と合わせて日本が支配したという事です。別に中国全土を欲しがっていた訳ではありません。中国南部はまた民族が違いますからね。
でもまぁ、縄文時代に縄文人がアカホヤの火山噴火で西日本に住めなくなり揚子江河口に移住したという歴史もありますが、でも彼らのほとんどは弥生人としてまた日本に帰って来ていますから、そこはあまりつながりが深い地域とは言えませんね。
No.3
- 回答日時:
>朝鮮半島に進出して三度とも失敗していますが、共通の理由がありませんか?
#2さんの回答を踏まえると「朝鮮半島進出は成功しているといえる」のです。質問者様の疑問への答えは「日本が半島だけでは飽き足らず、大陸内部に入ろうとするとことごとく失敗する」です。
実はこれイギリスも同じなんです。イギリスはフランスの直系断絶に際して、英国にいるフランス王家の系統を主張してフランス王朝のお家騒動に入っていきます。
しかし、結果的にイギリスは敗退します。渡海による兵力では分厚い大陸側の兵力に対抗できなかったからです。
日本の場合も「半島の兵力」だけなら、日本は勝てます。
白村江は唐が軍隊を派遣するまでは倭国連合軍のほうが優勢でした。
朝鮮出兵でも漢城までは落とせた秀吉の軍隊も、遼東半島付近まで南下した明軍とは膠着状態になり、秀吉が死去したことで撤退しました。
明治の時はたまたま中露の戦略的要衝が遼東半島であり、日本にとっても重要で、そこを押さえたから朝鮮併合は上手く行きました。
そこでやめとけばよかったのに、満州進出して箍を外したために「大陸」というブラックホールに飲み込まれて最終的に戦争に負ける要因になったのです。
>しかし、東方のアメリカには敗れ征服されています。
後世の戦略家で「大東亜戦争でアメリカと戦ったのが間違い」だったと指摘する人が多く居ます。実際陸軍は満州の権益を守るため大陸内部に入り込み「どこまで行っても終わりがない軍事侵攻」に嵌ります。
これはかつてローマもナポレオンも元軍も嵌った罠で、一言でいえばユーラシア大陸は広すぎて、全部を征服するのは無理、なのです。
日本人はこのことを知りません。
優秀な秋山好古は現地でそれを実感したでしょうが、司令部にいる連中に「大陸は広すぎる」とは言えなかったのでしょう。
大東亜戦争時も盧溝橋を渡った日本軍にとって少なくとも「勝ち」とするには、当時の国防戦略から見て、最低でも北京陥落できれば上海までの海岸線は抑える必要があったはずです。(北京付近から上海の海沿いまでは札幌から東京までの太平洋岸と同じ長さを占領する必要があります)
でも日本の兵力では全く不可能で、後から後から沸いてくる中国兵(国民党軍も八路軍もその他もいたでしょうが、人口は日本の5倍以上です)と戦うのは多勢に無勢だったといえます。
大東亜戦争時に日本海軍がアメリカと戦争せず、大陸沿岸に貼りついて陸軍をサポートしていたら清国を落としていたのではないか、と分析する戦略家もいます。
アメリカの物資製造能力は当時日本の30倍でしたから、ドイツ戦線が終了した後に日本を降伏させるだけの軍事力投入は可能であったわけです。
(アメリカの海岸線は西海岸も東海岸も、太平洋側の日本の海岸線よりも長いです。そこを防衛できるアメリカの国力があったから日本占領まで行けたわけですし、アメリカは3年間対日戦線も対ドイツ戦線も参加していた化け物国家です。)
以上のように振り返ったうえで、日本が大陸進出に何度も失敗する「共通の原因」は
「日本人は大陸の広さをイメージできないので《戦略的に適正な占領範囲が分からない》から」
です。まだこの先に土地があり敵がいるのに「ここでやめて守りに入るぞ!」という頃合いを日本人は見極められないのです。
中国人にしてもフランス人にしてもその他の大陸に住む人たちにとっては「明白な防衛ライン」があります。
つまり「自分達の民族が生きるための領域」が伝統的に理解されていて、その範囲が決まっているからこそ「民族」なのです。(ウクライナとロシアの戦争は、まさに《自分達が守るべき防衛ラインを取り合う戦争》です)
逆に島国人にとって「自分達が守るべき防衛ライン」は島の海岸線ですから、大陸に渡った時点で「どこまで攻めれば目的を達成できるのか?」で紛糾します。
そこに大陸側の援軍がやってくれば、目的意識・目標意識のない島国人が勝てるわけない、という事だと思います。
回答ありがとうございます。
共通の原因は、朝鮮半島までは大丈夫だったが、大陸の広さをイメージできていなかったから、ということですね。
No.2
- 回答日時:
認識が誤っていますが、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵したうち、文禄の役では日本側が漢城(現在のソウル)の占拠に成功し、日本側優勢の状況で休戦、講和交渉に入りました。
しかし交渉が決裂(明が秀吉を家来扱いしたため)して慶長の役に入りましたが、その最中に秀吉が死去し、政治の代理を務めていた五大老の決定によって撤退しました。
もし秀吉が存命であった場合、更に軍事投入が行われ、李氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島が日本領になった可能性は高いでしょう。
場合によっては明にも侵攻し、明の滅亡を早めた可能性もあったでしょう。
もうひとつ、日本は1910年に大韓帝国(もとの李氏朝鮮)と併合条約を結んで、1945年までは日本領でした。
第二次世界大戦での敗戦による講和条約により、台湾や満州と共に朝鮮半島を放棄せざるを得ませんでした。
共通の法則についてですが、そんなものはありません。
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この質問には、共通の理由や法則などない、という回答も含めていろんな回答があると思うのですが、「ナルホド!」と思えるような回答に出会えたら・・・と期待しています。
また、私が知らなかった歴史の事実を教えて下さる回答者にも期待しています。
多くの回答をいただいたのですが、
島国日本の大陸進出を阻んだ理由という視点で回答していただいたのは、以下の二つのみと感じました。
・共通の理由などない(ただし、その理由は不明)
・(島国ゆえに)大陸の広さをイメージできなかったから
これ以外は、
大陸と島国に特化していない、一般的な視点のような気がします。
また、私の歴史認識とは全く異なる独特な歴史認識の方が多いようにも感じています。